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六年ぶりのあの日をもう一度

Summary:

本編ラストで死んだギジュンが、ギソクが死ぬ前に時間を遡るお話です。
何としても弟を救いたいお兄ちゃんがハッピーエンド目指して奔走します。
ギソク総受けなので、ヘボム、グムソン、ジュンモもギソクに矢印を向けている描写が入ります。
とても長くなりますので、ごゆるりとお付き合いいただけると幸いです。

Notes:

注意事項をお読みください!

○ネトフリドラマ「広場」の二次創作です。
○兄×弟の近親相姦です。
○ギジュン×ギソクをメインに以下カップリングが含まれます。
・ギジュン+ヘボム×ギソク
(性行為有り)
・ヘボム×ギソク
(性行為有り)
・ジュンモ×ギソク
(性行為なし)
・グムソン×ギソク
(性行為なし)
・ヨンド×ギソク
(性行為なし)
・モブ×ギソク
(性行為有り/強姦未遂)
○ギジュン+ヘボム×ギソクの
スリーサムエンドとなります。
○本編同等の暴力描写、ゴア表現があります。
○行為などの直接描写はございませんが、
未成年への性的虐待への言及、表現があります。
○以下過激なR指定描写が含まれます。
・結腸責め/♡喘ぎ/媚薬/キメセク/乳首責め
二輪挿し/潮吹き/複数人姦(3P)/凌辱
輪姦レイプ未遂/睡姦レイプ未遂/尊厳破壊
※未遂の定義は肛門への挿入です。
尊厳破壊が含まれる強姦シーンがございますのでお気をつけください。
○キャラクターの過去捏造があります。
○出てくるキャラクターの性格は全て自己解釈です。解釈違いにはご注意下さい。

以上、よろしければどうぞ!

Chapter 1: プロローグ

Chapter Text

 

「は…………は…………」
肺が機能するたびに、自分の呼吸が小さくなっていくのがわかる。四肢はもうピクリとも動かせず、吐息はかすれ、視界は歪んでいた。
ああ、ようやく死ねるのだと胸が軽くなる。
だが、そんななか、ふと、弟の幻覚が見えた。
こちらを見て、笑いかけてくれる弟の顔が。
すべてを捨てて兄と生きていきたいと告白する弟に、間髪いれずに同意する自分の姿も。
『ふたりでキャンプ場やろう』と笑った兄に、弟が照れくさそうに笑ってくれている。
――ああ。
なんて、身勝手な願望なのだろうと絶望する。
浅ましいほど、都合のいい幻覚だった。そんなこと一言だって言えていないのに、弟に笑顔すら見せなかったくせに、死に際の幻覚にそれを伝えて自己満足に浸って死のうだなんて――そんなこと。
――お前に、赦されるはずがない。ナム・ギジュン。
ほかでもない、弟を死に追いやったお前が。
幸福な未来を何度も阻んできたものを、一度だって回避できなかったお前が、絶望の底以外で死んでいいはずがない。
ああ、そうだ。
『二人で力を合わせて、生きていくんだよ』――そう言って笑った母に、必ず護ると誓ったくせに。
いつだって鮮明に思い出せる、弟が生まれた日の記憶。四月の陽気のなかに訪れた、祝福のようなその日。
七才の頃だった。初めてその顔を見た瞬間から、ギソクはギジュンにとって世界のすべてだった。この世界でただひとり信じられる、美しい生命だった。
母の腕に抱かれ泣いていた小さな赤子。その小さな命に、幼心ながらそっと手を伸ばしたあの日。生まれたばかりのギソクは見たこともない人間に怯えて泣いていたが、ギジュンの顔を見上げてしゃくりあげるのをやめ、人差し指を掴んでキャッキャッと笑ってくれたのだ。
『まぁ、やっぱりお兄ちゃんってわかるみたいね』
『……!』
優しく笑う母と、自分を見上げて屈託なく笑っている弟。この時間だけが永遠に続けばいいと思えるほど、あたたかな時間であった。
あの日から、ずっと、ギソクはギジュンの光だった。
決して失えない、ただひとつの生き甲斐だった。

――それなのに俺は、おれはギソクを独りで、

『ねえ、ヒョン。ずっとここにいられたら最高だね』
絶望で朦朧とする意識のなか、残り少ない時間を罪悪感が埋めつくす脳内で聴こえたのは、やはり弟の声だった。
まだうんと幼い頃、六つにもなっていない頃の、ギソクの声が。
これは二人でよく遊んだ近所の公園で、日が暮れるまで遊んだ日の思い出だ。
まだ母が生きていた頃。人生でもっとも平和で、幸福だった頃の弟と、自分。兄の脚にしがみつき、無邪気に笑ってこちらを見上げてきたギソクに十二の自分が抱いたのは、多幸感と無償の愛、それから、生涯消えることのない、俺に生き甲斐をくれた庇護欲だった。
――俺はこのとき、ギソクに、いったいなんて返したのだったか。
なんて疑問は、怒鳴り声をあげてこちらに向かってきた父親の姿を見て思い出した。
――ああ、そうか。このときも、俺は弟に何も返せなかったのか。
怒声が聴こえた途端に恐怖に染まった弟の顔。
これは決して、幸福な思い出の再生じゃないと思い知らされる。
これは、弟との幸福を阻むものを、排除してやることができなかった一番最初の記憶だった。
その次に聴こえたのは、弟が俺と同じ会社に入りたいと申し出た日の記憶。
『なぁ、ヒョン……会社は、辞めるつもりないんだよな?』
その質問の意味すらわからず酒を煽った俺に、弟は覚悟を決めた顔で『じゃあ俺も、ヒョンと一緒に働きたい』と見上げてきた日の記憶を。それに純粋に喜び、その日の内にジュウンに話を取りつけた愚かな兄の姿を。
殺してやりたかった、この日の俺を。
質問の意図など明らかなのに、兄と共に生きたいだけだった弟に性に合わない道を選ばせた。
阻めた悲劇を、俺は自ら手繰り寄せたのだ。
『本当に、辞めるのか。独りで』
次々に浮かぶ後悔の記憶に、ああ、もうやめてくれと苦痛が増していく。
それは十一年前、アキレス腱を切った日の夜の弟の声だった。
俺はそれに、明らかに傷ついていた弟に、兄と出ていきたいと願っていたはずの弟に、たったの一言、『ああ』とだけ返したのだ。
それ以上、弟が何も言えなくなるのなんてわかりきっていたはずなのに。
絶望が命の灯火を弱めていく。
最期に聴こえた弟の声は、やはり、あの夜のものだった。
決して許されない、最大の過ちの記憶。
『ここで働こうかな』
そう言って笑んできた弟に、一瞥しか返さなかった俺の無関心が、あの日、弟を、独り惨たらしく死なせたのだ。
涙があふれでる。どこを切り取っても、まともな人生を歩ませてやることができていなかった現実に耐えられず心が折れる。
弟は、こんな悲惨な人生を送るべきじゃなかった。
日の光が当たる場所で、誰よりも幸せになるべきだった。
――それなのに、俺がしくじり続けたばっかりに。
その強い慚愧の念は、最期、意識が途切れる寸前に俺に強く祈らせた。心から、ただひたすらに、弟の幸福を。

どうか、どうか――。

意識は、そこで途切れていた。
悔恨と絶望を抱いて、ナム・ギジュンの人生はその幕を閉じた。

Chapter 2: 【キャンプ場】

Summary:

すべてのはじまり。
最愛の弟が死ぬ前に時が戻ったことを知ったギジュンは、ギソクを含めた大切な人たちの命を救うことを決意する。

Chapter Text

永い眠りから醒めるように意識が浮上した。
ふと気がつくと、ギジュンは冷え込むキャンプ場にぽつんと佇んでいた。
「もっと早く聞けよ」そう告げて失笑する弟――ギソクに、ギジュンはバンのサッシを掴んだまま呆然と固まっていた。
眼前には見覚えのある光景が広がっていたが、脳の理解が追いつくまでにかなりの時間を要する。
それはそうだ。
――俺はさっき、死んだはずなのだから。
これは、なんだ。悪夢か、幻覚か。
硬直したまま動けないでいると、弟は気にした素振りもなく、何かを含めたような声色で口を開いた。
「――いつも気になってた。俺の代わりにオ会長のとこへ行ったとき、どんな気持ちだったか」
車に乗り込んだ弟が、目の前で聞き覚えのある話をしている。復讐のために死体の山を築き上げているなかで、何度繰り返し思い出したかわらない、それを。
――何度、後悔したかわからない、それを。
死に際、遥々逢いに来た弟に言ってやるべきだった台詞を幻覚に向けて言うほど、ギジュンはこの日の己の言動すべてを悔いていた。
六年ぶりに逢えた最愛の弟だ。もっとかけるべき言葉があった。もっと交わす言葉があった。
それなのに、俺は酒を煽るだけで、あいつの想いを汲んでやることさえしなかった。
ギジュンは、そのどうしようもない悔恨が己の涙腺を緩ませていくのがわかり、自嘲気味に嗤った。
――ああ。これが、俺に与えられた地獄なのか。
人生で一番悔いている瞬間を、何度も何度も体験させられる。なるほど、これは間違いなく最も苦痛を味わう最大の罰だと、ギジュンは記憶の再現なのであろう弟を見つめた。
もう触れることさえできない、自分のすべてであった弟を。
何を失っても、絶対に護りたかった最愛の弟を。
「でも、もう……聞かなくていい」
記憶の通りにこちらに視線を向け、やわらかく微笑んだギソクにぐっと口を引き結ぶ。
弟が何を考えて「これ」を口にしたのか、ギジュンは結局その真意を知ることは叶わなかった。ジュンモと揉めた後だ。そこでの体験で何か気づきがあったのかと思った。弟の忠実な部下・ヘボムは「ギジュンさんをバカされたから、兄貴はキレたんだと思います」と言っていた。
十一年前にスンウォンを殺したときも、ヨンドにそそのかされ、兄のために起こしていたことを最後に知った。あの音声を聴いた瞬間の壮絶な痛みは、弟の死を聞かされた際の絶望と似ていた。
ギソクの行動理由のすべてが兄であったことを彼の死後に知り、ギジュンの胸がどれほど引き裂かれたか。それ言葉に表すことはできなかった。
ギソクの死に関わった全員が死に絶えるまで、歩みを止められないほどには、罪悪感と灼熱の痛みが全身を焼いていた。
なあ、ギソク。お前は何でこのとき、「聞かなくていい」って言ったんだ?
すべてを捨て去って俺のところに来ると決めたからか?
聞かなくても理解できるようなったからか?
いや、そんなこと、聞かなくても、お前にはとっくにわかっていただろう。
――俺なんかのために、命を尊ぶお前が……人を殺めるほどなのだから。
弟が死んでから知らされた真実が、ギジュンの視界を歪ませる。ただひとりの肉親を、独り痛みと苦しみのなかで死なせてしまった現実は、ギジュンを冷徹な怪物から人間に戻すのに充分であった。
恋しさから無意識に伸ばされた手が、弟の肩に触れる。記憶の再現なのだ、何か変わるわけでもないことはわかりきっていた。
それでも、伸ばさずにはいられなかったのだ。
「――ああ……この服。今度返す。また会おう」
別れ際、弟と交わした最後の会話。いや、会話と言うのも烏滸がましい。ギジュンはギソクが話すのを聞いていただけで、なぜ遥々兄に逢いに来たのかさえ訊いてやりもしなかった。――引き留めて、「今日くらいは泊まっていけ」と言えていたら、何か変わっていたかもしれないのに。
その後悔の念が、ギソクの肩を掴んでいる手に凄まじい力を込めさせた。きっと弟が去るのを見送ったら、また初めから繰り返されるのだろうと朧気に考える。

だが、そこからギジュンの視界に映った景色は、決して存在してはならないものだった。

「い゛っ……ヒョ、ヒョン! 何だよ、痛いって……!」
「……、……なに……?」
突然顔を歪めて身体を捻った弟に、思ったよりも低い声が出た。弟の言葉に反射で右手を離したギジュンだったが、手のひらには確かに弟の体温が残っており、湧き上がった違和感に思考が勢いよく稼働しだす。
ギジュンの記憶が正しければ、いや、何度も苦しんだため間違いはないが、ギソクは確かに、こんなリアクションなど取ってはいなかった。第一あの日、ギジュンは弟に触れもしていない。――その体温を、革越しのスーツの感触を、すべて知るよしもないのだ。
これは干渉できる悪夢なのかと顔には出さずに狼狽えていれば、肩を外されそうになったギソクが困ったような顔で見上げてきた。
「この服……そんなにお気に入りなのか?」
「は?」
見当違いの台詞に素の声が出た。だが、は? と言いたいのはきっと弟のほうだったことだろう。別れの言葉を口にした途端突然兄に肩を虐待され、その兄は変わらずの仏頂面でなにも言わずに、その場で立ちすくんでいるのだから。
心臓がいやな音を立てて速まる。これは……これは、俺への罰ではなかったのか? ここは地獄で、救いを与える場所ではないはずだ。少なくとも、記憶に干渉し、知らない弟の一面を見せてくる意味が理解できなかった。
そのとき、脳裏に浮かんだ可能性。
――ここが、地獄じゃなかったら?
「……いや、あり得ない」ぼそりと声に出たそれ。それは、しっかりとギソクの耳にも届いていた。
「じゃあ、何でそんなに怒ってるんだよ……」
六年ぶりの弟に無愛想を貫きやっと車まで追いかけてきたと思えば、突然暴力をふるってきた兄にギソクはどうやら本心から不安を覚えているようだった。
だが、正直、ギジュンはそれどころではなかった。
何かするたびに記憶と変わっていく眼前の景色に、いっそ恐怖さえ湧いてくる。ここが地獄でないはずがない。そうだ、俺は間違いなく背後にある小屋の前で、弟の幻覚を見ながら悔恨のなかで息絶えたのだ。これが黄泉の世界での幻でなければ、いったいなんだというのだろう。
しかし、冷静な分析と同時に、季節も無視して汗ばんでいく身体が、本能が、目の前に広がる景色の真相を告げていた。
「……はぁ」耳に届いた弟の深いため息。ハッと意識を取り戻し視線を上げると、そこには自嘲気味に笑い、ハンドルをきつく握りしめているギソクの姿があった。
「ヒョン……そんなに俺のこと、恨んでたんだな」
「……!」
ギソクは眼鏡の奥の瞳を、苦しげに歪ませていた。そんな弟を見て、ギジュンは確信せざるえなかった。
「……っ」背筋が粟立ち、冷や汗が滲む。
ああ、そんな。あり得ない。
――これは、現実だ。
俺のなかの弟は、絶対にこんなことを言ったりしない。……言わせられる、わけがないからだ。
気づけば運転席のドアを乱暴にこじ開け、弟に飛びつくように抱きついていた。
「えっ……!? な゛、なに……」
「……ッ、ギソク」
涙がこみ上げる。六年ぶりどころじゃない、最愛の弟の体温が全身に伝わっていく。生きている――確かにそう感じられるあたたかさがそこにあった。
ギソクは無理な体勢で抱きつかれバランスを崩して助手席にまで倒れかかっていたが、しっかりと兄の背に腕を回してくれていた。
「ヒョン……?」
不安を乗せた声が車内に響く。ギジュンは弟の品のいいフレグランスの匂いを深く吸い込みながら、二度と抱けないはずだった身体を強く抱き締めた。
これが、神の采配でも悪魔の采配でもかまわない。ギジュンは無神論者だったが、弟を取り戻せる可能性があるのなら、なんにだって膝を折ってやると奥歯を噛み締める。
弟が死ぬ直前からやり直せるとしたら、これほど絶好のチャンスはないだろう。
これを逃すわけにはいかないと、ギジュンはもう二度と手放したくない弟から覚悟を決めて身を離し、抱かせてしまった誤解をまっさきに訂正した。
「俺が……お前を恨むわけがないだろ、ギソク。そもそもあれは全部、自分で勝手にやったことだ」
俺のエゴで弟にどれほどの苦労をかけていたか。弟の死の真相に近づくたびにそれを思い切らされたギジュンには、十一年前の事件で顔を曇らせるギソクなどもっとも見たくないものだった。
すべてが始まった原因。ギソクがスンウォンを殺したあの事件が、ギジュンを消すために起こされた計画だったと知ったとき――ギジュンは、復讐がなければその場で自死を選んでいたほどに、絶望したのだ。
もし、ギソクを組織に入れなければ、弟は今も生きていたと知らされて。
ギジュンが裏社会に入った時点で、その弟が危険に晒されることは目に見えていた。ギジュンとて、ギソクを襲ったヒチャンの弟、それも未成年の少年を暴行し、脅したのだ。裏社会の身内は、カタギだったとしても無事では済まない。そんなこと、冷静に考えればわかる話だ。
――それなのに、俺はあろうことか、弟を同じ組織に引き込んだ。
弟自身が入りたいと言っていたのは確かだったが、それを言わせていたのは間違いなくギジュンだった。兄を護るために手も汚せた弟のことだ、心配ゆえに放ってはおけないのは明白だ。
ああ、そんなこと、わかりきっていたはずなのに。
結果、弟は幸福を手にする前に惨たらしく殺された。せめて弟の代わりにケジメをつけて辞めるとき、ギソクも連れて出ていくべきだったのだ。
なのに、俺はそんなことすらしなかった。自業自得だ。
すべては俺のせいだった。後悔と自責の念に押し潰される。もし、もしも、あのときこうしていたならば。なんて、考えてもどうにもならない悔恨を抱えて生きるには、弟のいない世界はあまりに価値がなさすぎた。
だから、命が尽きるその瞬間、ギジュンはこの上なく救いを感じたのだ。
ああ、ギソク、俺は、お前と同じ場所へ逝けるだろうか?
兄の命を護るために一人の命を奪ったお前と、弟の殺しに関わった奴、それに加担した奴、味方せざるえなかった人間の命を無慈悲にひとつ残らず狩り獲った俺は、お前と同じ場所に……逝けるのだろうか。
なんて、それが叶わぬ願いだということは、わかっていた。
もう二度と逢えないと、そう思っていた。それでも、弟が生まれ変われるのなら、俺があいつの奪った命も背負うから、天国があるのなら弟だけはそこへ送ってほしいと心から願った。
どうか、どうか。弟だけは救ってやってくださいと、ギジュンは一度だってその存在を信じもしなかった神に、最期の瞬間、強い祈りを捧げた。
そうして意識を手放した先にあったもの、――それが、今、ギジュンの目の前に広がっている光景のすべてだった。
やりなおせと言うことか? ギソクが救われてほしいのなら、己の手でやり遂げてみせろと、そう言いたいのか?
いや、神の意図など無神論者の俺にわかるはずもない。
知るよしもないが、目の前に弟がいて、確かに生きて存在している。
――ならば、することなどただひとつだった。
ギジュンは押し倒す体勢になっていた弟の腕を引いて起こし、不安に揺れている弟の頬に優しく手のひらを添える。
たとえこれが生と死の狭間に見ている夢だったとしても、現実ではないとしても、ギジュンはもうギソクを失うわけにはいかなかった。これが偽りの世界でもかまわない。ただ、弟を救いたい一心だった。
――この手で弟を救えるのなら、世界を焼き払うことになってもかまわなかった。
「ギソク」名を呼ばれ、ギソクがギジュンを見上げる。
死ぬ前に弟にかけてやれなかった言葉は、いまや、彼に必ず伝えなければならない強い想いへと変わっていた。
「すまなかった。――十一年前、お前をあんなところに置き去りにして」
「なん、」
「お前も連れて辞めるべきだった。俺が引き入れたんだからそうするのが筋だったのに……俺は、お前を独りにした。今さらすぎるが……悪かった、勝手に身代わりになったこと」
「……ヒョン」
ギソクは泣きそうな顔で眉間に皺を寄せ、「なんで今、しかも……今日にかぎって、そんなことを言うんだよ……っ」とギジュンから視線を逸らしてハンドルに額をつけて項垂れた。
ギソクからしてみれば、十一年堪え忍び、ようやく足を洗って兄と暮らそうと決断した途端に、兄本人から、その月日の後悔を告げられたのだ。怒りくらい湧いたって致し方ないことだった。
だが、ギソクは怒っていたのではなかった。微かに震える肩が、ギジュンにそれを教えてくれていた。
ギソクが泣くのを我慢するときに起こる癖であると、兄であるギジュンにはよくわかっていた。
泣いている。俺の弟が。まだ実際に泣いているわけではなかったが、自分の発言のせいで弟に涙を流させることなど許容できなかったギジュンは、再度震える肩へと手を伸ばした。
けれど、それよりも、ギソクが口を開けるほうが早かった。
「ヒョン」唐突に呼ばれ、指先が宙でその動きを止める。不格好な体勢で制止したギジュンが、弟に視線を下ろした。
ギソクはハンドルに額をつけたまま、表情もわからぬ姿勢で「それ」を口にする。
「俺……本当に、ここで働いてもいいかな……すべて捨てて」
「……っ」
視界がぐらりと揺れ、脳が激しく波打った。ハンドルを握るギソクの手には力が入っており、兄からの拒絶を強く恐れているのが伝わってくる。動悸が激しくなり、呼吸が乱れる。それはそうだ、そうだろう。
「この会話」は、ギジュンが悔いてやまない後悔のすべてなのだから。
咥内が干上がっていくのを感じながら、ギジュンは宙吊りになっていた腕を再起動させて弟の震える肩に触れた。そして、震えそうな声で告げる。
――言ってやれずに絶望した、最愛の弟が望んでいたただひとつの返事を。
「ああ……、俺はもちろん、かまわない」
ピクリ。ギソクの身体が揺れ、ゆったりとハンドルから頭が上がる。眼鏡越しでもはっきりとわかる濡れた双眸が、期待に揺れながらギジュンだけを見上げていた。
ギジュンはその瞳をまっすぐに見つめて、それを告げた。
「すべて投げ出して、一緒にキャンプ場やろう」
「……っ」
ギソクの目尻から涙がこぼれ落ちる。それがあまりにも美しくて、思わず雫の流れたそこに唇を寄せた。
ギソクは、嫌がらなかった。ただ、頬に口づけて離れた至近距離にある兄の顔を、しばらく物欲しげな顔で見つめていた。
一瞬、理性がぐらつきかける。劣情に近い、理解しがたい感情が湧いた。冷や汗が背筋を伝う。それに名前をつけてはいけないという強迫観念が、咄嗟にギジュンに弟との適切な距離を守らせた。
――なん……なんだ、今の……感情は。
猛烈に、『キスをしたい』と思ってしまった。兄弟のキスではない、食い荒らすような激しいキスを。
――六年前に犯した、記憶の底に封じて無かったことにしていた一夜の過ちの影が、突然脳裏を過った。
「――……っ」
ダメだ――壮絶な拒絶反応が、いったい何を考えているだと湧いた雑念を振り払う。目の前にいるのは、血の繋がった実の弟だ。世界の何よりも愛しい、庇護すべきたったひとりの兄弟だ。決して劣情を抱いていい相手じゃないとギジュンは即座にかぶりを振り、泣いている弟に対処するため意識を明瞭にする。
そうだ、今は余計なことを考えている場合じゃない。弟を救うために、やるべきことが山積みなのだから。
蘇ったばかりといってもいい脳のバグだと言い聞かせ、意識を切り替える。車の中から身を外に出し、運転席の弟を見下ろした。離れていった兄をギソクはしばらくそのまま見つめていたが、無言で立ち尽くすだけに戻ったギジュンに吹っ切れたように涙を拭った。口元に笑みを浮かべて、ギジュンを見上げる。
「急に何を言い出すんだよ、もう……。冗談じゃないよな? 俺は本気だぞ、ヒョン」
本気だと口にしながら、ギソクの瞳は拒絶に怯えていた。
ギジュンは前回気づけもしなかったその色に胸を締めつけられる。
いったい、どんな想いで「ここで働こうかな」と口にしたのだろうか。弟の自宅に置いてあった、キャンプ場を経営するためのイロハが書かれた本が記憶に思い起こされる。兄と共におだやかな余生を楽しもうとしていた、弟の姿も。
――もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
「俺も本気だ、ギソク」これは決して冗談などではないと、ギジュンは真剣な声色でギソクに断言した。「これからはずっと一緒にいよう、兄弟ふたりで」
嘘偽りない本心を開示する。
ギソクは兄を見上げ、強く眉間に皺を寄せて泣きそうな顔をしたあと、諦めたように破顔した。それから、まばゆいほどの笑顔で、ギジュンに視線を向ける。
「もう……ホントいつも勝手だな、ヒョンは」
「……!」
弟が、ギソクが、笑って俺を見上げてくれている――たったそれだけで涙腺が崩壊するのを止められなかったギジュンは、ギソクと同じように涙を流して笑った。
「ああ……、不出来な兄でごめんな。ギソク」
突然の兄の涙に目を丸くしていたギソクだったが、それを茶化すような男ではなかった。勇気出して逢いに来てよかったよ。そう呟いた弟にギジュンも同意し、泣くのをやめて笑顔を浮かべる。
「お前が越してくるなら、小屋も拡張しないとな」
「フフ、気が早いぞヒョン。でも……ここでふたりで暮らすのは最高だろうな」
フロントガラスから森を見回して、ギソクが微笑む。その弟の横顔は、ギジュンが何よりも望んでいたものだった。
ギソクは大きく深呼吸すると、ハンドルに左手を置いてギジュンを見上げた。
「今日はありがとう、ヒョン。イ会長にもう一度話してみるよ。辞めれる目処が立ったら、また連絡する」
ギソクは晴れやかにそう言って、「あ」と羽織っているジャケットに視線を向ける。
「これ、借りてってもいいだろ? 次来たときに返すよ」
眼鏡の奥で、弟の瞳が嬉しそうに弧を描く。「次」を期待する希望がそこに揺らいでいた。
「――――」
それを見て、背筋が凍りついた。世界から一気に色と音が抜けていく。
――その「次」が、本来訪れることがないことを知っていた。
「じゃあ」という声と同時に、車のエンジンがかけられる。ギソクの視線もギジュンから外された。
脳裏に浮かぶのは、霊安室で、冷たく横たわっていた弟の遺体。身体中に傷を負い、苦しんで死んだだろう護るべきただひとつの命が。
――ダメだ。
理性よりも先に、本能がギジュンの身体を動かした。
ほとんど反射的にハンドルを握り、車の発進を阻止する。あまりの瞬発力に、ギソクの身体は驚愕で弾んでいた。
「な゛っ、なに――」
「俺も行く」
「……は?」
「俺も行く、一緒に……!」
切羽詰まった兄の様子にギソクの顔に陰りが差す。ギソクから見れば、ギジュンの様子は情緒不安定どころの話ではなかったはずだ。先ほどまで幸福のあまりに感極まって泣いていた人間が、突然焦燥に駆られて叫んだりすれば、不審に思われるのも当然だった。
だが、それでもギソクは兄を邪険にしたりはしなかった。
「行くって……どこに」訝しげにしながらも問いかけてきた弟に、ギジュンはハンドルから手を離すことなく答える。
「お前が今から帰るところだ」
「俺が? いや、俺はまだ仕事が残ってるから……今からギャラリーに戻るんだけど」
ああ、知っている。よく知っているよ、ギソク。
お前はそこで、今日、シマネに殺される。
「じゃあそこに一緒に行く」と間髪入れずに返したギジュンだったが、ギソクはさすがに鈍い反応を示した。
「いや……それは厳しいだろ、ヒョン。ルールは? 約束は? 『もう二度と近づかない』って会長たちとの交わしただろ」
兄さんのためにも、ジュウンの敷地内に兄さんを入れることは許可できない。ギソクはそう言って眉を下げた。
ギジュンには正直もう、そんな約束など無価値にも等しかった。一度死んだ人生の記憶にあるルールや約束は、最も惨たらしい方法で反故にされたからだ。
最愛の弟が殺されたという、電話の一本で。
だが、それを今のギソクに理解させることは不可能だということも承知していた。当然だ。なぜなら、まだ何も起きていないからだ。
どうせ今日が終われば、ジュウンの兄貴にも、ク会長にも会う羽目になる。ギソクには悪いが、折れてもらうほかなかった。
ルールだ約束だとくだらない枷に縛られて、弟をみすみす死地へ送り出すほどギジュンは愚かではなかった。
ジュンモも、グムソンも、シマネも――チャ・ヨンドも、ギソクの死に関わった全員を上手く処理し、弟の命を護り抜く――それが、「ここ」に戻ってきたギジュンの使命だった。
「俺は十一年前、会長たちに『顔を見せない』と約束したんだ。お前の職場に着いていくだけだから、破ることにはならない」
もはや屁理屈だったが、ここを譲るわけにはいかなかった。
ギソクは可哀想に、見るからに困惑していた。六年ぶりに逢った兄が理由も言わず、突然キャンプ場を離れて着いてこようとするのだ。意味がわからないどころじゃないだろう。
「ま、待ってくれよヒョン……何で急にそんなこと言い出した? 何で俺と行きたいんだよ、汝矣島に用なんかないだろ? 第一……いま泊まってるキャンプ場の客は? どうするんだよ」
案の定質問責めにしてきたギソクに、ギジュンは簡潔に答えた。返事に迷うことはなかった。「それ」が、すべてだったからだ。
「理由はさっき言ったろ」
「……どれ?」
「『これからはずっと一緒』だって」
「ハ……」ギジュンが真顔で言いきったそれに、ギソクはわかりやすいほどに間の抜けた声を出し、口を開けて固まった。
俺の弟に、こんな顔ができたのか。新しいギソクの一面を見て無意識に口角が上がる。ギジュンは放心状態にある弟に残りの質問の答えを並べていった。
「キャンプ場の客には勝手に帰るよう言ってくる。確かに汝矣島に用はないが、六年ぶりに逢えたんだ。お前ともっと話したい。キャンプ場のこととか、この先のこと」
「……ヒョン」
「お前、どうせ泊まってけって言っても帰るんだろ? なら、俺がそっちに行くしかないだろ」
少し強引な部分はあったが、笑ってそう言えばギソクが断れないことを知っていた。
ギソクは、俺とは違い、どこまでも慈悲深く優しい男だった。
体内の酸素をすべて吐き出してしまうのではないかというほど大きなため息をついて、苦笑した顔で助手席を顎で指した。
「わかったよ……降参だ、乗ってヒョン。ギャラリーに戻る前に俺のマンションに送るよ。そこで待ってて。仕事終わったら話そ――」
だが、弟の口から出てきた言葉が望む答えではなかったギジュンは、ギソクに最後まで喋らせはしなかった。
「ギソク」背筋がひりつくほどの低い声が、ギソクの言葉を遮る。
「……聞こえなかったか? 俺はもう二度と、お前から離れない」
「……!」
お前がギャラリーに戻るのなら、俺もそこへ行く。ハンドルに手をかけたままゆらりと弟の顔を見つめる。それが相手を本気で威圧しているときの兄の顔だと知っているギソクは、底知れぬ兄の態度に気圧され、こくりとうなずいた。瞳に微かに怯えた色が浮かんだのを見て、ギジュンは気をゆるめた。
「よかった。……ちょっと待ってろ、客に声かけてくる」
ようやくハンドルを解放してやり、弟の肩を軽く叩いて小屋へ向かう。背後から緊張を解く気配を感じ、ギジュンは申し訳ないと反省した。今のは、ほとんど脅しだった。悪いとは思ったが、これ以上時間をかければギジュンが知っている未来が変わるかもしれない。ギソクを必ず救うためにも、それだけは避けたかった。
客に声をかけて回り、最後に小屋へと足を向ける。このままギャラリーへ行くのなら、何かしらの武器が必要だった。不良のガキどもはまだしも、シマネは相当な手練れだ。それに、ナイフを手に本気で殺しにくる。弟に切り傷ひとつ付けさせずに護るのならば、こちらも相応の得物を持っていく必要があった。
だが、武器を仕込んでいると弟に悟られてはいけない。ギソクはまだ、この後自分に起こる悲劇を知らないのだから。
衣服に隠せる手頃なものは果物ナイフしかなかったが、充分だった。シマネには相当手こずった記憶があるが、あの時点でギジュンはかなりのダメージを負っていた。万全の状態ならば、刃物が一本があれば事足りる。
――ああ、まて。脚のサポートは必要か。
以前ビョンホに作ってもらっていたサポーターを足首に取りつけ、息をつく。
最後にこれだけは忘れてはいけないと、大切に保管しておいた弟からの贈り物である革手袋を手に取り、懐にしまった。ギジュンはそのまま軽くなった右脚を引きずって、ギソクの隣に乗り込んだ。
ギソクは目敏く足元のサポーターに気づいてやはり疑問を抱いたようだったが、負い目があるためか尋ねてくることはなかった。
「待たせたな。行こう、ギソク」
「……よくわかんないけど、バレて会長に怒られたらヒョンも一緒に頭下げてくれよ」
若干むくれている顔に、幼い日の弟の面影が透けて見えた。兄がどれだけ横柄で身勝手なエゴを振りかざしても、ギソクは一度だってギジュンの行動を拒絶したりしなかった。今のように。
あまりに従順なことを不思議に思い、昔訊いたことがある。「なぜ反抗しない?」と。恐怖を抱かせていたらと不安で尋ねたが、ギソクはそのとき言ったのだ。
『だって、全部俺のためにやってくれてるってわかるから。そんなの、嬉しいに決まってるだろ?』と。
それが本心なのは知っていた。だが、その答えに甘えきり、弟の意思を無視し続けたのもまた事実だった。
その結果、俺は独り組織に残された弟の気持ちを考えることなく汝矣島を去り、明確に「辞めたい」と表明していた弟に一言も返さず、失意のなかでギソクを死なせた。
だから。だからもう、同じ過ちは繰り返さないと誓ったのだ。絶対に。
シマネを始末し終えたら、その後の選択は弟の意見も訊く。俺には、殺し以外の選択肢が思い浮かばないから。今回は聡明な弟の知恵も借りて、悪夢のすべてを終わらせるのだ。
「ヒョン、聞いてるか?」
明らかに不機嫌が混じった声に愛しさから小さく笑う。ギジュンはギソクへと顔を向け、護るべきかわいい弟の頬に指先を滑らせた。
「フ……ああ、聞いてる。いくらでも下げるよ」
お前が生きて俺の元に帰ってこれるのなら、俺は世界だって焼き払う。
その覚悟を元に手を引っ込めて、ギジュンは前を向いた。
ギソクを最後まで護りぬき、ジュウン兄貴も、ク会長も、ソンチョルも、ビョンホも、チュンソクも、ソンウォンも、テファン兄貴も誰も死なせず、会長たちのためにも愚かしいバカ息子たちも生かし改心させて、すべてを終わらせる。
死ぬのはふたり、シマネと――あの忌々しい、チョ・ヨンドだけで充分だ。
「ギソク……俺はな、お前のためだったら何だってできるんだ」
チャンスは一度きり。本来なら与えられることのなかったギソクを救える希望を胸に、ギジュンは再度この世の何よりも愛しい弟に視線を向けた。
その熱量で額に穴が空くのではないかと思うほどの真剣な眼差しを受け、ギソクは眼鏡の奥で二、三度まばたきを繰り返す。ギジュンの様子は確かにおかしかったが、その瞳に燃ゆる覚悟は間違いなく本物だ。ギソクは兄の双眸から伝わる強い感情に勘づき、それがなんであれ、兄が何かする気なのであれば傍でアシストするのが自分の役目だと、観念したように吹き出した。
「知ってるよ。きっと、生まれたその日からな」
「ギソク」
「ヒョンは俺が知るかぎり、この地球上で最も過保護で最強のブラコンだ」
もちろん、俺もな。フッと笑って続けられたギソクのその言葉に、ギジュンもつられて笑う。
「じゃあ、最強のブラコン同士、向こうに着くまで積もる話でもして行くか」
シートベルトを締めて弟の横顔を見つめる。ギソクは「ったく、ホント急に何なんだ」と満更でもなさそうに笑いながら、ゆるやかに車を発進させた。

運命が待つ、あの場所へ。

Chapter 3: 【JWギャラリー】

Summary:

JWギャラリーにギソクと共に足を運んだギジュンは、そこでかつて弟を襲った少年たちや、弟を殺した男――シマネと対峙する。

Chapter Text

ギソクが代表を勤めるギャラリーに足を踏み入れるのは、ギジュンも今回が初めてのことだった。ジュウングループが資金洗浄に使っているというJWギャラリーは、なるほどギソクが組織を成長させただけあって、かなり立派な建築物だった。
「金がかかってそうな造りだな」
率直な感想を述べたギジュンに、羽織っていた兄の上着をハンガーにかけながらギソクは肩を竦めた。
「三百億ウォンくらいはしたな、建築費だけで」
「そいつは……かなり洗浄できただろ」
「まぁ、ペーパーカンパニーも噛ませてるから……そこそこだよ」
ハンガーラックから離れてラップトップの置いてあるデスクに歩いてきたギソクは、オフィス内を散策するギジュンを不思議そうに見つめる。職場にいる兄、という光景に、いまだ違和感を拭えずにいるようだった。
「やっぱり変な気分だ、ヒョンがここにいるの」
「だろうな」ギジュンは小さく破顔し、椅子に腰かけたギソクに視線を向ける。
「まあ。俺が組織抜けなかったら、二人でここにいたかもしれないが」
あったかもしれない現実を口に出す。以前なら決して口することはなかっただろうそれは、心が砕かれるほどの後悔を抱いて死んだギジュンだからこそ、言える言葉だった。
まさかギジュンが仮定の話をするとは思っていなかったのか、ギソクはパソコンの電源を入れておかしそうにギジュンを見上げた。
「意外だ、ヒョンでもそんなこと思うんだな。でも多分、ヒョンにデスクワークは無理だぞ」ニヤリと意地の悪い笑みがギジュンを襲う。「だって絶対壊すだろ、そのバカ力で」
「…………」
お前はいったい、俺のことをなんだと思っているのか。力加減くらいできるに決まっているだろうと思ったが、あまりに面白そうにギソクが笑っているので、ギジュンは同調することにした。仕返しも忘れずに。
「まぁな。さしずめ俺は頭脳派のお前のボディーガードってとこか。ナム専務の細い腕じゃ、まともに闘えなさそうだからな」
ギソクは片眉を上げて笑い、挑発に乗ってくる。
「言うなぁ。でもヒョン、悪いけどヒョンが別次元なだけで俺も相当闘えるからな?」
「そうか?」
「ああ。少なくとも、今のジュウン組とボンサン組に俺を倒せる奴がいないくらいには」
眼鏡をデスクに置いて口角を上げたギソクに、元来気が強い男だったことを思い出す。負けじと反論してみようとするが、口でギソクに勝てた試しがないことをギジュンは忘れていた。
「それに」にんまりと弧を描いた口元に、嫌な予感がギジュンを覆う。ギソクは右手で頬杖をついて、挑戦的に兄を見上げた。
「俺にはもう、忠実なボディーガードが一人いる」
「…………」
「ヒョンより若くて、健気で理性的で、優秀なかわいい忠犬が」
立場がないな♡ なんて顔をしてさっさとラップトップに向かった弟を見て、俺の弟はいつからこんなに性悪になったのだと眉をひそめる。
だが、その「忠実なボディーガード」がどれほど弟を想ってくれていたかをよく知っていたギジュンは、張り合うことを選ばず降参した。――のだが。
「お前の口の悪さには毎度驚かされるよ」
「あれ、もう終わり? いいんだ、大好きな弟の一番、奪われたままでも」
「……ギソク」
やけに挑発してくる弟に目眩を覚える。ギソクは昔から、気分が高揚すると口数が増える癖があった。ギジュンが思っているよりも、ギソクは兄といることが楽しいようだ。それは確かにとても愛おしいし嬉しいことなのだが、これから刺客が襲ってくるというときになんと呑気な男だろうか。
まあ、ギソクにはそれを知るよしもないので仕方ない。
ギジュンとしてはいつ襲ってくるかわからないため常に気を張っていたいのだが、肝心の弟がこんな風に絡んできては気が抜けてしまう。
どうしたものか。そもそも仕事をするのではなかったのかと、こちらを見上げて微笑んでいるギソクに嘆息が漏れる。テンションが上がっているギソクは間違いなくかわいかったが、今は正直弟を愛でている場合ではなかった。
――仕方ない。少しおいたが過ぎる弟に、灸を据えてやるとするか。
ギジュンはデスクのほうに脚を向け、ゆったりとした動作でギソクに近づいた。値が張るであろう広いガラス張りのデスクの横を通りすぎ、革製の椅子に深く腰かけている弟の隣に立つ。この距離まで詰めても、ギソクは余裕そうな笑みを浮かべてギジュンを見上げていた。
眼鏡を外していると、ギソクは一回り以上歳が離れているように見えた。甘くやわらかい印象を人に与える整った顔は、生まれた場所が違えばきっと、大勢の人間を虜にし、愛されたはずだ。
つまりそれは、裏社会向きの顔ではないということだった。
ギソクは眼鏡をかけているが、実際に目が悪いわけではなかった。ギソクが眼鏡をしているのは、十一年前――ギジュンが組織を去る際に、弟に「つけておけ」と渡したからだ。
ギジュンにはわかっていた。裏社会でギソクほどの美貌を持っているということが、あらゆる危険を呼び込んでしまう可能性があるということを。裏社会は舐められたら終わりだ。ギソクの中性的な顔は相手の油断を誘えたが、それと同時に、身の危険を誘発する。隠しておいて損はなかった。
それほど案じていたのなら連れて出ていけばよかったのにと今でこそ思うが、当時のギジュンにとってジュウン組は、居心地のいい場所だった。イ・ジュウンに大恩があったのも理由のひとつだが、それを除いても敵か味方かしかいない世界は肌に合っていた。ギソクとは違い、決して進んで辞めたいと思うような場所ではなかったのだ。
だからこそ弟を兄貴たちに預けて去れたのだが、昔から男に言い寄られることの多かったギソクをさすがにそのまま放ってはいけなかった。だから、髪を掻き上げて、眼鏡をつけさせたのだ。
『今後は気を許せる相手以外、素顔を見せるな』そう一言添えて。
――それが弟に対する、無自覚の所有欲であるとも気づかずに。
いつ見ても美しい顔だと、ギジュンはこちらを見上げるギソクの頬に手を伸ばす。実兄にだけ向けられる無防備な笑顔に、支配欲に近い何かがギジュンのなかでむくりと頭をもたげた。
「俺も、お前が望めば健気でかわいい犬になれるぞ」
ギソクの頬を撫でて告げる。ギソクは「どうかなぁ」と相変わらず挑発的に笑っていた。完全に油断しきっていた。初めて兄と腹を割って話したために。
目の前にいるのが、猛犬であることも忘れさり。
ギジュンは軽く息を吐くと、ギソクの頬に置いていた右手を素早く背もたれにずらし、左手で勢いよく椅子を倒してギソクの顔を覗き込んだ。
「わ……ッ!?」
激しく背もたれを倒されたせいでギソクの上体はバウンドし、呆気なくギジュンの支配下に置かれる。衝撃で前髪は乱れ、その顔からは余裕が消えていた。
「ヒョ、」
「あまり、兄さんをからかうもんじゃないぞ……ギソク。俺はお前の一番を奪われて、そいつを生かしておけるほど……理性的な男じゃない。……知ってるだろ?」
その、「忠犬」とやらと違ってな――。そうきっぱり告げて真顔で弟の額に口づける。
「……、……」
ヒュッと息をのむ音がした。しまった。そういう色がギソクの顔に浮かんでいた。
ヘボムはギジュンから見ても、本当に信頼のおけるいい奴だ。そんな彼の命を自分の失言で危ぶめてしまうことは、恐らくギソクにとって最も避けたいことなのは間違いない。
狼狽する弟の顔を静かに見つめる。ごくりと生唾を飲み込み、現状をどう納めようかと必死に思考を巡らせているのが伝わってくる。
――かわいい。心からそう思った。
このまま押し倒して、スーツを暴いたら、弟はいったいどんな表情を見せてくれるのだろうか――? 内側に巣食う何かが、ゆるやかに思考に靄をかけていく。白い喉元が、いやにうまそうに見えた。
「ヒョン……その、悪かった」
「!」
だが、噛みつこうと動くすんでのところでギソクの真剣な声色がギジュンの理性を引き戻す。喉元を凝視していた視線はギソクの顔のほうへ向けられ、ギジュンに兄としての立場を思い起こさせた。
「…………」ギジュンは眉間の皺を深くする。
――まて……俺は、いま、何をしようとした?
「まただ」と大きくかぶりを振る。キャンプ場でもギソクに劣情に似た感情を抱いたことを思い出し、もしかしたら自分はどうかしているのではないと不安が湧いた。
以前は、こんな風に弟を見たりはしなかった。一度死んだことで何かが変わったのかもしれないが、壮絶な喪失感が感情を誤作動させている可能性のほうが高いと結論づける。――いや、そうでなければいけなかった。
せっかくギソクの命を救っても、性的に迫ったりなどして兄弟の絆が崩れ去っては何の意味もなかった。
ひとり思考の嵐に沈んでいるギジュンをよそに、ギソクは相も変わらず無言で見下ろしてくる兄を見上げ、弁解の言葉を並べた。
「ヘボムは……いや、俺の部下は本当にいい奴なんだ。全部ふざけて言っただけだから、彼に何かするのはやめてくれ……頼む」
ギソクの深刻な顔を見て、心外だなと澱んでいた意識がそちらに向く。いくらなんでも、ジョークの延長戦で理性を切らして人を殺めるなんてことはしない。とくに弟が信頼し、気を許せる人間になど。それに、ヘボムのことはよく知っていた。どれほど有能で、誠実な男であるのかも。もはや弟だとすら思っていたほどだ。殺すわけがなかった。
だが、それとこれとは話が別だ。今はおいたが過ぎた弟を懲らしめる目的がある――なんてのは言い訳で、先ほどの弟の発言だけは撤回させなければ気が済まなかった。
弟の顎をすくい、くいっと持ち上げる。
「――お前の一番は、俺だよな。ギソク」
聞かなくてもそんなことわかっていたが、ギソクが始めたのだから、自分できっちり回収させる必要があった。
ギソクは兄の鋭い眼光を受け、求められているものが何かを悟る。ギジュンがヘボムを殺しに行くと本心から思っているわけではなかったが、今日はずっと様子のおかしいギジュンのことだ。下手な真似はしないほうが懸命だと自分の発言の責任をしっかりと取るべく、ギソクは兄の首に両腕を巻きつけた。
「ああ、当然だよヒョン……。俺は、ヒョンに匹敵するブラコンだ」
媚び入る方法があまりにも蠱惑的で、ギソクが自分の美貌の使い方を熟知しているのが伝わってくる。それにこの十一年が透けて見えたような気がして、なんだか少し面白くなかった。
だが、求めていた言葉を聞けたのは間違いない。これ以上は野暮だとギジュンは弟から離れ、背もたれを元に戻してやった。返事もせずに動いた兄にギソクは動揺しているようだったが、ギジュンが「許してやる」と言えば肩の荷が降りたように脱力した。
「懲りたか?」笑って訊けば、拗ねたような視線が向けられる。
「ああ、懲りたよ。かわいい弟に、よくあんな脅しができたな」
「フ……減らず口は治らないか。まあ、そこがかわいいんだが」
弟のむすっとした頬を軽く突いて、ギジュンはデスクから距離を取った。「ほら、仕事するんだろ。待ってるから終わらせろ」それだけ告げて近くのカウチに腰を下ろす。
「ホントに……横暴だ」
「今さらだ」兄の飄々とした態度にギソクは長いため息をついて、苦笑しながら薄い液晶へと視線を戻した。
キーボードに指を走らせはじめた弟を横目にギジュンも気を引き締める。ギソクの死の真相を知るために検死報告書に目を通したが、確か死亡推定時刻は夜中の二時だった。時計の針が指している現在の時刻が十二時半。ガキどもがここに来るまでだいたい一時間、といったところだろうか。
ギジュンはカウチから弟に視線を向ける。この後に起こる惨事をまだ何も知らず、夜更けまで熱心に仕事に打ち込むハードワーカーに。
――すべてが終わったら、昼になるまで起きなくていい日々を俺がお前に送らせてやる。
心地いいカタカタというタイピング音を聴きながら、ギジュンは刺客が訪れるまで神経を研ぎ澄ました。

 

「フゥ……」
ギソクがひと息つく声が聞こえ、ギジュンは目を通していた雑誌から顔を上げる。眉間を揉みこんでいる弟の様子に、どうやら残業してまでやらなければならない仕事とやらが終わったようだった。
「終わったのか」
「うん、一段落はついたかな」
そうか、お疲れ様――そう声をかけようとしたギジュンの意識は、突然視界に映りこんだ照明の点滅により奪い去られた。
――来た。
「……何だろう」
階段下の照明が勝手に点灯した。動作センサー付きの照明ならば、そこに何か生き物がいなければ説明がつかない状況だ。そこ――そう、地下の駐車場に。
壁にかけてある時計を確認する。一時半。まさに予定どおりだった。
ギソクは椅子を引き、おもむろに階段のほうへ脚を進めた。ギジュンも立ち上がり、弟が通りすぎる前にその手首を掴んで引き留める。
「待てギソク」
「ん?」
「ここの出入口は地下だけか?」
「え……いや、表にもあるよ。ギャラリーだからな」
それはそうだよなと舌を打つ。弟の身の安全を考えるならば駐車場に近づけないのが一番だが、シマネがどこから現れたのか知るよしもない現状、オフィスに弟を独り残して行くことは死刑宣告に等しかった。
「わかった。なら俺が先に行く、お前は後ろにいろ」
「ええ……ホントに過保護だな……」
いいよひとりで見てくる、そう反論されるかと身構えての発言だったが、意外にもギソクは無抵抗に兄の後ろに下がって着いてきた。
――ああ、そうだ。そうだよな。ギソクお前はバカじゃない。
お前の脳裏にはもう、昼間揉めた男とのやり取りが巡っているはずだ。こんな夜遅くに、ジュウン組の敷地内に来訪者が現れる。それも、敵体組織の跡継ぎと揉めた日にかぎって。――階下に待ち受けているものが、センサーの誤作動などではないと知っているのだ。
本当は自分ひとりで行きたかったが、残していくことで弟が危険に晒される可能性がほんの少しでもあるのなら、手の届くところに置いておくほうが何倍も安全であった。
降りていくたびに点滅する電球が、二人の間にも緊張を走らせる。ギジュンは懐に隠してあるナイフをいつでも取り出せるよう確認しながら階段を下り、駐車場への扉を開けた。
だが、見える範囲に人の影はなかった。
「出てこい」弟の耳触りのいい声が駐車場の壁に反芻する。気を引き締めて弟の傍に張りつくが、再び照明が点滅して現れたのは、随分と小さな来訪者だった。
「……猫」
「猫だな……」
ニャア。まさに猫なで声でこちらを見上げてきた白地に黒模様のハチワレの猫に気が抜ける。ギソクは困ったようにひとつ笑って、手慣れた様子でオフィスに上がろうと動いた。
「どこに行く?」
「餌と水を取りに。腹が減ってるだろうから」
猫の餌と水が常備してあるのか、このギャラリーは。
つまり、初めてではないとういうことだ。野良猫に餌付けするのは無責任だぞ。そう思ったものの口にはしなかった。弟の分け隔てない優しさは、幼い頃から何度もギジュンの心を救ってくれている。
黙って弟に着いていき――本当に片時も離れないつもりの兄にギソクは多少困惑していたが――猫の食事を手に再び駐車場へ降りる。専用のトレーまで買い揃えているとはお見それすると、小さな命に慈悲を与える弟の後ろ姿を見守った。
「何でここに来る?」
溶けてしまいそうなほど、甘い声だった。
「まあ……行くあてがないよな」
無心に餌を頬張る猫に向けておだやかに微笑む横顔が、ギジュンの胸を締めつける。
――行くあてがなかったのは、その猫か? それとも、お前か。ギソク。
その何気ない一言に十一年分の弟の想いが詰まっているような気がして、ギジュンは無意識に弟の肩へと手を伸ばす。
だが、その指先がギソクに届くことなかった。
ザッと靴とアスファルトが擦れる音が鼓膜を揺らす。即座に振り返り、弟に向けて突進していた愚かな少年の首を鷲掴みにして地面に叩きつけた。
「ガッ……!」
「……ヒョン!」
猫から意識を背後に移したギソクが兄を呼ぶ。ギジュンは少年の手からナイフを弾き飛ばし、突進した勢いのまま地面に叩きつけられたせいで喉がつぶれた憐れな子どもを見下ろした。
「ギソク、知り合いか?」そうでないと知りながら問いかける。弟の命を滞りなく救うためにも、ギソクに不審に思われないよう演じる必要があった。
ギソクは首を横に振った。「心当たりは」と重ねて訊く。
ギソクは兄が押さえつけている少年を見下ろして、「誰の指示だ?」と問いかけた。
少年――ヒチャンは罵りを口にするだけで答えることはなく、ギソクはため息と共に口にした。「ク・ジュンモなのか?」と。
「いや……ク会長?」
「…………」ギジュンはそれを聞きながら、そのどちらでもない男の忌々しい顔を思い浮かべた。
ジュンモとギソクが揉めたことを知り、これ幸いにとグムソンをけしかけて、シマネを雇い弟を葬り去る計画を立てたゲスの顔を。
憎悪から押さえつけているヒチャンの右手が折れた音がし、しまったとどこか他人事のように思った。
「お前が知るわけねえな」
悲鳴を上げた少年を見て、ギソクは息をついて兄に解放することを願った。
「ヒョン、放してやれ。ただのガキだ」
「ああ……」
わかった、そう言いながらギジュンはヒチャンの身体をまさぐり、武器の有無を確認した。確かギソクの検死報告書には、二本の造形の違う刃物で刺傷された痕があると載っていた。刃渡り十五センチほどの刃物で腹部にひとつ。刃渡り十センチほどの刃物で右の手のひらにひとつ、左手首にひとつ、頸動脈にひとつ。徐々に弱らせられ、苦しみのなかで死んでいった弟を想像し、強く奥歯が鳴った。
つまり、だ。刃物がふたつある時点で、実際にヒチャンも弟を刺したということになる。ならばこのまま解放するわけにもいかないだろうと上着を探っていると、ポケットから刃渡り十五センチほどの凶悪なナイフが出てきた。
「…………」
これで、こいつは俺の弟を――。
殺意が一気に身を焼いた。もし、この一撃がなければシマネに勝てていたかもしれないと思うと、今ここで首を掻っ切ってしまったほうが得策なように思えてきた。
しかし、心優しい弟は、それをよしとはしなかった。
「ヒョン」
諌めるような声が耳に届いた。殺意をそのままに顔を上げると、弟が険しい顔をしてこちらを見つめていた。少年の懐から取り出したナイフを片手に、ハンズアップしている子どもに恐ろしい無表情を向けていた兄を。咎めるような、そんな目だった。
十秒ほど見つめ合っていたが、ギジュンが折れるのが早かった。
「わかった」ナイフを弟に渡して、利き手が折れたであろうヒチャンを起き上がらせる。しかし、ヒチャンに対する牽制は忘れはしなかった。
抱き止める流れで、耳に顔を寄せた。その耳元に、奴の弱みを囁きかける。
「――弟のユチョル」
「……ッ」
「俺の弟を傷つけたら……代わりに、お前の弟に代償を払わせる――その命で」
それだけ囁いて解放してやると、ヒチャンは顔面蒼白の面持ちでギジュンを見上げていた。
ああ、恐ろしいだろう。初対面の人間に、自分より大切な存在のことを把握されてしまっているのは。
呼吸を乱して虚勢が崩れ落ちたヒチャンの顔に胸がすくような思いがする。これくらいでいいだろうと背中を突き飛ばすと、ヒチャンは仲間のことも忘れて走り去っていった。
「おい!? ヒチャンどこに行くんだよ!?」
「……仲間がいたのか」
背後から聞こえてきた声に視線だけを向ける。ヒチャンが連れ立ってきたチンピラたちは全部で十二人。この人数をひとりで撃退した弟のことを思い出し、いつの間にか兄に並ぶほどに強くなったギソクを思って小さく笑った。
「怖いか?」
軽く片付けられることを知っているからこそ、いつぞやかに弟に言われた台詞をそのまま返してやる。ギソクは吹き出してギジュンを見つめた。
「やってやろう、ヒョン」
「ああ」
兄弟で背中を合わせて闘う――それがどれほど懐かしいか推し量ることもできず、興奮のなかでチンピラをのしていく。闘う弟はいつも、まるで舞を踊っているようだった。長い手足が空を裂き、美しい軌道で敵の急所に落とされる。圧倒的な暴力で敵を粉砕するギジュンとは違い、弟の闘い方には品位と知性があった。
美しい――それ以外に言い表せられない、優雅さがそこにはあった。
全員を軽く痛めつけ逃げ帰る後ろ姿を見送ったあと、ギジュンは最愛の弟に怪我がないかを確認した。やられているはずがないことは承知していたが、状況が状況のため念を入れる。
ギソクは兄が弟の身体を検分しているなか、静かに問いかけてきた。
気になってやまなかったのだろう、それを。
「なぁ、ヒョン」
「なんだ」
「さっきさ、最初に襲ってきた赤いパーカーのガキと、何か話してたろ」
「……ああ」
「あれ……なに言ってたんだ?」
手足のチェックが終わり、ギジュンは顔を上げる。美しい顔に傷がないかを確認して、ギソクの目を見つめて告げた。
「俺の弟を傷つけたら、お前の家族を皆殺しにする」
嘘は言っていない。正しくは弟だが、ほかに愛する者がいるのならその人間も対象になる。
ギソクはなるほどと納得したようにうなずき、「それは、確かに恐ろしくて逃げ出すな」と笑った。
「子どもには充分な脅しだ」まるでからかったのだとばかりに笑う弟に、ギジュンは真顔で否定する。
「脅しじゃない。俺は、お前を傷つけた奴を絶対に許さない。代償を払わせるためなら、無実の人間だって俺は殺る」
淡々と言ってのけた兄に、ギソクの顔から徐々に笑顔が消えていく。ギジュンの「目」が、本気だと語っていたからだ。自分とは違い、相手が誰であっても容赦をしない兄のことをギソクはよく知っていた。
「それは……一刻も早く、俺は足を洗ったほうがよさそうだな」
ジョークまじりに深いため息をついたギソクに、ギジュンも笑って答える。「そうしてくれ」
「にしても可哀想にな、さっきのガキ……。ナム・ギジュンにそんな脅しされたら、本職の人間でも腰が抜けるよ」
「俺の弟を襲ったんだ……生きて帰れただけ幸運だろ」
はいはいと笑う弟に愛おしさが増す。
だが、ギジュンはここで気を抜いてはいけないことを知っている。
――もう、「そこ」にいるのがわかったからだ。
暴力を心から欲する人間にしかわからないであろう「本物」の殺気が、建物の扉奥から漏れ出ていた。マジックミラーのせいでその姿は確認できないが、確かに、奴はもうそこに立っていた。
どうやってそこに。だとか、そうやって奇襲をかけて、俺の弟を殺したのか。なんて無駄な思考は脳の隅へと追いやって、呑気に猫に声をかけだした弟の腕を引く。
「えっ、なんだよ……」
「俺の後ろにいろ」
「は?」
「俺の、後ろにいろ」
「……!」
再度強めに言えば、弟の顔からおだやかな色が消えていく。その隙に猫の首を掴んで弟の胸に押しつけ、ドッと肩を押して扉から遠ざけた。
「なに――」
「いいか、絶対に手を出すな、ギソク。お前はそこでそれを抱えていろ」
懐からナイフを取り出し、扉のほうに目を向ける。武器を所持していたことを問い詰めてこようとする弟を無視し、ギジュンはそこにいる男に声をかけた。
「ずっと、そうやって隠れているつもりか?」
「なに……」
兄のその発言を受け、ギソクは口をつぐんでギジュンの視線を追った。その先にあったのは、オフィスに繋がる階段だけだ。その奥にいるためには、正面からセキュリティキーを打ち込んで入ってくる必要がある。よって、そこに人いるわけがないと誰もが思うであろう状況だったが、ギジュンの挑発に合わせ、扉のノブはガチャリと動いた。
ギジュンは口角を上げた。二対一の状況に不利を感じ逃げ出す可能性もあるかと思ったが、シマネは根っからの殺し屋だった。血に飢え、暴力を欲する狂人。――かつての、ギジュンのように。
扉の奥からは、顔を覆ってはいるが、明らかにシマネであろうがたいのいい男が現れた。利き手にオーダーメイドだろうバグナクのようなクナイ型の刃物を持ち、ギジュンの後ろにいるギソクに視線を向けている。
「よく気づいたな?」
「ああ、殺気を隠せていなかったからな」
「フッ。話と少し違うが……まあいい。やるこたァ何も変わらねえ」
一人も二人も同じだとその場を駆け出したシマネに、背後から「ヒョン……!」と弟の案じる声がした。ギジュンは強くナイフを握り込み、まっすぐギソクへと向かおうとする刺客の首を狙い、避けたところを体当たりで吹き飛ばす。かなりの衝撃だったろうに、シマネは軽く受け身を取って立ち上がり、半月型にその目を歪ませた。
「お前……相当強えな」
「……そうかもな。弟を殺りたいなら、先に俺を殺すことだ」
「ハッ……上等だ」
ギジュンの最初の一手で実力がわかったのか、シマネは興奮気味にマスクを外して武器を構えた。顔を見せたということは、本気で二人とも殺せる自信があるようだ。
「フッ……」
舐められたもんだ。無意識に口角が上がる。ギジュンも合わせて上着を脱ぎ、かつて弟にもらった革の手袋を嵌めて精神を統一する。
ここが、運命の瀬戸際だ。俺が死ねば、ギソクも死ぬ。たとえここで生き延びても、次から次に襲いくる刺客を逃れることはできないだろう。
背後から加勢しようと動くギソクの気配が伝わってきたが、押しつけた猫が喉を鳴らしてそれを邪魔していた。正直、猫がどうなろうと興味はなかったが、弟が愛着を抱いているのなら、今この場では何よりも価値があった。
「ギソク。餌付けして懐かせたんだろ。責任を持て――お前の事情で死なせるな」
「……!」
シマネから視線を逸らさず言い切り、手出しするなと念を押す。自分がいま猫を放したら、闘いに巻き込まれ、ギジュンか暗殺者のどちらかのナイフがその小さな命を奪うかもしれない。それがギソクの判断を鈍らせることを、ギジュンにはよくわかっていた。
猫に感謝しなくてはと息を吐く。弟を護りながら闘えるほど、シマネの殺しの腕は甘くない。すべては、俺から始まったのだ。直接ギソクの命を奪った相手だけは、自分の手で終わらせる責任があった。
地面を蹴ってシマネに突進する。ヒュッと互いの耳元をかすめる金属の音が、重なるごとに神経を過敏にさせる。前回闘ったときもそう思ったが、シマネは今まで闘ってきたどの人間よりも強かった。一瞬でも気を抜けば重傷は避けられないだろうと拳を交えて感じる。
顔面を殴られ、そのまま腹部を蹴り上げられて駐車されていた車に激突する。相手に立ち上がる隙も与えずクナイを振り下ろしてきたシマネの攻撃を、ギジュンは横に転がることでギリギリでかわした。
ガッ! とアスファルトに突き刺さったクナイが不協和音を響かせる。シマネの片腕が不自由になるその瞬間を、ギジュンは見逃さなかった。
シマネより先に立ち上がり、遅れて身体を起こし奴の頸動脈に向けてナイフを振り下ろす。ギジュンの放ったナイフの軌道は、シマネの頬に線を引いた。赤く染まっていくそれを視界に再度頸を狙ったが、手首を側面から殴打され武器を弾き飛ばされる。
「……!」
まずい――。そう感じた一瞬の隙にこちらの首に向かってくる鋭利な刃物。この段階で怪我を負いたくはなかったが、防ぐ方法がひとつしかなかったため消去法でギジュンは左手を犠牲にした。
「ッ……」
鈍い痛みが手のひらを襲う。それに内心新鮮さを感じた。
ギジュンは生まれつき、痛みをあまり感じない体質だった。そのお陰で加減なく相手を殴れ、不屈でいられるということは弟しか知らない事実なのだが、微かに痛んだということは何かしらの神経に当たったのかもしれない。
ちらり、視線を手のひらに向ける。首を掻っ切られる寸前で盾となった左の手のひらには、シマネのクナイが革手袋を貫通し、突き刺さっていた。奇しくも前回と同じ傷口に失笑が漏れる。シマネも恍惚と嗤っていた。
「フッ」
「ヒョン……ッ」
ギソクの切羽詰まったその声に、格闘に酔いしれていた脳がぐらりと揺れる。振り返って顔を見る余裕はないが、弟が今どんな顔をしてこちらを見ているのか。想像に固くなかった。
弟を、これ以上不安にさせたくない――。
その強い想いはギジュンの目の色を変えた。ゾッと背筋が粟立つほどの殺気にシマネの顔が曇る。が、もうすべてが遅かった。
刺されている左手を前回同様きつく握り込み、渾身の力をこめて奴の顎を下から粉砕する。片腕を繋がれ拘束されているためサンドバッグになるしかないシマネは、五発目を食らったあたりでふらつきだした。脳震盪を起こしはじめたのだと気づく。殴り殺すのは久しぶりだが、まあ、できないことはないだろう。固く重い拳を振り下ろし、肉と骨が砕ける音を聞きながら、シマネの頭蓋骨をこのまま砕く方法を脳内でシュミレーションをする。
一分だ。一分殴り続ければ、恐らく頭蓋骨を割って中身を撒き散らせるはずだ。
しかし、余計な体力を使うことは避けられた。
カランカランと甲高い音が足元から届く。殴りながら視線をそちらに向けると、そこには先ほど弾き飛ばされたナイフが回転しながら転がっていた。
滑ってきたほうに視線をやる。
「……ギソク」
ギソクが、兄を見つめていた。レンズの向こうで、兄の勝利に期待と不安を揺らめかせて。
「余裕だよな、ヒョン……!」
――ああ、もちろん。勝つよ、ギソク。
サッとナイフを手に取り、ギジュンはシマネに向き合った。片膝をつき、ろくに抵抗もできなくなっているかつての仇を見下ろした。
――雇われただけのお前には悪いが、生かしておくわけにはいかないんだ。絶対に。
ここで息の根を止めなければ、運命はまたお前に、弟の命を奪わせるだろう。――だから。
「――安らかに眠れ」
「ガッ……ぁ゛」
ドッと首元に差し込まれた刃物が、深々と喉へと刺さり背中に貫通する。数秒ほどシマネの瞳を見つめ、ギジュンは一気にナイフを引き抜いた。血飛沫が飛散し、ギジュンの頬を濡らす。ギジュンはその瞳から光が消え去るのを見届けると、肉塊になった男の身体をアスファルトへ手放した。
「ハァ……」
シマネの死体から視線を左手へと戻す。深々と刺さっている既視感しかないそれを見つめ、引き抜こうと右手を持ち上げた。
けれど、切羽詰まった弟の声がそれを制止する。
「ヒョン……っ、ダメだ、まだ抜くな」
「……ギソク」
猫を優しく地面に下ろして駆け寄ってきたギソクは、兄の痛々しい怪我を凝視し顔を歪めた。
「ごめ、ごめん、俺のせいで……っ」
早く医者に――なんてお門違いなことを口にして表情を曇らせる弟を前に、ギジュンはさっさと左手からクナイを引き抜いた。怒声にも似たギソクの声が響いたが、ギジュンはかまうことなく弟の身体を抱き寄せた。
「っ……ヒョン」
「生きてる……」
「……うん、生きてるよ……ヒョンのお陰で」
肩口に額を埋め、弟の生きた体温を身体に取り込む。格闘後のアドレナリンも相まって、情けなくも涙腺が滲んだ。
――あぁ、ああ……、生きている、俺の弟が。
じわじわと湧き上がってくる「弟を救えた」という実感が、ギジュンに痛みを忘れさせ、強く弟を求めさせる。弟の骨が軋むほどの力で抱き締めたが、ギソクは黙って背中に両腕を回してくれていた。――自分の背中に、兄の血液が染み込んで、冷たくなるまでは。
「止血!」
「あぁ……」
突然突き放され間の抜けた声が出た。ギソクは露骨に落ち込んだ兄に目も向けず、ネクタイを乱雑にほどいてギジュンの左手から革手袋を抜き取り、それをきつく巻きつける。弟らしからぬ手荒さに「怒ってるのか」と問いかけた。キッと睨みあげるような視線が向けられる。
「抜くなって、言った」
端的に答えた様子から、なるほどかなりご立腹だと笑みが溢れた。完全に悪手だった。
「何を、笑ってんだよ……!」信じられないくらい低い声に余計に笑ってしまいそうになりながら、ギジュンは弁明を口にした。
「いや、悪い。抜かないとできなかったから」
「何が」
「お前を抱き締めること」
「は、ハァ……!?」
そ、そんなにか……? と思うほどのリアクションを取ったギソク。ギジュンは続けて話そうとしたが、ギソクの勢いに押し負けた。
「バッ……バカか!? そんなの後でいくらでもできるだろ! 怪我を押してまで優先することか!? 何でいつも俺の話を聞かないんだよ、ヒョンは……! 俺が、俺がさっきまで、どれだけ怖かったか知らないで……っ」
「……ギソク」
ヒョンが、殺されるんじゃないかって――そう漏らし、ぽろっと溢れた涙を見て口をつぐむ。
ああ、これは俺のせいか。俺が、弟を泣かせているのか。
弟が兄を救うためにしたことを思い出す。すべての始まりを。ただひとり、ナム・ギジュンを不屈の神と見なしていなかった、ただの人間として見てくれていた、心優しい弟がしたことを。
ギジュンにとって、弟の命が自身の肉体の欠損よりも優先されるように、ギソクにとっても、兄とは自身の命よりも優先されるものなのだ。
そんな弟に、「いっさい手を出さずに見ていろ」は、あまりに酷だった。俺が逆の立場なら耐えられないだろうと、ギジュンは弟の濡れた双眸を見つめる。
「ギソク……悪かった」
これまでのこと、全部。
いくら謝罪しても足りない言葉を喉の奥で転がす。
いま、暗殺されそうになったものすべて俺のせいだと知ったら、お前は俺を責めるだろうか。
そう考えて、すぐに振り払う。
――ギソクはそんな男じゃない。
兄を失うかもしれなかった恐怖と怒りに震える弟の肩に、血に塗れていない右手をそっと添えた。
「もう二度としない。お前を蔑ろにすることも、お前を泣かせることも」
「……ヒョン」
「悪かった」
昔から、他のことなんてどうだってよかった。何人殺そうが、誰に恨まれようが、どうだってよかった。
ただ、弟にだけは――ギソクにだけは赦されたかった。
「悪かった……本当に……っ」
「……っ」
ギソクは兄の震える声を聞いて、兄の目を見て、そこに浮かぶ深い悔恨に口を引き結んだ。
ギソクに、その理由はわからないだろう。わかるはずもない。だが、それを見なかったことにだけはできない男だった。また、相手が求める言葉を察することにも長けている、優しい男だった。
「――赦すよ、ヒョン」
「……!」優しいその声にゆるゆると顔を上げ、涙目で弟を見た。
ギソクは両手を広げ、呆れたように笑っていた。
「ほら、ハグしたいんだろ?」
「……ギソ、ク」
「ちょっとだけだからな……――ってうわっ!」
勢いあまって飛びかかったせいでギソクは危うく後ろに倒れるところだったが、それはギジュンの脚力によって無事に回避された。
まるで子どものように縋りついてくる兄に苦笑しながら、ギソクはギジュンが満足するまで、そのまま兄の背を撫でてくれていた。

 

「――落ち着いたか? ヒョン」
「ああ……」
五分ほど、そうしていただろうか。
さすがにこれ以上弟を拘束するわけにもいかないと、ギジュンは腕に抱いていた弟の薄い身体を解放した。ギソクは兄の様子のおかしさに疑問を感じていただろうが、追及したりはしなかった。
いや、今はそれどころではないというのが正解だろう。
兄の抱擁から自由になったギソクは、おもむろに背後にあるシマネの死体を振り返った。神妙な面持ちで、アスファルトを赤く染めている男を見つめて呟く。
「ヒョンがいなかったら……俺、多分死んでたな」と。
「…………」
ギジュンは口を閉ざす。何と返事をしていいかわからなかった。――実際に今日ここで、弟が死んだ記憶があるからだ。
「そんなことないだろう」取ってつけたように告げたが、それがその場しのぎの返事であることは、何よりもギソク本人がよくわかっていた。
「いや……ヒョンに怪我を負わせられるくらいだぞ。俺だけだったら、間違いなく殺されてた」
ギソクの顔に陰りが差す。確かにギソクはジュウン組とボンサン組のなかでは一番強いかもしれない。
だが、ギジュンのように闘うために生まれてきたタイプの人間とやりあえば、命を失う確率のほうが圧倒的に高いだろう。
それを十二分に理解しているギソクはシマネの死体をじっと見たあと、ふいに兄のほうへと視線を戻した。視線が絡み、ドッといやな汗が背筋を伝った。
「…………」
なんで今日、ここに着いてきたがった?――そう訊かれるかもしれないという緊張感が全身を駆け抜ける。事情を説明しても拒絶されることはないだろう自信はあったが、ここで打ち明けてしまうには、あまりにリスクが高すぎた。
なにせ、不確定要素が多すぎる。確かにシマネは死んだが、元凶である息子二人は改心させておらず、チャ・ヨンドもいまだ息をしたままだ。このような状況で、ギソクにすべてを話すのは気が引けた。
だが、ギソクは何か言いたげに口を開いたが、声に出されたものはギジュンの予想とは違っていた。
「ありがとう、ヒョン。傍にいてくれて」
「あ……ああ」
「また、助けられちゃったな」
「……それはお互い様だ」
素っ気なく言いすぎたせいか、フッと微笑まれた笑顔にドキリと胸が鳴る。悟られたわけではなかったと安堵したが、挙動不審な兄に完全に気を許しているのもどうかとギジュンは後頭部を掻いた。
気を許すと途端に警戒心がなくなるのが弟のダメなところだ。やはり傍で護り続けないといけないなと嘆息をつき、ギジュンは話題を死体へと戻した。
「で……どう処理するつもりだ?」
左手に風穴を空けてきた男の死体を顎で指す。ギソクは腰に手を当てて、大きく息を吐いた。
「ん……そうだな、とりあえず……」
ギソクはスマートフォンを取り出し、手慣れた様子で誰かに電話をかけていた。処理をするならソンウォンかと思ったが、もっと身近な男だった。
「……ああ、ヘボム。悪いなこんな夜更けに。ちょっとトラブってな……死体の処理を頼みたい。本部に行ってギャラリーに何人か寄越すよう伝えてほしい。できたらお前も来てくれると助かる……ん? いや大丈夫。俺に怪我はない」
どうやら通話の相手はヘボムのようだった。最後に別れる際、泣きそうな顔でこちらを見つめていた男の顔が目に浮かぶ。情に熱く、高い忠誠心を持ち、どこまでも誠実な青年の顔が。
彼も、敬愛する兄貴を失わずに済んでよかった。ギジュンはここに来るであろう末弟といっても過言ではない男を思い、軽く息を吐き出した。
だが、通話を切った弟は、どうしてか気まずげな顔をギジュンに向けた。
「どうした?」
「いや……その、今から俺の部下がここに来る」
「らしいな。何か問題か?」
「…………」
ギジュンは本心から尋ねたが、ギソクは二、三度言いあぐねたあとでようやく質問に答えた。
「ヒョン。今……たぶん、相当殺気立ってると思うけど、俺の部下は本当にいい奴だから、顔を見ても手を出すのはやめてほしい」
深刻そうな顔に、ただただ疑問が浮かんだ。
「……悪い、意味が理解できないんだが」
本当に理解不明だったために問い返したギジュンだったが、ギソクは「だから!」と声を張り上げた。
「今から、『忠犬』が来るから……! 来ても殴ったりしないでくれよって言ってるんだよ!」
「ああ……そういうことか」
いったい何を案じているのかと思えば、どうやらギソクはオフィスでの会話がいまだに引っかかっていたようだ。少し脅しすぎたなと多少反省しながら、ギジュンは弟の不安を消し去ってやった。
「そんなことしない。お前が信頼する大切な部下だろ? なら、俺にとっても大事な人間だ」
取って食いやしないから安心しろ。ギソクの肩を叩いて念押しで言ってやれば、ギソクはようやく納得したように肩の力を抜いた。
にしても、俺はそんなにも暴力的な男に見えているのだろうか。いくらなんでも焦りすぎではないかと考えて弟の横顔を見つめる。
ギソクは兄の視線にも嘘がないことを確認し、「よかった」と息をついた。
「安心したよ。ヒョンは昔から、俺に近寄る男を有無言わずに排除しようとするだろ」
「……そうだったか?」まさかの言葉に意表を突かれる。心外なイメージが自分のせいだったとは完全に予想外だった。
「そうだよ。ヒョンが組織いる頃とか、俺の腰抱いた組員の腕、その場でへし折って捥ごうとしただろ」
「そうだったか……?」
首をひねる。いや、確かに言われてみればそんな記憶もあるが、なんせ弟の美貌にやられて理性を失う男は驚くべきほどに多く――まあ、実際に世界一美しい顔をしているので仕方ない――、ギソクに害をなそうとした人間をいちいち覚えてはいられなかった。
そんなこともあったかと他人事のように笑ったが、ギソクが「笑い事じゃないぞこれは」と言い放ったため、ギジュンは反省した顔で無言を貫いた。
弟には口では勝てない。もともとギジュンは口下手だ。墓穴を掘って機嫌を損ねるより黙っていたほうが得策だ。
ギソクは反省していますというスタンスに切り替えた兄が面白かったのか、「まあでも」とやわらかい声で付け足した。
「それって、いつもヒョンが護ってくれてたってことだよな」
「……ギソク」
「ありがとう、ヒョン」
さっきも、俺の命を救ってくれて。
あたたかい笑顔を浮かべてそう告げた弟に、ギジュンは少しだけ泣いた。

 

それから二十分ほどすると、甲高いスキール音と共に地下に下ってくる一台の車が現れた。ギジュンはそれがヘボムの車であると知っていたが、素知らぬ顔で「忠犬か」と弟に尋ねた。
「そうだ。――ヘボム!」
右手を挙げて注意を引いたギソクに、ヘボムはすぐに気がついた。二人の近くに駐車し、慌てた様子で運転席から降りてくる。
そして、その近くに横たわる血だらけの人間の死体を見て目を見開いた。
「兄貴……! な、これ……何が――」
あったんです、そう続けられるはずだったのだろう台詞は、ギソクの隣に立っているやつれた様相の謎の男の存在によって掻き消された。
「……どなた、ですか」
ヘボムは柱に隠れて見えなかったギジュンの姿を目に止めてすぐ、凄まじい警戒心を露にして腰に手を添えた。そこに警棒か、刃物を仕込んでいるのかもしれない。ギジュンはそう考えた。確かに死体が転がっている現場で兄貴分の隣に謎の男がいれば、敵かもしれないと警戒するのは当然だ。ギジュンとしても、それくらい警戒してくれたほうが弟を預けている身としては安心できた。
ギソクは兄を注視して固まったヘボムを見て、取り急ぎと言ったように事情を明かした。
「ヘボム、安心しろ。彼は味方だ」
「お知り合いですか……?」
「そうだよな……はじめましてだから」
ギソクはちらりとギジュンの様子を窺ったあと、兄に部下を紹介し、ヘボムに兄の存在を告げた。
「ヒョン、彼が言ってた部下。チョン・ヘボムだ。ヘボム、この人が前から話してる俺の兄。ナム・ギジュンだ。挨拶しろ」
「……!」
ヘボムはギソクの説明に目を丸くして、警戒心を一瞬にして消した。それから腰に当てていた手をすぐに引っ込め、身体の前面に移動させる。そのまま深々とお辞儀すると、興奮と憧憬が詰まったような顔をギジュンに向けた。
「私、ギソク兄貴の部下をさせていただいております、チョン・ヘボムと言います。ギジュンさんのお話は兄貴からよく聞かせていただいてて……まさかご本人にお会いできるとは。光栄です!」
迸る双眸に、まさに犬だなと思わず笑みがこぼれる。それもそうだった。ギジュンの知るヘボムは、敬愛する兄貴を殺された痛みによって憎悪と悲嘆に焼かれており、ついぞ笑顔を見ることはなかったから。――逆もまたしかりだ。
そのため、ヘボムのその明るい顔は、ギジュンに弟を救えた実感を深めてくれた。
ギジュンは右手を持ち上げて、弟のためにも敵意がないことを証明する。
「ナム・ギジュンだ。弟がいつも世話になってる。ギソクから有能だと聞いてるぞ」
弟の葬式での初対面に比べれば、天と地の差があるなとひとり感慨に耽る。ヘボムは差し出された武骨な手のひらに両手を差し出した。
「そんな、私には身にあまるお言葉です」
両手でギジュンの握手を受け止め笑顔を見せたヘボムに、こちらも軽く笑んで手を離す。懐かしさすら感じる青年を前に彼とまた知り合えてよかったと思いながら、ギジュンは話題を死体へと戻そうと身体の向きを変えた。
しかし、ヘボムはその優秀さゆえにギジュンの怪我に目敏く気づいた。反対側の手に巻きつけられたギソクの血に染まるネクタイと、その下の刺し傷に。
「ギジュンさん、まさか怪我を……?」
「ん? ああ、大丈夫。ただのかすり傷だ」心配するなこれしきで。と返そうとしたが、隣から信じられないほどに低い声が聞こえてきてのみ込むざる得なかった。
「……ヒョン」
「……医者に、見せないとな」
「手配します……!」
凍えていく兄弟間の空気にヘボムは影響されることなく、手際よく一本電話を入れていた。案外図太い性格らしいと、ギジュンは弟から向けられている視線から逃げながらヘボムを眺める。
「医療班に怪我の具合を伝えたので、ここに到着次第すぐに治療できます」
「ありがとうな、ヘボム」
相変わらずの有能さを発揮するヘボムにギソクが微笑む。ギジュンとしては本当にかすり傷だったのだが、さすがに弟とその部下の善意を無下にはできない。素直に二人に礼を告げ、それから、兄弟間の圧迫感に気づくことなく本題に触れるヘボムを見守った。
「それで……何があったんですか、兄貴」
シマネの死体を見てそう尋ねてきたヘボムに、ギソクは肩を竦めた。
「俺もよくわからないんだが……誰かが今夜、俺を殺したがったのは間違いない」
「えっ……!?」驚愕に覆われたヘボムの声にギジュンは首を傾げる。なぜそんなに驚くのかという疑問は、すぐに解消された。
「ギジュンさんじゃなくて……兄貴が、狙われたんですか……!?」
ああ、そうか。ギジュンとギソクは目を丸くする。確かにそうだよなとうなずいた。
言われなければ、十一年ぶりに汝矣島に現れたギジュンを狙っての犯行だと思っても仕方のない事件だった。怪我をしているのも、ギジュンだけなのだから。
しかし、狙いは間違いないなくギソクだった。聡いヘボムのことだ。それで今夜の事の重大さを一瞬で理解したようだった。
「……ッ」怒りを滲ませ、アスファルトに向かって呪詛を吐く。
「ク・ジュンモですね……」
振り絞るような、痛々しい声だった。ギソクは息をついて、それに持論を述べた。
「まだわからないが……まあ、あれだけ吠えていたから、可能性はなくないだろうな」
「あいつ以外、いないでしょう……!」
激昂したヘボムに、彼がどれほどギソクを想っているかを感じられる。彼は本当にいい奴だ。だが、今からでもジュンモに殴り込みをかけそうな勢いを見かね、ギジュンは助け船を出した。
「ク・ジュンモ……ク会長んとこの息子か?」
「ああ。そうだ、ボンサン組の跡継ぎの。その、昨日の昼に奴と会ったんだが、トラブって殴ってしまってな」
「絶対にそれですよ……!」
あいつ、よくも兄貴を――。そう呟きせっかくの聡明な思考を赤く塗り潰しそうなヘボムに、ギジュンは思考を止める言葉を呟く。
「でも……もう一人いるんじゃないか、今夜お前を殺そうとした奴は」と。
「もう一人……?」
ギソクは眉をひそめた。思い当たる節もないのだから当然だ。
ギジュンはシマネの死体を一瞥し、それから弟に視線を向けた。
「ギソク。忘れてるかもしれないが、お前は今夜、二度襲われてる。チンピラの集団と、そこにくたばってるあいつだ」
「そうなんですか……!?」
「あ、ああ……」
普通に受け止めると、二つでひとつの指示だと思うかもしれない。だが、冷静に考えれば、「その」違和感を拭うことは難しいだろう。
――シマネひとりいれば、ギソクを殺すのに事足りるのだから。
「会長たちに会う必要がある」
「!……ヒョン」
最初からそのつもりだった台詞を口にだす。犠牲者を出さずにすべてを綺麗に終わらせるためには、二人の権力者の協力は不可欠だった。
ギジュンはギソクを見つめ、固い覚悟でそれを告げる。
「俺には、二人に確認する権利がある。なぜ俺の弟を危険に晒す羽目になったのかを。――セッティングしてくれるか、ギソク」
有無を言わさない声色でギソクに告げる。ギソクはヘボムと顔を見合わせたあと、「最善を尽くす」と返事をした。
「でも……他に誰がいます?」ヘボムが神妙に告げた。ギソクもそれに同意する。
「それだよな……ク会長とか? 息子の杜撰な暗殺計画をカバーしたか……」
二人の会話は見当違いだったが、ギジュンも真相を掴むのにかなりの労力を要した。この場で真実に辿り着くことは不可能に近いだろう。ならばせめてと、ギジュンは頭脳派である弟に閃く材料を提示した。
「あのチンピラたち。あいつらからなら追えるんじゃないか」
「うん。でも……どこの誰だか」
「待ってください……チンピラですよね? 大勢ですか?」
さっそく何か閃いたのだろうヘボムが兄弟に問いかける。「十二、十三人くらいはいたな」と返したギソクに、ヘボムはスマートフォンを取り出して操作し始めた。
ギジュンは、ヘボムが辿り着くであろう先を知っていた。
「……ウソ、だろ…………あった……」
さすが、若いだけある。ヘボムの愕然とした顔を見て、彼が見ているのが「おっさんは知らない墓部屋」のサイトであるとギジュンは悟る。
何を見つけたんだと部下の手元を覗き込んだ弟に倣い、ギジュンもヘボムの手元に視線を落とした。
そこに表示されていたのはやはり、ソンウォンが経営するNクリーン社の墓部屋だった。そこに、まさに今夜の発端であろうギソクの写真と共に、殺害依頼の応募が投稿されてある。逃げられない証拠だった。実際見たことがなかったそれを見て、ギジュンの顔から表情が消える。
「これ……削除させないと、また狙われるな」
「……!」ギジュンのその言葉に、ヘボムの顔もぐっと歪んだ。
ああ、よくわかる。よくわかるよヘボム。お前の気持ちは痛いほど。俺も依頼されているこのページを見ていなかったから、弟が生きているいま、「これ」がどれほど危険なことか――考えるだけで、殺意が理性を押し退けそうになる。
けれど、理性を失っている場合ではないのも事実だった。すぐにソンウォンを締め上げ、吐かせ、依頼を取り消させ、その情報を持って、会長たちに会わねばならないのだから。――もちろん、弟を連れて。
「このサイトの運営、わかるか? ヘボム」
ギジュンは知っていたが、兄貴を護りたいと強く願うこの青年の本気を見てみたかった。
「――調べます、一時間で」
「フ……頼もしいな」
やはり有能だな、チョン・ヘボム。
強い意思を瞳に宿して去っていったヘボムを見て、ギジュンは弟に告げた。
「いい奴だな、あいつ」
「だろ? そう、すごくいい奴なんだ」
命を狙われている当事者とは思えないほど、ギソクはおだやかに同意した。
実際、心労は相当なものだろう。足を洗って兄と生きようと決めたギソクにとって、兄を巻き込んで実行された暗殺計画はそのすべてを崩壊させるドミノの一手だ。それも、ギジュンがいなければ死んでいた、という残酷な現実もある。本来、笑っていられる精神状態ではないはずだ。
それでも笑うのが、ギソクの祈りであると知っている。大丈夫。大丈夫と、自身を鼓舞すればすべてうまくいくと、ギソクが日頃からそう心がけているのは聞いていた。幼い日の、ありし頃からずっと。
ギジュンは決意を新たに気を引き締める。
会長たちを説得するのは大変だろうが、息子の命より優先されるものはないはずだ。現状、二人の息子が俺の弟を殺すよう指示したのは確実だ。いくらなんでも俺を敵にしようとはしないだろう。息子の命と引き換えに、チャ・ヨンドを潰すよう促せばいけるはずだ。
ヘボムが去ってすぐ、駐車場にジュウン組の処理班が到着した。ギソクに圧をかけられながら左手の応急措置を受けたギジュンはトランクに腰掛け、部下たちに指示を出す弟の横顔をじっと見つめる。
何に換えても護りたい、最愛の弟の横顔を。
――必ず護りぬいてやる。この手で、最後まで。
胸の内で呟いたはずだったそれは、ギジュンの口からこぼれ落ち、断片がギソクの耳へと届けられる。
「……ん? ヒョン、何か言ったか」
部下から視線を外してこちらを向いた、レンズに透ける琥珀色の双眸。ギジュンの瞳よりも格段に明るいその瞳は、優しかった母を彷彿とさせた。
ギジュンは首を軽く横へ振り、愛しい弟を見上げた。
「犯人見つけて、キャンプ場やろうな」
「! ああ……必ずな」
兄の言葉に少し毒気が抜かれたようにうなずいたあと、ギソクはすぐに上司の顔を取り戻し、指示を仰ぐ部下の元に足を向けた。
きっちり縫合された左手は傷口が残るとのことだったが、弟を救えた証であれば勲章だと、ギジュンは誇らしくそれを眺める。
その足元に突然、小さな温もりが擦り寄ってきた。
「ん……」
「ニャ~」
「お前か……」
それは、ギソクがかわいがっている猫だった。恐れも知らずにギジュンの脚に身体を擦りつけ、媚びるように顔を向けてくる。
「……怖くないのか。俺が」ぼそりと呟かれたそれに、猫は気にした様子もなくギジュンの右脚をぐるぐると回っている。
ギジュンは小動物を愛でる趣味は皆目なかったが、これが弟を護るために一役買った事実をすべて否定するほど腐ってはいなかった。
腰を下ろしているワゴンのトランクから手を伸ばし、弟に触れるときのように優しくその背を撫ぜる。猫は小さく鳴いて、ギジュンの足元で安心したように横になった。なんと野性味のない大胆な猫だろうか。
目の前にいる男は、先ほど命を狩り獲ったばかりだというのに。
だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくるその姿は、かつて二人きりのときに兄に甘えてきたギソクによく似ていた。
ギジュンは猫の顎をそっと撫で、おもむろに声をかける。
「ありがとうな……弟を護ってくれて」
柄にもなく、礼を言った。気恥ずかしさからゆらりと辺りを見回したが、聞こえる範囲に人の気配はなかった。
ニャアと鳴き声が聞こえ、視線を足元へと戻す。生まれて初めて話しかけたそれは、そのままあくびをして眠りについてしまった。あまりの無防備さにやはり弟の影を感じ、思わず吐息が漏れる。
生きて仕事をしているギソクを背景に、眠りこける小動物。それはまるで平和の象徴のようで、ギジュンはこの平穏を必ず護りぬこうと改めて誓った。

Chapter 4: 【Nクリーン】

Summary:

ヘボムの手を借りて墓部屋の運営元を調べ当てたギジュンは、三人でNクリーン社に乗り込み、ギソクの暗殺を指示した人物や、会長らを説得するのに必要な情報をソンウォンから聞き出す。

Chapter Text

「俺は本当に……ッ、何も知らなかったんだよ、ギジュン……!!」
情けない男の悲鳴に、ギジュンはいったん拳を止める。足蹴にしている男をゆらりと見下ろし、浅ましい嘘の真偽を問うた。
「そうか……。どう思う? ヘボム」
隣に立ち、初めから見ていた弟の忠臣に意見を求める。ヘボムは手にしていたスマートフォンの画面を、男――ソンウォンに見せつけた。
「あんたが墓部屋に載せたんだ、知らないわけがないだろ……!」
「……っ」
「だ、そうだ」
しっかりとスクリーンショットに残された、墓部屋に載せられたギソクの暗殺依頼。ギジュンはヘボムから足元に視線を戻し、見苦しいかつての上司に再度問いかけた。
「ソンウォン……何で、俺の弟を殺すような指示を出した?」
「ちが、違うんだ……俺は! な、なぁギソク……何とか言ってぐ――ガッ!」
「おい……。どの立場で、俺の弟に喋りかけてんだ、なあ」
思ったよりもドスの効いた声が自分の耳にも届く。振り下ろした拳は多少加減していたが、やはり目の前の男がしたことを思えば、湧き上がる憤怒を抑えることは難しかった。
――一度、死ぬ前の人生で、俺の命を救ってくれていたのだとしても。

駐車場から飛び出していったヘボムは、期待通りの働きをしてくれた。一時間にも満たない時間で、Nクリーンの正体を突き止めてきたのだ。――実際に調べ出した時間はわずか四十二分だった。
「墓部屋の運営はNクリーン社が請け負っており、代表の名は……えっと、シム・ソンウォンという男です」
「…………」
ギジュンはヘボムの報告を聞いてすぐ、ギソクに視線を向けた。かつての知り合いが、兄の元上司が、自分の命を狙う仕事を引き受けたと聞いて、弟がどんな顔をするのかをちゃんと見ておきたかった。
このあと、ソンウォンと対峙するときのために。
「……そうか」
ギソクは兄の手前か、無理をして平気な顔でうなずいていた。いつものように自分に大丈夫だと言い聞かせ、取り乱さないよう努めているのが目に見える。
ギソクはフッと息を吐き出して、苦笑じみた表情を浮かべてギジュンに顔を向けた。
「シム・ソンウォン……確か、ヒョンの知り合いだったよな」
「ああ」端的に返事をして弟の様子を見守る。
ギソクは兄の飄々とした態度を見て同じように取り繕おうとしたが、うまくいかなかったようだった。失敗したように、徐々にその整った顔から笑みを消していった。
「ハハ……、は」
乾いた笑いがギャラリーのオフィスに響く。
ギソクはもう、笑ってはいなかった。
「キツいな……」
「……ギソク」
暗くよどんでしまったギソクの顔を見て、残り火に近かった憎悪と殺意が一気に内側で燃え上がる。
ギジュンは昔から、弟が悲しむことが嫌いだった。弟が苦しんでいるのを見るのも、弟が泣いているのを見るのも、弟の笑顔を曇らせる世界のすべてが大嫌いだった。たとえその原因が親しい間柄の人間であっても、容赦なく殺せるほどには、ギジュンは弟を愛していた。
正直、ソンウォンのことはあまり痛めつけるつもりはなかった。前回自白していた通りに「選択肢がなかった」だけであり、「ギソクを殺せる奴は送ってはいない」と告げていたからだ。それに、最後、己の命を危険に晒してまで救ってくれた。――あそこで死んでいたら、復讐を完遂することはできなかっただろう。
だから、建前分だけ殴り、従わせようと思っていた。
――ギソクの、この顔を見るまでは。
たぶん、無理だと思った。俺は恐らくソンウォンの顔を見たら、恩義よりも先に殺意に理性が焼かれるだろう確信があった。
弟を悲しませた――これは、ギジュンのなかで許せないリストの最上位に載っているものだったから。
「ヘボム」
「はい」
「お前も着いてきてくれ」
ギソクは確定として連れていくが、弟の前で愚かな行動を取ってしまわないように、第三者に、できれば信頼できる者にいてもらう必要があった。
ヘボムはギジュンから漏れでた殺気に気づかないほど間抜けじゃない。また、己が慕う兄貴が顔を曇らせているのを許容できる男でもなかった。そのギソクへの強い想いが、経緯を知らずともヘボムにイエスを選択させる。
「ええ、もちろんです。行きましょう」
ギソクは終始黙っていたが、ギジュンにはひとつ、判断を仰がなければならないことがあった。
「ギソク」
閉じられたラップトップを見つめて固まっていた弟の名前を呼ぶ。ギソクはついっと軽めに顔を上げたが、その顔には晴れない曇天がしっかりと浮かんでいた。
「今からソンウォンのところに行こうと思ってるんだが……お前の意見はどうだ」
「……俺?」
「ああ。これはお前の問題だろ。お前はまだジュウンの後継者だ。俺が勝手に判断して、お前の人生を破滅させることだけは避けたい」
誓いを立てたとおりに弟の意見を取り入れる。ヘボムも緊張した面持ちでギソクを見つめていたが、ギソクは椅子から立ち上がり、芯の通った声でギジュンに告げた。
「そうだな、ヒョンの言う通り……これは俺の問題だ。辞めるなら最後まできっちり片付けて、後腐れなく去らないとな」
覚悟を決めたその声に、ならば行くかと動こうとしたギジュンの脚は、右隣から聞こえてきた愕然とした声によって歩みを止めた。
「……え、やめ……辞めるんですか……? 兄貴」
「!」
ヘボムだった。まさかの台詞に、ギジュンの顔にも少し驚きの色が乗る。ヘボムの顔を見てみるとショックの色が浮かんでいて、『ヘボムは知らなかったのか』と意外な事実にギジュンもギソクを見つめる。
ギソクは眉を下げ、ヘボムの頬を軽く叩いた。
「ああ……言えなくて悪かった。ずっと考えててな。お前は俺をすごく慕ってくれてるから、なかなか言いづらくて……」
苦笑してそう告げたギソクに、ヘボムはぐっと口を引き結んだ。
ああ、言いたいことが山ほどあるだろう。敬愛する相手が自分の前から去ると知って、憤りも感じているかもしれない。王座を目前にして、なぜなんですか? そういった疑問もあるだろう。常人には理解できない感覚かもしれない――なんて、ナム・ギソクを誰よりも近くで支えてきたヘボムが、そんな野暮なことを思い浮かべるはずがないとギジュンもわかっていた。
「だから俺に……『この仕事辞めたら何したい?』って訊いたんですか」
訊いたのか。二人の会話を邪魔しないよう置物に徹して行く末を見守る。
しかし、ヘボムは受けた衝撃をもう整理し、のみ込んだようで、まっすぐにギソクを見つめていた。
「兄貴は……辞めたら、何がしたいんですか?」
驚くほどに穏やかな声だった。理解できないことが多いだろうに、それでもヘボムはギソクの選択を尊重し、それすらも敬意を抱いて平穏を願える、できた男だった。
ギソクは目を細め、眼鏡を外している素の顔でやわらかく破顔した。
「キャンプ場をやろうと思ってる。――ヒョンといっしょに」
そう言って、こちらに向けられた笑顔。あまりに無垢で、希望に満ち足りていた。――その横顔を見つめる、ヘボムの泣きそうで、安堵したような顔も。
ギジュンは気づけば「それ」を口に出していた。
「お前もいっしょにどうだ、ヘボム」
「え……」
「ヒョン」
弟の顔に浮かんでいた笑顔が間の抜けたものに変わる。意外そうな顔で見てくる弟を横目に、ギジュンはヘボムに提案する。
「お前どうせ、ギソクがいなくなったら会社にいる意味も失くなるんじゃないか? 辞めても行き場がないなら、俺たちと仕事するのも悪くないだろ」
「い、いやでも」
ご兄弟水入らずの生活を俺ごときが邪魔するなんてできません。なんて、らしい気遣いを並べ立て慌てふためくヘボムを横に、ギジュンはギソクに顔を向けた。
「どう思う、ギソク」単刀直入に尋ねる。ギジュンの見立てが正しければ、ギソクは否定できないはずだった。
「ヒョンは……いいのか?」
やはり、と笑みがこぼれる。ギソクの話からたひたび滲むヘボムへの厚い信頼に、ギジュンは弟がこの若い青年のことをひどく気にかけていることに気づいていた。それはそうだ、きっと十年来の付き合いだろう。裏社会に捨て置くには愛着が湧きすぎたのだ。
この人生での二人には無関係だったが、それはギジュンとて同じであった。弟の死の痛みを共有し、最後まで復讐に力を貸してくれたヘボムのことを、十一年前の弟のようにこの掃き溜めに置いていくことは何よりも望んでいなかった。
ギジュンは「かまわない」とうなずいた。弟にしか見せてこなかった笑顔を浮かべ、ヘボムに視線をやる。
「ギソクが大切に想う相手は、俺にとっても護るべき大事な相手だ。ヘボム。俺のことは年の離れた兄だと思ってくれていい、気遣いも必要ないから」
「ギジュン、さん」
「ヒョン……」
弟の顔に強い晴れ間が差したのを見て、こちらまで救われていく気がした。ヘボムも感極まった顔でギジュンを見つめていたが、この場で決断させるようなことでもないだろうとギジュンはヘボムの肩に手を置いた。
「まあ、考えておいてくれ。全部片がついたらもう一度訊くから」
「はい、ありがとうございます兄貴……!」
「おい、お前の兄貴は俺だろうが」
バシッと部下の後頭部を軽めに叩けるくらいにはメンタルが回復したようなギソクに、ヘボムと視線を交わして笑う。
さらに明るくなった未来のビジョンのためにも、すべてをうまく処理していかねばならない。
――ともかく、今は暗殺計画の首謀者をソンウォンに吐かせることが先決だ。
「じゃあ、きっちり片付けに行くか。三人で」
ギソクに視線を向けて、同意を取る。
「ああ。ヒョンは……少ししんどいかもしれないが、頼めるか?」
「フッ。誰に言ってるんだ」
お前より大事なものはない。

ギジュンはそう言いきって――今現在、抑えていたはずの激しい怒りに焼かれながら、かつて親しかった男を拷問している。
「弟を殺すよう募集をかけといて、よくもギソクに話しかけられたな……? 俺がいなかったらギソクがどうなってたか、まだ理解できないのか」
「……っ、ギ、ギジュン……俺のことはよく知ってるだろ……! 俺はお前が現役のときと変わっちゃいない、『片付けろ』って言われたら『はい』。『隠せ』って言われたら『はい』……っ。俺はただ、命令に従うま――」
最後まで言わせはしなかった。一度聞いた言葉を聞くのは苦痛だ。それも、事が起こってから加害者が述べる言い訳は。
「ギソクだと……知ってたんだな?」
胸ぐらを掴んだまま、ゆらりとソンウォンを見下ろした。死に怯え、許しを乞う双眸がギジュンを見上げていた。
ギジュンはその顔に多少焼けつく憎悪が沈静化していくのを自覚しながら、傍で見ているギソクとヘボムに聞こえるよう「それ」を問いかけた。
「知ってて、ガキどもと『殺し屋』を、ギャラリーに送り込んだんだな?」と。
当然、身に覚えのない一言にソンウォンは慌てふためいた。
「ま、まて、殺し屋……!? ギジュン待ってくれ、俺が使うのは基本身寄りのねえガキどもだけで、本職の奴らにはもう二年以上関わってねえ……!」
「どうせ、ウソに決まってます……!」
剣呑な声で切り捨てたヘボムに、ギジュンは撮らせておいたシマネの顔写真を催促する。ここからは、ソンウォンの腕の見せ所だった。
シマネに殺しの依頼をしたのはチャ・ヨンドとイ・グムソンだ。早急にその二人に辿り着くためにも、何かしらの情報を手に入れて会長らに会う必要があった。
「こいつだ。記憶にないか?」二人の手前、脅す体で答えを引き出す。
ギソクだと知っていて募集をかけた事実は消えない。本当に悪いと思っていたのなら、事が起きる前にギソクにその事実を伝えるか、ギジュンに連絡を寄越せばよかったのだ。ギソクの命を救うために最大限の努力を尽くさなかったことは、ギジュンにとって万死に値する行いであった。それを、ソンウォンはよく知っている。下手なことを言えば殺されるとわかりきった状況で、悪手を取るような男ではなかった。
写真を見て目を見開いたソンウォンは「雇ったのは俺じゃない」と念押しで強く否定し、それからギジュンの知らなかったシマネの情報を示してきた。
「偽名だが、名前はキム・ギルロク。本名は確か……カネ、なんだったか。まあいい。島根県出身の日本人で、一度インターポールの指名手配に載っていたほどの殺し屋だ……。俺ならこんな奴、絶対に送り込まない。ガキども使ったのは、ギソクが死なないようにと俺なりにできる限りの選択をしたからだ。なぁ、ギジュン……いやナム理事。命を懸けて言うが、そいつは俺の手札にはいなかった」
「……信じるか? ギソク」
ギジュンは弟を振り返り、数十分ぶりにその姿を視界に入れた。青新キャンプ場に六年ぶりに現れたときのように、モデル並みのスタイルが映えるしっかり着込まれたスーツ姿は、我が弟ながらハッとするほど男前だ。
ギソクは兄の顔と、その足元で顔を腫らして怯えている男の顔を数秒ほど見比べたあと、静かに二度首をうなずかせた。
「つまり……ヒョンの予想通り、もう一人いるってことだな」
「ああ、このギルロクとやらを雇った人間がいる。……ところで、ソンウォン」
愛しい弟から目を逸らし、再び怯えきる男に向かい合う。何よりも、こいつに吐かせなければならないことがあった。
「誰だ」
「え……」
「誰なんだ」
それ以上の言葉は必要なかった。ソンウォンは血の気を引かせて、ここにきてまだ依頼人を護ろうと動いた。
「ギジュン……よく知ってるだろ? この世界は信用第一だ。依頼人を裏切ったってウワサになれば、商売――」
「それを言わないで、お前に明日があると思うか?」
「……ッ!」
真顔で言葉を封じ、首をかしげた。記憶が正しければソンウォンはこのあとも食い下がった覚えがあったが、苛立ちを隠せていないギジュンの底のない瞳に心が折れたようだった。
「ク・ジュンモ……ッ、ク・ボンサンの、息子だ」
「やっぱり……!」
クソッ! ヘボムが悪態をつくのを視界に入れながら、ギジュンはその証拠をすべて出せとソンウォンに命じた。
データが入ったUSBをそのままヘボムに手渡し、血だらけでラップトップに向かっていたソンウォンに告げる。
「これからしばらく従ってもらうぞ、ソンウォン。生き残りたければ調べろ、誰がギャラリーに殺し屋を送り込んだのか」
「むちゃくちゃ言うな、お前はホントに……」
「――ソンウォン」
ギジュンはデスク越しにソンウォンのうなじを掴み上げ、今一度自分がしでかしたことの重大さをわからせる。
「お前が送り込んだガキどもは、確かに雑魚ばかりで弟を殺すことはなかっただろう。だがな、刃物を持っていた。俺がいなければ、ギソクは刺されていたかもしれない。この『意味』……お前ならわかるよな」
「~~…ッ!」
ソンウォンの顔は壮絶な恐怖に染まった。
現役時代、ギジュンはギソクに切り傷ひとつ付くのを許容しなかった。弟に触れるものは皆殺しだとばかりに敵を薙ぎ倒し、いっさいの怪我なく返り血に塗れていく。その姿は、まるで天地に厄災をもたらす悪神のようだと内外から恐れられていた。
――その神の怒りの領域に、ソンウォンは思い切り踏み込んでしまったのだ。
「わか……った。か……必ず突き止める」
「そうしろ。……あ、あと」
ギジュンは顔を耳元に近づけて、ソンウォンにだけ聞こえるよう情報を渡した。
「チャ・ヨンド……。こいつとイ・グムソンの関係も調べろ」
「え゛」
予想外の名前にさすがに待て待てと反射で口答えしたソンウォンだったが、じっと睨んでやれば、それ以上何か言ってくることはなかった。
スッと離れていったギジュンを見て、ソンウォンはようやく呼吸できたとばかりに肩を揺らした。ソンウォンのそのあまりの態度の変わりように、ヘボムが緊張しているのがわかる。ギジュンの不敗神話はギソクからよく聞いていただろうが、実際に目にするのとでは感じ方も違うだろう。
ヘボムを怖がらせることは本意ではなかったため、ギジュンは殺気を内側に小さく収めて深く息を吸い込んだ。平静を取り戻すために肺の中の空気を思いきり吐き出し、背後を振り返る。
「ギソク、これからどうする」
ク・ジュンモがギソクを殺そうとした事実は、謂わばパンドラの鍵だった。ジュウンとボンサンの戦争を引き起こす、禁断の一手。情報の扱い方しだいでは、両者だけでなく、無関係の者まで破滅させる恐れがあった。――ギジュンが巻き込んで死なせてしまった、平穏を享受していたビョンホのように。
ギソクは右手で口元を覆い、一点を見つめて思案していた。問題の渦中にいる当事者のギソクにとって、次に取る行動は慎重にならざる得ない。誤った判断をすれば、ギジュンも、ヘボムも、血で血を洗う争いに巻き込まれる可能性が高かったからだ。
ヘボムは不安げにギソクを見つめていた。何もできない不甲斐なさで己がやるせないのだと、その表情から伝わってくる。
しかし、ヘボムは決してギソクの思考に横槍を入れたりはしないのだ。ただ黙って、兄貴の判断を待っていた。できた部下だ、本当に。
ギソクは長い息を吐いたあと、手のひらから顔を上げてギジュンに視線を向けた。
「データを持って、イ会長に会いに行く。今から」
「ああ……。そうしたほうがいいだろうな」
時刻は早朝六時を回った。ジュウンはまだ寝ている可能性があったが、後継者が暗殺されかけたのだ。例外的にも対応せざる得ないだろう。
「まぁ、でも……事をうまく収める方法が何も浮かばないが……報告はしないとな」
失笑して天井を扇いだギソクに、ギジュンは軽く手を差し伸べた。
「不利なのはお前じゃなくてボンサン側だろ。安心しろ、ジュウン兄貴には俺からも話してみる」
「……うん、助かるよ。ヒョン」
これじゃあ、暗殺されるより先にストレスで死にそうだ。そうジョークを口にしたギソクの背を叩いて鼓舞し、ヘボムに声をかけて事務所を後にする。
ソンウォンに「急いで探せよ」と声をかけたあと、三人はその脚でジュウンの屋敷へ向かった。

Chapter 5: 【ジュウン邸宅】

Summary:

ジュンモが暗殺を指示したという証拠を手にしたギジュンは、ギソクとヘボムを連れてジュウンに会いに行く。ジュウンと話が済んだあとに二人と食事に行ったギジュンは、弟とヘボムの関係が特別なものであることを知る。

Chapter Text

「――……事実か」
ジュウンの低い声が彼のオフィスに響く。彼はギソクを見上げ、顔を強張らせていた。
ギジュンとギソクから事の顛末を聞いたジュウンは、早朝にしては重すぎるその報告に見るからに激しいショックを受けていた。
自分がかわいがっている後継者を殺されかけたことは、ジュウンのボスとしてのメンツにも影響することだ。それも、指示した相手が協定を結んでいた組織の息子なのだから、信じたくないのも仕方ないだろう。
だが、その上を行く黒幕は彼の息子のほうだ。ここで挫けてもらっていては、ギジュンとしても話にならなかった。
「兄がたまたま居合わせたので助かりましたが、恐らく……俺ひとりだったら死んでいたでしょう」
顔を曇らせているジュウンを見かねて、ギソクは事の重大さを再度伝える。ジュウンは唸り声をだし、ギソクに問うた。
「……しかも、その殺し屋を雇った人間がまた別にいると言うんだな?」
「ええ。今ソンウォンに調べさせていますが、わかるかどうか」
「そうか……」
体内の二酸化炭素をすべて吐き出す勢いで息をついたジュウンは、ふいとギソクの隣に立つ懐かしい顔に視線を向けた。
「ところで……ギジュン。いてくれて助かったが……何でお前はギャラリーにいた? 立ち入るなと伝えていただろう」
「…………」
疲弊しきった恩人の顔にギジュンは思案する。まさか弟が死ぬのを知っていたので阻止するために約束を破りました、など口が裂けても言えないため、ギソクに伝えた言葉を、そのまま答えとして提示した。
「ギソクが会社を辞めると話に来たので、詳細を聞くためにこっちに一晩泊まろうと思ったんです。それで、まだ仕事があるというので、少しぐらいなら待っていてもかまわないかと」
ダメでしたか。淡々と話して尋ねれば、ジュウンはまたため息をついて、首を横に振った。
「いやいい。むしろ俺たちは運がよかったな……ギジュン、お前がいなかったらどうなっていたか……」
どうなっていたか。その悲惨な答えは、ギジュンがよく知っていた。
死屍累々のうえにすべてが無に帰した、あの寂しい未来を。
ジュウンはギジュンからまたギソクへと視線を戻すと、一連の会話で無視できなかった話題を口にする。
「ギソク、お前……本気で会社を辞めるつもりだったのか」
ギソクの進退の話だった。前回は引き継ぐ前にギソクが殺されてしまったためどうするつもりだったのかは知らないが、この様子を見るかぎり、ジュウンとしては辞めさせたくないのが本心なのだろう。まあ、当然だ。
彼には信頼できる人間が、現状ギソクしかいないのだから。
だが、ギソクは一度決めたら引かない性格だ。ギジュンのように、ジュウンに命を懸けるほどの恩義があるわけでもない。強いて言うのなら、ヘボムを残していくことだけが心残りなくらいだろう。だがまあ、今はもうギジュンがキャンプ場に誘ったという現実がある。どれだけ頼み込まれても、ギソクが意思を変えることはないだろう。
ギジュンのその予想通り、ギソクは「本気です」とジュウンに返した。
「お世話になったご恩を仇で返すようで心苦しいのですが、俺は……これ以上、兄と過ごせる時間を無駄にしたくないんです」
「ギソク……」
「すみません、会長。……すみません」
深々と頭を下げたギソクの後頭部を、ジュウンがじっと見つめる。辞める理由がまさか兄との生活のためだとは思わなかったのか、ギジュンをちらりと見たあと、彼はしばらく固まっていた。
しかし、説得するのは無理だとジュウンが悟るのにそう時間はかからなかった。「わかった」と呟いて、苦笑じみた顔でギソクとギジュンを見上げる。
「ギソク、ギジュン。お前たちは昔からずっと、お互いのために生きてきたからな……。当然と言えば、当然だよな」
「……会長」
「兄貴……」
「むしろ、十一年も独りでよく仕えてくれた。こちらも礼を言わないと」
そう告げてやわらかい表情を浮かべるジュウンを見て、彼に救われた日のことが脳裏を過る。
――養護施設で殺人を犯したギジュンの罪を金で揉み消し、弟ともども身請けしてくれたイ・ジュウンの姿が。

ジュウンは、家庭内暴力のすえに死んだギジュンとギソクの母親の知り合いで、その父親とも面識を持つ男だった。妻の死後、酒に飲んだくれ長男に暴力をふるっているという噂を聞いたジュウンは、かつての仲間である男を改心させようと古びたアパートに足を運んだ。
だが、そこにもう男はいなかった。
いたのは十四歳の長男と七歳の次男だけで、保護者の姿は見えない。当然、真っ当な大人が違和感を覚えないはずもなかった。
父親はどこだと訊いてきた知らない大人に、ギジュンは『出ていった』と短く答えた。後ろ手に弟を隠し、子どもとは思えない殺気をジュウンに向けながら。
ジュウンはそのとき、まだ知らなかったのだ。父親が、母親の死からわずか三ヶ月もたたずに失踪していたことを。――実際は失踪ではなく、ギジュンが弟を父親からの性暴力から護るために、その頭蓋骨をかち割っていたことを。
どこに行ったと尋ねても知らないの一点張りのギジュンに――その目に宿る殺意に、ジュウンはようやく気づいた。
知人はもう、生きてはいないのかもしれない。
『……死体はどうした?』
その問いに敵意を剥き出しにしたギジュンを見て、ジュウンは確信する。――あの父親は、相応の報いを受けたのだと。
『なぜ殺した』責めるわけでもない声に敵ではないと判断し、ギジュンは弟を風呂場に追いやって答えた。
『俺の弟の口に、汚いブツを突っ込んで腰を振っていたから』と。
ジュウンはそれを聞いた途端に険しい顔をして、深く息を吐き出した。それからしばらくフローリングを見つめていたが、ふいに優しい笑顔を浮かべ、ギジュンの頭を大きく撫でまわした。
『そうか……よく弟を護ったな。あとは俺が全部うまく処理してやる。安心しろ』
ジュウンはそう言って、『偉いぞ』とギジュンを抱き締めてくれた。母以外にそうされたのは初めてで、無意識に身体が強張った。けれど、実の父親から与えられなかったそのあたたかい抱擁は、幼いギジュンの心を溶かすのに充分であった。
その後、養護施設で暮らせるように手配してくれたジュウンだったが、その先でも最悪なことに、兄弟の災難は消えなかった。
ギソクは幼いながらも容姿が異様に整っており、人懐こくかわいげがあったため、小児性愛者の格好の餌食だった。
そう。ギジュンが少し目を離した隙に施設のトイレに連れ込まれ、職員の男にレイプされかけたのだ。日頃からギジュンが「何かあったら大声で叫べ」と言い聞かせていたことが功を奏し、惨たらしい暴力は完遂されることなく、未遂で終わった。
だが、ギジュンは振り上げた拳を収めることなど無理だった。未遂で終わらせることなどできなかった。父親と同じように弟を性的に扱い暴行しようとした異常者を、生かしておくことなど、到底できるはずもなかった。
職員の男の性器を生きたまま切り取り、素手で男を殴り殺した。弟を連れて逃げなくては――そう考えたギジュンを、警察や職員の男たちが数人がかりで取り押さえる。その間、弟は婦警に抱かれ、こちらに手を伸ばして泣いていた。それを地面に押さえつけられながら見たギジュンは、その日、人間が生まれもってかけている――いや、かけていなければならない力のストッパーを、『弟を護らなければ』という一心だけで破壊した。
周りにいた邪魔者たちを拳ひとつで吹き飛ばし、弟を取り返してギジュンは大声で叫んでいた。俺から弟を奪えると思うな、俺の弟に指一本触れるなと、そう喉が枯れるほど。
ギソクは度重なる精神的ショックで失神していたが、まるで離れたくないとばかりに、ずっと兄のシャツを強く握っていた。ギジュンはその小さな手のひらを見て、何を犠牲にしてでも弟だけは護ると決意したのだ。
しかし、相手はテイザー銃を手にした警官なため、当然膠着状態は続く。いま考えても、勝ち目はなかっただろうとそう思う。
そのどうにもならない状況を、確実に少年院に入れられてしまうだろうギジュンの暴挙を、金で丸く収めてくれたのが――事件を聞き施設に駆けつけてくれた、ジュウンだった。
とても十四歳とは思えぬ格闘センスで立ち回り、いっさいの躊躇のない暴力に身を起いて狂気さえ宿しながら警官たちを打ちのめすその姿に、当時のジュウンが何を思ったかは、想像にかたくない。
――この子どもに、裏社会以外に居場所はない。だ。
痛みも感じず、ろくな感情もなく、壊し奪うことしか知らないギジュンにとって、ジュウンの判断は福音に近かった。広場に続くレールの上に立つことで、ギジュンはようやく人生が開けたとそう思えたのだ。
ジュウンはその日、警察を買収し、ギジュンとギソクを身請けしてくれた。『二人で力を合わせて生きていくんだ』と、母が生前言っていた台詞をそのまま口にして、それからギソクが成人するまでのあいだ、大人に虐げられない安全な居場所を与えてくれた。
望むなら真っ当な人生も歩めるように――彼がグムソンにそれを望んだように――と選択肢を与えてくれたが、ギジュンは自分が暴力のなかに身を置くことが最良であると、当時は心から信じていた。
それに、イ・ジュウンに対し、与えられた身にあまる恩義を少しでも返したかったのもある。
だから、ジュウンのコネを使わずソンウォンの元で下積みから経験を積んでいき、加減なくふるえる拳を使って理事にまで昇りつめたのだ。
ただひとつ。間違いだったことがあるとするならば、成人し、兵役を終えた弟が口にした『俺もヒョンの会社で働きたい』という申し出を、深くも考えずに快く受け止めてしまったことだ。
嬉しかったのだ。弟が兄と歩む人生を選んでくれたことが。これからもずっと傍にいられると思うと、高揚する気分を押さえることが難しいほどには胸が踊っていた。――暴力を嫌う弟が、心から裏社会に入りたいなどと、思うわけがないのに。
毎日返り血や傷を負って帰ってくる兄が心配で、そう言わざるえなかった――きっと、それがギソクの真実だ。
拭い去ることのできない罪悪感が顔を出す。
優しかった母がもし、弟を裏社会に引き込んだ息子のことを知ったら、俺を向こうで呪うだろうか――?
そこまで考えて、やめた。目の前に大恩ある親代わりの男がいるのに、彼がもたらしてくれた日々を、幼い弟に寝床を与えてくれた彼を、否定するようなことを思考に持ち込むことはできなかった。

ギジュンはこれまでの恩義を思い浮かべながら、ジュウンに深々と頭を下げた。
この日まで、弟を護ってくれていた恩人に。
「ジュウン兄貴」
「! ギジュン……」
「本当に、弟が長い間お世話になりました」
「ヒョン……」
兄の礼を尽くす態度を見て、顔を上げていたギソクも再度頭を下げた。
ジュウンはそれに、晴れやかに笑っていた。
「息子を失うようで悲しいが……こればかりはしょうがない。後継者はこっちでなんとかしよう」
「ありがとうございます、会長」
ふぅ。と息をついて、ジュウンは話題を今すぐに対処すべき問題へと戻した。
「じゃあ、ひとまず……早急にク・ボンサンと会う必要があるな」
「――それなんですが、兄貴」
ギジュンは先ほどからうるさいほどにスマートフォンを振動させている連絡を確認し、そこに表示されたソンウォンからの情報を見て、ジュウンを見上げた。
――予想より、順調に事が運びそうだ。
「会合に、ご子息二人も連れてきてほしいのですが。可能ですか」
「……ご子息、『二人』?」
ギジュンの突然の提案に、ジュウンの顔に疑問が浮かぶ。ギソクも、入り口の扉近くで待機していたヘボムですら不思議そうにギジュンを見つめていた。
それはそうだ。渦中の息子はク・ボンサンの息子ジュンモだけであり、ジュウンの息子グムソンは何の関係もないのだから。
ギジュンは今からジュウンを襲うであろう心労を案じたが、これだけは伝えなければ何も始まらないため、心を鬼にする必要があった。
スマートフォンの画面に表示されていたものを、無言でジュウンに向けた。
「ソンウォンが、調べ出したようです。殺し屋を雇ったのが、誰なのか」
そうして提示された、とある証拠。ギジュンの手元に映されていたもの――それは、交通カメラで撮られた車の中で、シマネとヨンドと何か話しているジュウンの一人息子・グムソンの写真であった。
「な……ん゛」
ジュウンの顔からは、血の気が引いていた。
きっと、ひどい気分に違いない。裏社会とは無縁の世界で生きてほしいと会社から追い出した息子が、いつの間にか悪の道に足を踏み入れていたと知らされて。それも、義理の息子といっても過言ではないギソクの暗殺を計画していたのだ。ギジュンとギソクに望めなかった平和な人生を息子に送ってほしいと強く願っていたなら尚更に、この結末は受け入れがたいはずだ。
ギジュンは申し訳ないと思いつつスマートフォンをジュウンに手渡し、呆然とそれを見つめる彼の前に人差し指を運んだ。そして、ついと運転席の男を指さし、告げる。
「……『これ』、誰か知っていますね。兄貴」
「……ッ」
ギジュンの指先が示していた先には、ギジュンのもう一人の標的――チャ・ヨンドの横顔が鮮明に記録されていた。
その顔を見て、ジュウンもショックが怒りへ、そして憎悪に変わったようだった。
「あの、男……ッ!! 俺の、息子をこんな、こんな悪質なゲームに巻き込みやがって……ッ!!」
激昂し椅子から立ち上がったジュウンの怒声が、応接間に響き渡る。ギジュンは憤怒に震えるジュウンに、画面に写る男の正体を尋ねた。
「兄貴、誰なんですこれは」
「……っ、チャ・ヨンド……キム先生と呼ばれている男だ……!」
「え」背後から、凍りつくような声が聞こえた。横目でそちらを見る。
そこには、血相を変えて会長の手元を覗き込もうと動くギソクの姿があった。
「…………」
――ああ……お前にとっちゃ、ショックどころの話ではないだろう。
ヨンドの囁きを信じて、兄を護ろうと人をひとり殺めてしまったのだから。
今あるすべてを、その手で始めてしまったのだから。
それを知らずに死んだ前回の人生での弟は、その点幸福だったのかもしれない。兄を圧倒した殺し屋と確かに一枚の写真に収まっているヨンドの顔を見て、聡いギソクは十一年前の真相――ヨンドの私欲にまみれた計画に、気づいてしまったようだった。
「ウソだ……」ぼそりと漏れた絶望が、それをギジュンに教えてくれる。その悲痛な表情だけで、ヨンドを惨たらしく殺す理由としては充分だった。
「知った顔なのか、お前も」
血の気が引いた横顔に問いかける。すべてを知っていながら、こうして傷ついた彼らに追及しなければならないのはひどく胸が痛んだ。
ギソクはわかりやすいほどギクリと身を固めて、ギジュンのほうをいっさい見ることなく返答した。
「……まぁ、不祥事を揉み消すときに、二度ほど……会ったくらいだよ」と。
奴は警察官だから、と気もそぞろに告げたギソクだったが、ギジュンはそれだけではないことを知っている。ギソクがいま、己が騙されたせいで起こったすべてに絶望していることも。
すべてを始めてしまったことへの壮絶な罪悪感に、押し潰されてしまいそうになっていることも。
ヨンドの目的が何であれ、兄の五体を不自由にする事態を招いてしまったことを、何よりも悔いていることも。

十一年前のことが記憶に甦る。マンションで弟の帰りを待ちながら、二人分の夕飯を作っていた日の記憶が。
激しく開閉された玄関に何事かと足を向けたら、顔面蒼白の面持ちで土間にしゃがみこむ弟の姿を見留めた。全身黒ずくめのらしくない格好と、ただ事ではない様子にギジュンはコンロの火を止め弟の元に向かった。まっさきに訊いたのは当然、ギソクの安否だった。
『どうした……怪我したのか。誰がやった』
『……っ』
弟はふるふると顔を横に振り、膝を抱えて小さく縮こまった。それでも微かに鼻腔を通り抜ける鉄の臭いが、ギジュンに事の始末を教えていた。
怪我をしていないのなら、血のにおいの原因はひとつだった。
『……誰か、殺したのか?』
兄の問いかけに、ギソクはひとりで抱えるには限界だったのだろう事態をギジュンに打ち明けた。
『スンウォンを、殺した』と。
当時、スンウォンがやけにギソクを気に入り何度も口説いていたのを知っていたギジュンは、『無理やり何かされたのか』とその手のトラブルを想像した。
スンウォンは立場上誰にも咎められたことがなかったのか、欲しいものに対してひどく貪欲な男だった。また、大勢のヤクザを取り仕切る父親を見て育ったこともあり、品のいい顔とは裏腹に支配的で暴力的な面を秘めた男だった。
スンウォンがギソクに惚れ込みまとわりつくようになったことは、ギジュンにとって予期せぬ誤算だった。弟の国も傾かせるその美貌のことは重々承知していたが、会社での「ナム・ギジュン」の立場が、ギソクに手を出すような輩の下心をへし折ることをわかっていた。それは概ね合っていた。ギソクに邪な視線を向けることさえ、誰もしようとはしなかった。
――ただひとり、スンウォンを除いては。
スンウォンはギソクを自分の愛人にしようと見かけるたびに力ずくで腕を引いて密室に連れ込もうとしたり、立場を利用して囲い込むことも少なくなかった。それを知っていたため、ギジュンはスンウォンが同席する場でギソクをひとりにしないよう常に心がけていた。
しかしスンウォンはジュンモとは違い頭が切れ、裏社会の暗黙のルールもよくわかっていた。ギジュンの弟に無理強いし犯そうものなら、命がないことをよく知っていたのだ。ギジュンが弟を呼んでスンウォンの魔の手から救おうとすれば、微笑を浮かべてすぐにギソクを解放する。決定的なことをギジュンの前でしないため、余計にたちが悪かった。一線を越えないよう、そして自身の父親である会長がいる場でギジュンを牽制したうえで、ギソクと距離を詰めていた。理事であるギジュンの弟、という肩書きがあるとはいえ、ギソクは末端構成員に変わりない。組長の息子の腕を振りほどくほどの地位は備わっておらず、スンウォンはそれもよくわかっていて、ギソクに手を出していた。
だから、ついにギジュンの目の届かない場所でギソクを襲ったのかと考えざる得なかったのだ。
そうでもないかぎり、組長の息子に手をかけるなんてこと、人を殺めたことのないギソクがするわけがないと思ったから。――まさか、兄を護るためだとは思いもしなかったのだ。
『どうして殺した』そう尋ねた兄に、ギソクは答えなかった。ただ、首を横に振り、震えていた。
『……ギソク』
それを見て、殺人の理由はもうどうでもいいと思った。動機など重要ではない。ギソクが怯えている、それがギジュンにとって考慮すべきすべてだったからだ。
殺人の重みに耐えきれずに震える弟を、ギジュンは黙って優しく抱き締めた。『大丈夫』と囁いて、幼い日のように腕の中に閉じ込める。
だが、思考はもうその先に向いていた。弟がしたことがいったい「なに」を招くのか……それがわからないほどギジュンは愚かではなかった。
このままでは、弟は後継者殺しの代償としてオ会長に殺される、それもきっと、惨たらしく――ギジュンはこの世界の何よりも大事な弟を傷つけられ、失うくらいなら、それに関わる全員の命を葬り去ることに、何の疑問も躊躇も持たなかった。
『お前はここにいろ、いいな』
『ヒョン……?』
初めてその手を血で染めてしまった弟の頬を落ち着かせるように優しく撫でて、ギジュンは弟と恩義あるジュウンを救うために、独り組織本部に特攻した。――あとは、知っての通りだ。
弟を護るためだったとは言え、あの日以降ギソクと離れて暮らすことになったことは、ギジュンとしても大きく人生を変えてしまう選択だったことに間違いはない。第一、ヨンドが平和のルールなぞ作らなければ、ギジュンはずっと弟の傍にいられたのだ。
すべてがギジュンを排除するために計画されたのはわかったが、何よりも許せないのが、それに弟を巻き込んだことだった。ギジュンを消したいのなら、弟にではなく兄のほうに囁けばよかったのだ。「スンウォンが、弟を狙っている」と。
――弟に無駄な殺しをさせたことを、俺は絶対に許しはしない。
そしてそれはきっと、息子を巻き込まれた恩人――イ・ジュウンも同じであることの証明であった。
ギジュンは顔を曇らせている弟を見つめ、その顔に手を伸ばす。
「ギソク」名を呼んで、冷えきった頬を昔のように優しく撫でた。現時点では誰も知らないその罪悪感を宥めてやることは不可能だったが、兄として、傷つく弟の痛みを慰めてやることくらいはしてやりたかった。その十字架を、背から降ろしてやることも。
「ほかに、何かあるんじゃないか」
「――……!」
ギソクの瞳が見開かれ、バッと兄へと向けられる。ギジュンの発言に、ジュウンの目もギソクへと向けられた。
「こいつと……『なにか』あったんだろ、お前」
トントンと液晶を叩いて弟の顔を覗き込む。弟はその追及を受け、過呼吸を起こすのではないかというほど息を乱し、違う、ちがうと首を横に振った。まるで、駄々をこねる幼子のように。叱られることを恐れる子どものように、肩を震わせて。
胸が痛い。代わってやれたらどれほどいいだろうとギジュンは眉間に皺を寄せる。十一年前に起こったことを考えれば、口に出したくないに決まっていた。
ジュウンは明らかに様子のおかしいギソクを見て、彼の上司としてその理由を問い質した。
「ギソク……お前、キム先生……いやヨンドと面識はないはずだろ」
奴と会ったのも俺が連絡して行かせたからであって、お前は奴の連絡先も知らないはずだ。そう続けたジュウンの言葉に、ギソクは強く唇を噛み締める。何か隠している――それは誰が見ても明白であった。
「お前は? 何か知っているか」ジュウンは顔色を悪くしているギソクから、彼の部下であるヘボムに対象を変えた。ギソクを思っての行動だと一目でわかる。ギソクの肩がぴくりと揺れたが、ヘボムを振り返ることはなかった。
突然話題を振られたヘボムは少し反応に遅れていたが、早足でこちらに近づいてきて画面に浮かぶ忌々しいの顔を見下ろした。
だが、得られるものがあるはずもない。
十一年前、ヘボムはまだそこにいなかったのだから。
「会長の指示で兄貴が会っているのを遠目に見たくらいで……とくに情報は」
すみません。律儀に頭を下げたヘボムをジュウンは片手で制し、矛先をまたギソクへと戻した。見るからに冷静さを欠いている、腹心であり、息子のように思っている男に。
「何か……あったなら、隠さないで話してくれ。ギソク」
優しい声だった。誰も責めはしないと、理解させるような声色だった。
だが、ギソクはそれでも、唇を噛み締めうつむいていた。あまりに痛々しい姿に胸が締めつけられる。聞き出さなくていいのなら、無理に白状させることなくこのまま自宅へ連れ帰って、何もかも忘れて寝かせてやりたいと心からそう思う。
しかし、そうもいかないのだ。ジュウンとボンサン両者の協力を煽るためにも、すべてチャ・ヨンドが仕組んだことだと説得する材料が必要だった。
――つまり、なぜギソクがスンウォンを殺す羽目になったのか。そのわけを。
ヨンドがギソクをそそのかし、すべてを始めた日のことを。
「ギソク」
ギジュンは弟の顎を取り、自分のほうへと向けさせた。自分の犯した過ちに潰されそうになっているその瞳をまっすぐに見つめて、意識を兄だけに集中させる。幼い頃から弟だけを愛してきたギジュンの凪いだ双眸に、ギソクの呼吸は少しずつ穏やかさを取り戻していく。ギジュンはその隙を逃さず弟に囁いた。
「俺は、何があってもお前の味方だ。昔から、それはわかってるだろ」
「……ヒョ、ン」ギソクの視線が左右に揺れた。兄がどれほど弟のことを愛しているか、それを知っているのはほかでもないギソクだ。ギジュンはいつだって弟のために生きてきたのだ、重荷も共に背負ってやりたかった。
ギソクの凍えた心に寄りそうよう、ギジュンは告げる。
「誰もお前を責めやしない。だから、お前を救うためにも俺に教えてくれ」と。
「ギソク。――この男と、何があった?」
「……っ」
ギソクは数秒ほど躊躇いを見せた。
けれど、ギジュンが優しく肩を撫でてやれば、もううつむいたりはしなかった。
ジュウンとヘボムがギソクの言葉を待っているなか、ギソクは独り抱え続けたそれをついに打ち明けた。
「十一年前……俺がオ会長の息子を殺したのは、あれは――キム先生に、言われたんだ。『スンウォンがお兄さんを狙っている』と」
「な、に……」
ジュウンも、初耳だったのだろう。組織を辞める際に事件の真相を勘づかれ、弟の身代わりになったことは打ち明けたが、それがまさかヨンドの仕組んだ狡猾な計画だとは考えもしなかったはずだ。
ジュウンは手元に視線を下げ、到底許すことなどできない裏切りを働き続けていた男を睨みつけた。
十一年前、ギジュンが去ることになった事件。それに合わせて作られた平和のルール。そして現在、グムソンを巻き込んでギソクの暗殺を目論み、何かを企み暗躍しているその事実は、チャ・ヨンドという男を排除するのに充分な材料であった。
グムソンとジュンモを唯一生かせる道――いや、ギジュンが生かしておいてもいいと思えるただひとつの道は、二人の計画が頓挫している今のうちに、両親の手によって息子たちを改心させることだけだ。
そしてそれを可能にするカードはもう、目の前に揃っていた。
「ジュウン兄貴」
怒りに震えるジュウンの肩に、ギジュンの凛とした声が降りそそぐ。ギジュンは顔を上げたジュウンに、たったひとつの提案を持ちかけた。
「俺は、グムソンもク会長の息子も、正直なところ、弟の命を危険に晒した時点で死に値すると思っていますが、ギソクがそそのかされたようにヨンドに利用されたなら、条件次第では……なかったことにしてもかまいません」
「……ギジュン」
自分の息子がいったい何をしでかしたのか。ギジュンの弟への愛情を誰よりも知っているからこそ、ジュウンにはその罪の重さがよくわかるはずだ。親として、苦しい部分はあるとは思う。長い間面倒を見てきた養子を、実子が殺そうとしたようなものだ。おいそれと白黒つけることはできないだろう。
ジュウンは自分の選択次第で息子の命を奪われるかもしれない過酷な状況を前に、しばし沈黙を貫いていた。
だが、ジュウンは己の手を汚すことを極端に嫌う男だった。できるだけ争いなくトラブルを収めることを望む、この世界には珍しい平和主義者であった。
ギジュンは、それに賭けていた。ジュウンが正しい判断をしてくれると、どこかで信じていたのだ。
「……わかった。息子を見逃してくれるなら、お前の指示に従おう。条件はなんだ? ギジュン」
「兄貴……」
ギジュンの予想通り、ジュウンは懸命な選択をした。覚悟を決めた家長の顔で、強い瞳を携えギジュンを見上げていた。
ギジュンは問われるがまま、その条件を口にした。きっと、彼を困らせることになる条件を。
「チャ・ヨンド。こいつを俺に差し出してください」と。
ジュウンは深く目を閉じて、「まぁ、そうだよな」と頭を抱えた。グムソンを巻き込んだ男だ。ジュウンとて殺したいほど憎いだろうに、即答できないのには当然理由があった。
その理由も、ギジュンは知っていた。
「だが、ひとつだけ問題があるんだ、ギジュン……」
「なんです」
ジュウンは疲弊しきった顔で、その解をギジュンに示す。
「あいつは、俺とボンサン、ほかに恐らくギソクや息子たちの弱みを握っている。それに、地位ある警察官だ。そう簡単に処理するわけにはいかない」
ジュウンの台詞に、ギジュンの隣で黙っていたギソクが割って入る。
「例の、機密文書のことですか?」
「ああ……そうか、お前には前に話していたな」
そう。チャ・ヨンドは狡猾で用意周到だったため、会話をすべて録音し、さらには警察の権力を使って不正や殺人の証拠などを完璧に押さえていたのだ。
つまり、会社の命運が掛かっている。ボンサンもそう簡単に首を縦には振らないだろうことは目に見えた。
ギジュンはそこで話を最初へと戻し、絶対条件を提示した。
「じゃあ、とりあえず話し合いの場を設けてください。俺とギソクを交えた当事者六人で話し合ったほうがいいい。……弟を殺そうとしたことを、二人に謝罪してもらうためにも」
可能ですか? 二度目となるそれに、ジュウンはもう抵抗なくうなずいた。グムソンがギソクの暗殺を企てた話題を持ち出すことはもはや脅しに近かったが、それでもジュウンが愚かな判断をしないことをギジュンはよくわかっていた。
「なら、早いほうがいいな。今晩ボンサンと会えるよう調整してみる。……俺も、グムソンも躾けなおして連れてくる。必ずな」
願っていた通りの答えが聞けたことに、思ったよりも肩から力が抜けた。やはり勝手に動かず相談して正解だったとギジュンが安堵するなか、目上の者の邪魔にならないよう空気に徹していたヘボムが、ふと不安を口にした。
「会長……すみません」
「ん?」
「お言葉ですが、ジュンモが希望通りに現れるのでしょうか。昨日奴に会いましたが、とても理性的な人間には見えませんでした。現に殴られただけでギソク兄貴を殺すよう指示する男ですよ、こちらの要望に従うとはとても……」
真っ当な意見だなと、ギジュンは内心うなずいた。脳が足りないのは、ジュンモをよく知らないギジュンでもわかるほどだ。
命乞いの際に、『こんなことをして弟が生き返るのか!?』と、ギソクの死で己の世界のすべてを奪われ、復讐の鬼と化したギジュンを自ら煽ってしまうくらいだ。お里が知れているのは明らかだった。
来ないのなら、まあ、こちらから迎えに行くまでだが……。まずはどこを折ってやろうかと物騒なことを考えているギジュンをよそに、ジュウンは、ボスとしての威厳をヘボムに見せつけた。
「それは任せろ、ヘボム。俺の後継者が狙われたんだ、ボンサンにも、息子にも、絶対にノーとは言わせん。這ってでも連れて来させる。約束する」
「会長……」
ニッと勝ち気に笑ったその顔に、現役時代よりずっと前、弟と一緒にいられるよう手を差し伸べてくれた頃のジュウンの面影が見えた気がした。
ギジュンはつられるように小さく笑みをこぼして、今一度頭を下げた。
「恩に着ます、兄貴」
ジュウンは十一年離れていても変わらず礼を欠かないギジュンに、「それはこっちの台詞だ」と屈託なく破顔した。
その笑顔に、計画を成功させたい想いが強まった。
一度だって口にしたことはなかったが、ジュウンのことは父親ように思っていたし、慕っていた。外敵から守り、学ばせ、育ててくれた相手だ。息子の裏切りによって傷つくべきではないし、あんな孤独な死に方をさせたくはない。何があっても、ヨンドの魔の手から彼の命を救ってやりたかった。
――あなたは俺と弟の、大切な家族だから。
「今日は三人とも疲れただろ、ひとまず帰って休め。今夜のためにもな」
ジュウンの言葉に素直にうなずく。正直、ギソクの暗殺に失敗したことを知った息子らのどちらかが第二の刺客を送り込んでくる可能性がある以上、休めるような状況ではないのは確かだ。
それでも、当の本人の心労も相当であろうに、気丈に振るまってくれているジュウンの好意を無下はできなかった。
「では……また今夜」
「ああ」
一礼し応接間を出たところで、ギジュンはグムソンの私室に目を向けた。父親の想いも理解せず、性に合わない覇王の道を歩もうとして、すべてを破壊した愚息の部屋を。
ジュウンのためにも、彼が息子を改心させられることを強く願い、ギジュンは弟二人を連れて屋敷を後にした。

 

 

ジュウンの屋敷を出たあと、外はすっかり太陽が昇っていた。眩しいほどの日の光が世界を燦々と照らしており、まるで日常を取り戻したかのような錯覚に陥らせる。
その目が眩むほどの光を見て、一気に空腹を感じた。夕食を抜いていたうえにシマネと闘ったせいだろう。
つまり、細身にしては昔から大食いのギソクはギジュン以上に空腹の可能性が高く、ギジュンは車に乗り込んだ二人に「朝食でも取るか」と提案した。
「そうだな……腹が減っては戦ができぬと言うし」
「あ、日本のヤクザの受け売りですね。それ」
「フ、よくわかったな」
「兄貴、ヤクザ映画好きですからね。わかりますよ」
おだやかな会話を楽しむ二人に、胸がじわりとあたたかくなるのを感じる。まだ気を張っていないといけないというのに、雰囲気にのまれてしまいそうなほどの幸福を感じた。
朝食を取ることにした三人は、腹ごしらえも兼ねて大衆食堂に足を運び、疲労困憊の身体にエネルギーを充填させた。
文字通り久しぶりに見る弟の豪快な食べっぷりに自然と口角が上がる。少食そうに見える眼鏡姿の男が、メニューを片っ端から頼んでひたすら租借していく姿は目を引くが、さすがにヘボムは慣れているようで気にせず食事に勤しんでいた。
時おり幼い頃のように弟の口元についたソースを指で拭ってやりながら、自分の箸も進める。そうして食事を取るなかで、ギジュンは気づいたことがあった。薄々、そうではないかと思っていたことを。
――ヘボムは、弟に恋をしている。
ギソクが食べ物を口内に放り込み、それを噛んで飲み込むまでの何でもない動作を、ひどく愛おしげに見つめている。そのうち弟の顔が爛れてしまうのではないかと思うほど熱心なそれに、ギソクの隣、彼の正面にあたる場所に腰かけていて気づくなというほうが無理があった。
そして弟もそれに慣れているのか、一皿平らげるごとにその視線に面白がるような、どこか甘い笑みを返していた。
付き合って、いるのだろうか。そんな疑問が湧いた。そんなことどうだっていいはずなのに、いやに気になって仕方がなかった。
そこでふと、キャンプ場での弟の台詞が記憶に甦った。
『聞かないのか? 例えば“元気に暮らしてるか?”とか、“恋愛してるか?”とか』
「…………」
恋愛、しているのだろうか。ヘボムと。
二人の雰囲気は、ギジュンが知っている兄貴分とその舎弟の関係性にしてはやけに親密だった。ギジュンがギソクの世話を焼くように、空になったコップにすかさず水を注いだり、食べ終えた皿を片づけたりと、特段変わったようには見えないヘボムのその兄貴への気遣いも、それに応えるギソクの反応と会話で違うものへと変わる。
「いつもありがとうな、ヘボム。でもお前、うちで朝食作ったときも食べずに片づけばっかしてるよな」
「そりゃ片づけてかないとテーブル埋まりますからね、兄貴の食事量だと」
「生意気だな……もっとかわいげあること言えよ」
「かわいげ……なら、俺が兄貴が大好きで、兄貴に尽くしたいからやっているんです。これでどうですか?」
「健気だな。合格」
なんて、平和に満ちた会話をして笑いあう二人を隣で見つめる。
朝食、ギソクの家で食べるのか。――なぜ? その理由を尋ねたい気もしたが、聞いてしまえば後には引けない気がしてギジュンは黙って箸を進めた。
しかし、いくら口に運んでもまともに味がせず、食事をしている気がしなかった。ただの主従関係であれ恋人関係であれ、ヘボムなら弟を任せられるとギジュンは心から思っているが、肉体関係があるのかどうか――なぜかそれが気になりはじめるともう食事どころではなくなった。
その原因は、よくわかっていた。
――俺が六年前、弟と一線を越えてしまっていたからだ。
一夜だけ、たった一夜だけだった。
仕事でミスをしたとキャンプ場に逃げ出してきた弟は、あるまじき失態とそれによる損害、そしてジュウンを失望させたかもしれないという己へのひどい落胆により、浴びるほど酒を煽っていた。
それぐらいにしとけと何度かグラスを取り上げたが、涙目で『ヒョンといるときくらい、全部忘れたい』と懇願されてはどうしようもない。
それで、酩酊した弟に付き合いギジュンはチビチビと酒に口をつけていたのだが、酒瓶を落としかけた弟の手を取ったあと、流れが変わった。
酒瓶から弟に視線を動かすと、至近距離にある琥珀に近い双眸が熱を孕んでこちらを見つめていた。触れあっている指先は燃えるほどに熱く、それは冬だというのに背に汗がにじむほどだった。弟の美しすぎる顔に浮かぶ恍惚とした表情はあまりに目に毒で、昔から本能的に抱き続けていた劣情に過ちを犯させてしまいそうだと咄嗟に距離を取った。いや、取ったつもりだったのだ。
だが、叶わなかった。
『ヒョン……だいすき……ずうっと、だいすきだよ』
『――……』
うっとりとこちらの首に腕を回して涙を流しながら縋ってきた弟に、ギジュンの理性は、兄としての立場を守らせてはくれなかった。
――ああ、そうだ……俺はその日、酒に酔って意識もままならない弟を、傷心で信頼できる人間に縋りたかっただけの弟を、ただ、兄に弟としての愛情を伝えただけの実の弟を、ベッドに押し倒して、レイプした。
記憶から消していた、気が狂うほどの罪悪感が甦る。実父が次男にしていた虐待のことを忌み嫌っていたはずなのに、結局父親と同じように最愛の弟を穢してしまった自分が心底おぞましかった。
翌朝ギソクは何も覚えていなかったが、その日以来、ギジュンは弟からの連絡を無視し続けた。
もう、会うべきではないと思ったからだ。
――次、また顔合わせたら、父親と同じことを繰り返してしまいそうで恐ろしかったのだ。
弟を自分の手で傷つけたくなかった。突然関係を切って悪いと思ったが、もう関わるべきではないと判断したのだ。ギソクにはギソクの人生があるのだから、こんな最低の兄がいない人生で幸せを享受してほしかった。弟は初めのほうこそしきりに連絡してきていたが、会えるかと訊いてきたメールに対し「忙しい」と簡素な返事を返したっきり、疎遠になった。
それから、じつに六年。ギソクの性的嗜好は知らないが、記憶にないあの日の影響が彼を蝕んでいるとしたら――そう考えてしまったら、二人の関係性が健全なものかどうか、知らずにはいられなくなった。
一度気になりはじめたらその疑問が脳内を圧迫し、ぐるぐると視界を歪めていく。弟も恋愛しているか否かを訊けと言っていたのだから、軽い会話の一貫としてただ尋ねてしまえばいいだけだった。
だが、燻る罪悪感が喉に引っ掛かり、その問いは口から出てはこなかった。
十皿以上完食し、さすがに満腹になったのだろう。ギソクはトイレに立って、ヘボムと二人残された。
「…………」
咥内が渇いていく。ヘボムは手際よく机の上を片しており、こちらの動揺には気づいていない。
訊くなら、今しかない。ギジュンは再三悩んだが、弟に直接訊くよりはマシだと口を開いた。
「ヘボム」
「はい?」
なんでしょうと明るくこちらに顔を向けてきたヘボム。緊張から気圧されてしまいそうになりながら、ギジュンは勢いで尋ねた。
「お前……弟と、デキてるのか」
「…………ハ、え゛っ!?」
ヘボムは声を裏返し、手にまとめていた箸をテーブルにぶちまけた。露骨な反応を見せたヘボムに図星か、とどこかホッとする。ヘボムが相手ならば、悪い方向なはずがない。そんな安心感があった。
しかし、ヘボムはオーバーに両手を振って否定の意を示してきた。
「い、いや、違いますよ! 何で急にそんなこと……あっ、さっきの会話ですよね……っ、あ、いや……その、確かに関係はありますが、デキてるとかそんなんじゃなくて、兄貴が溜まったときに相手をさせてもらってるだけっていうか、恋人というより……セフレに近いっていうか……」
「…………」
許容範囲を超える質問だったせいか、ヘボムはいつもの聡明さの欠片もない言葉を羅列し顔を赤くしていた。
その言葉の中から、「セフレ?」と気になる単語を拾って尋ねてみる。だが、予想より低い声で訊いてしまったせいか、ヘボムは顔を青ざめさせてさらに早口で否定する。
「あ゛……すみません、べつに兄貴を手軽に思ってるとかそういう意味を含めて言ったんじゃないです……! ちゃんとお互い好きですし……同意の上ですが、ギソク兄貴はその――忘れられないひとが、いるみたいで」
忘れられない、ひと。誰だ、過去の恋人かと訊こうとしたが、ヘボムはそこまで告げると、ふいにギジュンを見つめた。焦燥をゆっくり消散させていき、何か言いたげな色をその瞳に浮かべる。
「…………」
それがいやにまっすぐで居心地が悪く、ヘボムの視線の意味を知りたくなかったギジュンは視線を少し外し、会話を終わらせた。――いや、終わらせようとした。
「……そうか。急に悪かったな、立ち入ったこと聞い――」
「ギジュンさんはいないんですか、恋人」
「――……、……」
ヘボムの声に、言葉が詰まった。まったく予期していなかった問いかけに、面白いほどに思考回路が停止する。
「……なに?」そうなんとか振り絞りだした声は、間抜けなほどに狼狽えていた。
ヘボムは淡々とした様子で、とくに気にした様子もなくギジュンの言葉に返事を渡す。
「たとえば……それこそ、デキてる相手というか」
なぜ、急にそんなことを訊いてきた。俺は間違いなく会話を切ろうとしていただろうとヘボムに視線を戻す。上を立てるヘボムのことだ。目上の相手の話を遮って話すなんて芸当、通常なら絶対にしないタイプであることは間違いない。
されど、ヘボムはギジュンが逃げるこのとないよう、わざと被せて訊いてきたように見えた。考えすぎかもしれないが、いっさい目を逸らさずにこちらを見ている瞳が、ギジュンに違和感を覚えさせていた。
ギジュンも尋ねたのだから、答えないという選択肢を取るわけにはいかない。しかし、ヘボムの揺らがぬ視線に背筋は凍りはじめていた。
――まさか……知っているのか、俺が弟にしたことを。
ギソクは記憶になかったようだったが、もしかしたら悪夢で魘され、兄を呼んでいたのかもしれない。「やめてくれ」と、漏らしていたのかもしれない。酩酊していたあの夜に抵抗できなかった代わりに、夢の中で兄を強く拒絶していたのかもしれないと、ギジュンはひどい罪の意識で後頭部が重くなっていくのを感じた。
「いないが。いるように見えるか」
なんとか声に出せたそれ。しかし、ヘボムは微塵の悪意も感じられない顔で笑顔を見せた。
「ええ。ギジュンさんほどの男なら一人くらいはいそうだと思ったんですが……よかったです」
よかった? それはどういう意味だ、お前は何か知っているのか。弟はあの夜のことで何か苦しんでいたりはしなかったか? たとえば、幼い日のトラウマを思い出し、過呼吸に陥ったりだとか――。なんて、解を求めるあらゆる疑問が脳裏に浮かんだが、それが、ヘボムの耳に入ることはなかった。
「ごめん、遅くなって。出ようか」
「! はい兄貴」
意識に入り込んできた愛しい弟の声。ギジュンはハッと意識を取り戻し、動揺を悟られないよういつもの無表情をギソクに向ける。
ヘボムは何事もなかったようにギソクに上着を着せて、ギジュンにも変わらぬ態度で「行きましょうか」と笑んでくる。ギジュンが弟に直接訊かなかった理由を汲んでくれたのだろう。先ほどまで何かを言いたげにギジュンを問い詰めていたというのに、すぐに切り替え飄々と振るまう姿は優秀どころの話ではなく、眺めていて嘆息が漏れるほどだった。
「会計は済ませた。ヘボム、店の前に車を回しといてくれるか」
「わかりました」
二人の会話を耳に入れながら静かに椅子を引いて立ち上がり、立ち去るヘボムの背中を追う。
あいつは結局、何が言いたかったのだろう。疑念だけが残ったが、ギジュンに対する物腰柔らかな態度からして、弟が悪夢に魘されている可能性は低そうであった。
もし、ギジュンが弟にしたことにヘボムが勘づいていたのなら、彼はギジュンを決して受け入れも許しもしないだろう。ヘボムは、ギソクを心から敬愛している。そんな男が、あんなに優しい顔を加害者に向けるわけがなかった。
「なぁ、ヘボムと何話してたんだ? ヒョン」
淀む思考を割くように聞こえてきたギソクの声。今、一番訊かれたくない質問だとギジュンは軽く顔をそちらに向け、そこにあった好奇心に満ちた弟の顔に目眩がした。
「なに、もしかして俺のかわいい忠犬にギソク愛のマウント取ってたとか?」
ニヤリと悪趣味な笑みを浮かべている弟の顔を見て、ギジュンはその問いがとうてい茶化せるものではないと悟る。兄として弟の一番でありたいと願っていたが、ヘボムのように誠実で実直な男の前では、自分など――六年前に許されない罪を犯した自分など、比べ物にもならない事実に気づかされる。浮き彫りになった格差はギジュンを消沈させた。半日前、ギソクのオフィスで脅しとともに「弟の一番」を啖呵切ったギジュンは、もうそこにはいなかった。
マウントなんか取らないと、ギジュンは弟の顔を見つめた。
「そんな意味のないことしない。あいつの愛情のほうがきっと、お前を幸せにしてくれるだろ」
「……なにそれ」
ギソクは訝しげに眉間に皺を寄せた。だが、兄がジョークのひとつも返してくれない気分なのだと察すると、一気に興が削がれたようだった。
「ヒョン、ヘボムのこと気に入りすぎだろ」と呆れたように告げて、ギソクはギジュンを置いてさっさと食堂を出ていった。
その場に立ち尽くし、弟の後ろ姿を見ながらギジュンは物思いに耽る。
ギソクとヘボムは似合いのカップルだ。二人とも心根が優しく、人間味のある性格を持ち、互いのことを心から信頼している。それも技量がいい。きっと、二人で裏社会を抜ければ相応の幸せを掴めるはずだ。そこまで考えて、ギジュンは自分の提案に疑問を抱いてしまった。
――二人に、一緒にキャンプ場をやろうと誘ったのは間違いだったかもしれない。
思考が沈殿していく。ギソクが聞いたらどう思うかも考えず、ギジュンは見てみぬふりをし続けてきた己の罪に心を淀ませた。

 

 

「疲れた……」
ヘボムの運転でマンションに帰宅したギソクが、スーツのままソファーへとダイブする。「俺はまだ仕事があるので」と去っていったヘボムを見送り、ギジュンは実質五日ぶりほどになる弟のマンションに足を踏み入れた。
言葉通り疲労困憊であろう弟は、そのまま寝入ってしまうのではないかと思うほどソファーの上で脱力していた。寝るには堅すぎるだろう革張りのそれに、寝にくいだろうスーツを着て倒れこむ弟。兄としてそれを放置できるような性格ではなかったギジュンは、軽々と弟を肩に担いでベッドまで運んだ。
「俺は……荷物じゃない……」と文句を漏らす弟を無視し、キングサイズのベッドへ優しく降ろす。上着を脱がせてネクタイをほどき、首元のボタンを二つ外して楽な格好にしてやる。最後にはだけた胸元を隠すようにシーツをかけて、寝室のカーテンを閉めきってギジュンはようやく一息ついた。
こうして寝顔を見ていると、幼い頃と何も変わっていないと顔が綻んでいくのがわかる。できればギソクが起きるまでここで見守っていたかったが、ギジュンは現在の自分の理性を信用することができずにいた。弟に対し常に劣情を抱いているわけではなかったけれど、六年前の夜のことをはっきりと思い出してからは、それも確信が持てなかった。
弟の命を救うために、俺は今こうして人生をやり直しているのだ。余計なことに気を回している場合じゃないと、ギジュンは今後のことを精査するために雑念を消し、リビングに足を向けた。
だが、突然手のひらを包んだ体温が、ギジュンの意識を弟へと引き戻す。
「……ギソク」引かれた腕の先を目線で追うと、重たそうな瞼をそのままにこちらを見上げているギソクの姿がそこにあった。弱々しく掴まれた手のひらに、寝ぼけているのかと錯覚する。けれど、ギソクは再度兄の腕を引いた。ギジュンには問いかける選択肢しかなかった。
「どうした、なんか欲しいのか」
喉でも渇いたのかと思い尋ねたが、ギソクは予想の範囲外の台詞を口にした。
「ヒョン……いっしょに、寝てくれないか」
「……なに」
「怖い、夢……見そうだから」
ギジュンはそれに即答することを躊躇った。ギソクは殺されかけたのだ、気が昂って悪夢に悩まされる可能性は確かに高い。だが、実際に弟を悪夢のような目に遭わせた記憶がよみがえったギジュンには、ただの兄として弟に寄り添う自信がなかった。
もし、弟の隣で寝ることで、あの夜のように理性を失ってしまったら――?
そう考えるとあまりに恐ろしく、強い理性を元に弟の手をやんわりと自分から外させた。
「俺はどこにも行かない、ギソク。寝室の外にいるから、何かあったらすぐに――」
呼べばいい。その言葉は、ギソクの弱々しく被さった声によって音になることはなかった。
「『ヘボム』は、いっしょに寝てくれた……」
「…………」
脳天を殴られたような鈍痛がした。
なぜ、この状況で俺とヘボムを比較した……? 疲労と睡魔によって意識が混濁しているのはわかっていたが、まさか話題に上がるとは思っていなかったその青年の名は、立ち去るつもりだったギジュンの感情をひどく掻き乱した。
おもむろに瞼にかかっている邪魔そうな前髪に手を伸ばし、左右に分け、「添い寝するだけじゃ済まないかもしれないぞ」と囁いた。それが弟にちゃんと聞こえていないのはわかっていた。ただ、言わずにはいられなかったのだ。六年前のあの日、ろくに同意も取らずに組み敷いて好き放題やってしまった忌まわしい記憶が、ギジュンに戒めの言葉を口にさせていた。
ギソクはそれに、二、三度ゆったりまぶたを開閉させると、泣きそうな顔で笑って答えた。「ヒョンになら、何をされてもかまわない」と。
「ギソク……」
完敗だ。そう思った。兄が何もしないと信じているからこそ言えるその台詞は、ギジュンの理性にこの上ない歯止めをかけさせた。
深いため息が出る。ここまで言われて弟を放置して部屋を出ていけば、非情な兄の烙印を押され、最愛の弟に嫌われてしまう可能性は高かった。
弟が幼い日のように兄による絶対の庇護を求めているのなら、それに応えてやるのが実兄としてのギジュンの勤めだった。
要望通りにシーツを捲り、ギソクの隣に身体を滑り込ませる。横向きに身体を向けている弟にならい、顔を合わせるようギジュンもそちらに身体を向けた。
まさに幼少期を思わせる体勢に懐かしい気分になる。至近距離にある弟の双眸はとろんと溶けており、必死で睡魔に抗っているのが目に見えた。
それがまるで、夜更かしをしたいがために眠気を隠そうとしていた十歳の頃の弟そのもので、ギジュンはいとおしさがこみ上げ、思わず笑ってしまった。それはギジュンが勝手に抱えていたくだらない雑念を消し去るほどの威力があり、ギジュンは今はただギソクの兄でいようと弟のまぶたに厚い右手を重ねた。外敵のすべてから護るように、優しく世界から弟を隠して。
「魘されてたら起こしてやるから。兄貴から連絡あるまで、ゆっくり寝てろ」
「ん……ひょん」
「ん……?」
強制的に眠らせようとカーテンを下した向こう側から、弟が限界の意識なか、何かを口にした。舌足らずな言葉を拾うため耳をすますギジュンが聞いたそれは、ギジュンと同じような痛みに苦しむ、弟の後悔だった。
「ごめん……ひだり、ても……なにも……かも……」
「……! ギソク……」
ギソクはそれだけ言うと、まぶたから伝わる人の体温と低く穏やかなギジュンの声に促され、一分後には寝息を立てはじめた。よほど疲れていたのだろう。かなり気を張っていたのだなと苦笑が漏れる。無防備な寝顔に感じたものが庇護欲であったことに安堵し、ギジュンは弟を腕の中に引き込んだ。駐車場にいた猫のように無意識に擦り寄ってくるギソクに泣きそうになりながら、先ほど返事をし損ねた言葉を、弟の耳元に囁いた。
「お前は何も悪くない……ギソク。何ひとつ悪くないから」
もう、そんな風に泣くな。
眠りながら涙をこぼしたギソクの頭を抱きかかえ、ギジュンは二人でひとつだった頃のようにまぶたを下ろした。
せめて信頼できる人間と寝ている間だけでも、弟が安らかに眠れますようにと祈りをこめて。
ギソクはジュウンが連絡を寄越す夕方まで、一度も起きることはなかった。

Chapter 6: 【会合小屋】

Summary:

弟を死に至らしめた原因を担っているジュウンとボンサンの息子たちを改心させるため、ギジュンはギソクを連れて会合へと向かう。
だが、展開は予期せぬ方向へと向かっていき……?
ギジュンは弟への特別な感情に気づかざる得なくなる。

Chapter Text

ジュウンから連絡が来たのは、日が沈んでしばらく経った頃だった。
刺客を警戒するどころか弟と一緒に寝ていた事実にひとり反省しながら、ギジュンは胸元で振動していた着信を受けた。
「兄貴」
『ギジュン、一時間後に会合することになった。場所はいつもの空き地だ、ギソクに聞けばわかる』
「わかりました。すぐに行きます」
プツリと通話を切り、腕の中に閉じ込めていた弟を見やる。いまだスヤスヤと寝入っている顔を見ると、このまま寝かせておいてやりたいと心底思う。
しかし、そうもいかない。渦中の人間であるギソクがいなければ始まらないため、ギジュンは心を鬼にし弟の額にキスをして起床をうながした。
「ギソク、起きろ。兄貴から連絡があった」
「ん……」
すぅ、と開かれた瞼から、ガラス玉のような瞳が顔を出す。しだいに焦点があっていった双眸は、添い寝をしている兄の姿を見留めて一気に覚醒した。
「……! ひ、ヒョン……おはよ」
「ああ、おはよう」
ほとんど飛び起きたギソクにギジュンは苦笑する。やはり眠る前のやり取りはすべて寝ぼけていたのだとどこか安堵して、ギジュンはベッドから脚を下ろした。
「一時間後だと言ってた。空き地らしいが、どこかわかるか?」
寝室から出ていこうとしながら弟を振り返るギジュンに、ギソクは多少の混乱と同棲しながら的確に受け答えた。
「ああ、わかるよ。ヘボムに来るよう連絡する」
弟の返事を聞き、ギジュンは軽くうなずいてリビングに向かう。絶対にないとは思うが、万一裏切られた場合のためにナイフの一本でも仕込んでいくかと寝起きの頭を無理に稼働させる。その広い背に、ギソクの声が飛んだ。
「ヒョン……!」
「ん」
どうしたとリビングから振り返った兄に、ギソクは珍しい表情を浮かべてそれを告げた。感極まったような、照れをふくむ、そんな顔で。
「起きるまで傍にいてくれて、その、ありがとう」
「ああ……気にするな」
急に何をかしこまって言い出すのかと不思議に思う。昔はよくこうして丸まって寝ていたのだから、わざわざ感謝するようなことでもないだろう。
そんなに兄さんが恋しかったのか? そう茶化そうとしたが、ギソクの顔があまりに晴れやかでなぜか心臓が痛んだギジュンは、「着替えてから行くぞ」と先をうながして早めに弟から背を向けた。
ヘボムの代わりに、ギソクの安眠に手を貸せたならよかった、心からそう思った。けれど、本来そんなことをする立場にないことを知っているギジュンは、まっすぐに向けられている視線から意識を会合へと移した。

 

 

空き地に着くと、こじんまりとした小屋がそこに用意されてあった。簡易的に建てたのだろうそれの周りには仰々しい数の黒塗りの高級車が停まっており、もうすでにそこに二大頭がいることをギジュンに教えてくれた。
「ヘボム」
「はい」
車から降りてきたヘボムに声をかける。彼を小屋の中に連れていくことは叶わないが、ギソクのためにこの場いるという事実を共有しておきたかった。
「念のためすぐに車を出せるようにしておけ。弟の命が危険だと判断したら、俺は多分あの小屋の中の人間を全員殺す。……お前も追われる人生になるが、覚悟はできてるか?」
まだ若いヘボムには酷な選択だったが、ヘボムはいっさい悩むことなく凛々しい表情で即答した。
「覚悟なら、ギソク兄貴に拾っていただいた日からできています」
「……そうか」
どこまでもギソクに忠誠を尽くす青年の肩をギジュンは優しく叩き、スーツのジャケットのボタンを留めている弟に視線を動かした。
その視界の中に、懐かしい顔が止まった。
「ソンチョル」
「! お久しぶりです、ナム専務のお兄様」
やけにかしこまって頭を下げたソンチョルに「敬語やめろ」と先手を打つ。ギジュンからしてみれば、昨日彼をこの手で殺めたばかりなのだ。明らかに死にたがっていたソンチョルの願いを、彼の目を見て察し叶えてやった感触が鮮明に手に残っている。彼が死を望んだ理由はわからない。ただ、信頼していたグムソンがギソクを殺したと知って、昔から弟のことを知っているソンチョルが何を思ったのかは想像にかたくない。あんな苦しい結末にならないためにも、堅苦しい関係性から脱却しておきたかった。
ソンチョルはギジュンの言葉に訝しげな顔を上げた。
「ダチだろ、俺らは」
「いえ。その前にあなたは会社のナンバーツーの命を救い、戦争を防いでくださった恩人ですから」なんてわざと敬語を使って他人行儀を装っているのがわかるソンチョルにフッと吹き出す。
ソンチョルも耐えかねて吹き出した。
「フッ。久しいな、ギジュン。十年ぶりか?」
「十一年だな。事件以来だから」
「そうか……時が経つのは早いな」
ソンチョルは懐から煙草を取り出し、ギジュンに向けた。「吸うか?」と尋ねられたが小屋を顎で示して断った。
「あぁ……落ち着いてる場合じゃねえよな。ずいぶんな面倒に巻き込まれちまったみたいで」
「そうだな。まぁ、きっちりケジメは取らせる」
「ああ、よろしく頼むよ」とうなずいて煙草に火をつけたソンチョルの笑顔に、小屋の中で「万が一」を起こしたくない思いが強まった。
――そうだ、誰も死なせない、絶対に。
ソンチョルの肩を叩いて通りすぎ、ギジュンはこちらを窺っていた弟に声をかける。
「行くか、ギソク」
「ああ……。ここが正念場だな」
ふう。と息をついて小屋に向かう。自分を暗殺しようとした人間二人が揃っている場所に入るのは、精神的にもかなり堪えるはずだ。ギジュンは弟の命だけでなく心も護りたかったため、弟の前に出てギソクに告げた。
「納得できないことがあれば俺に言え。解決する」
小屋の扉に手を掛けて横目に弟を見れば、ギソクは「ホントに過保護」とおかしそうに笑っていた。
その顔に想像していたよりも平気そうだと安堵して、ギジュンは扉をスライドさせた。

「ギジュン……!」
「どうも、ク会長」
ご無沙汰してます。真っ先に目があったのは、ク・ボンサンだった。ギジュンからすれば一週間ぶりに顔を見るのだが、言えるわけもないので十一年越しの挨拶を告げる。ジュウンに会釈で挨拶し、ギジュンは室内を見回した。
扉を開けたそこには、ギジュンが望んでいたメンツが全員椅子に腰を下ろして座っていた。入り口から見て手前側にジュウンとグムソンが、その反対側にボンサンとジュンモが腰かけており、テーブル正面の位置に椅子が二脚用意されてあった。
弟が戸を閉めたことを確認し、二人でその椅子に座る。おもむろにバカ息子二人に視線を向け、ギジュンは軽く口元をゆるませた。
ジュンモの顔は少なくとも三発は殴られたのだろうアザがあり、グムソンのほうも口元が切れて血が滲んでいることから、父親たちが本気で息子らを躾たことが理解できた。
ジュンモはだいぶ不満そうな顔でこちらを睨んでいたが、グムソンは温めてきた計画が初手で頓挫したことで心折れたのか、父親の隣で暗い顔をしてうつむいていた。
ギジュンは二人から目を逸らし、ボンサンに顔を向ける。ボンサンは己に向けられたギジュンの視線にピクリと肩を揺らし、深いため息と共に身体ごとギジュンとギソクに向き合った。
「ギソク、ギジュン。本当にすまなかった、息子の愚行を許してくれ」
座ったまま、ボンサンが二人に深く頭を下げる。それを見たギソクに緊張が走ったのがわかった。
まさかあのク・ボンサンが、開口一番にギソクに謝罪し頭まで下げるとは思っていなかったのだろう。息子のためならプライドさえ捨てられるその姿は、長年広場を仕切ってきた男なだけあるとギジュンに思わせた。
だが、その息子はどうだと、ギジュンはボンサンの背後を見やった。筋を通す父親を見ても、それを皆目理解できないといった顔で憤り、ギソクを睨みつけている。呆れを通りこして、いっそ褒めてやりたいくらいだった。
ボンサンを見ていたジュウンも、同じようにギソクに身体を向けた。グムソンのうなじを掴んで手前に引き、テーブルに額を押しつけさせて自分も同じように頭を下げた。
「俺も、愚息の行為をなんと謝罪すればいいかわからない。ギソク、本当にすまなかった……ギジュンも、約束を破って悪かった」
誠意のこもった謝罪だと思った。グムソンがどう思っているかは知らないが、少なくとも父親の腕を振り払うことはできないようだった。
ギジュンはギソクに目を向ける。ボス二人の謝罪を、弟がなんと受け入れるのか興味があった。俺が弟ならば五体満足では帰さないくらいにはわだかまりを抱えているが、ギソクはギジュンとはまったく違った。
どちらかと言えば、ギソクはジュウンに似ていた。争いを好まず、できることなら平和的に解決したいと願う優しい男だ。きっとルールに従ってアキレス腱を切れ、なんてことは言い出さないだろう確信があった。
ギソクはメガネのブリッジを押し上げて、それぞれに視線を向けて告げた。
ギジュンの予想通りの言葉を。
「お願いですから顔を上げてください、お二人とも。許しますから。お二人にそこまでされたら、さすがに溜飲も下がりますから」
ギソクの言葉に二人は顔を上げ、すまなかったと再度謝罪を口にした。
それを聞き届けたあと、ギソクはただひとつ、どうしても気になっていたのだろうことをグムソンに問いかけた。
「ただ、検事さんに……おひとつ、訊いておきたいことがあるのですが」
会長、よろしいですか? ギソクの改まった言葉に、ジュウンは押さえつけていた息子の頭を解放した。ゆっくり顔を上げたグムソンが、おもむろにギソクを見つめる。ギソクは彼に問いかけた。
「どうして……俺を殺そうと思ったんですか?」と。
「…………」グムソンはしばし沈黙を貫いた。
だが、父親に「答えなさい、グムソン」と命じられ、諦めたように打ち明けた。――ギジュンに明かしたものと、同じ真相を。
「王座に就きたかったんです。トップのポストが欲しかった。ナム専務、あなたはその障害でした。ク・ジュンモ、あなたも。だからずっと待っていたんです、あなた方二人がトラブルを起こすのを。事が動いたときに、キム先生がすべてうまく行くよう手配してくれる計画でしたから」
「! グム、ソン……」
ジュウンも、初耳だったのだろう。息子の口から語られた衝撃の事実に、可哀想なほどに顔を歪ませていた。
ギジュンはギソクに顔を向けた。前回、弟が知らずに死んだ真相だ。どう思うのか、傷つきはしないか、それが心配だった。
だが、ギソクは信じられないといった顔で、グムソンを見ていた。「……王座?」と呆れ果てた声で呟き、いっそ失笑すら浮かべて、続けた。
「たった……それだけで?」と。
ギジュンがグムソンに放った台詞と、一言一句同じだったそれ。どこまでもいっても自分たちは兄弟なのだと、場違いにも喜びを感じる。
だが、グムソンはギソクの反応に苛立ちを覚えたのか、ようやく人間染みた感情を顔に出し、反論した。
「ナム専務……ええ、あなたにはわからないでしょう。逆に訊きますが、なぜ断ったんです? 父に跡を継いでくれと言われたのに、どうして……突然、辞めるだなんて言えた? この広場で誰もが欲しがるその座を……っ、僕は目の前にあっても、手に入れられなかったのに……! なんであんたは、そんな風に、大したことないように振る舞える!?」
徐々にヒートアップし、最後には立ち上がり叫んでいたグムソンを、ギソクはレンズ越しに凍てついた瞳で見つめていた。その、侮蔑の色さえ浮かぶ双眸にグムソンの顔が屈辱に歪む。きっと、手元に銃があったなら癇癪のままに引き金を引いていたのだろうなと、ギジュンは他人事のように恩人の息子を眺めていた。
返す言葉もないと冷えた視線で見上げてくるギソクに、グムソンはわなわなと肩を震わせている。この無駄にプライドだけは高い子どもをどう改心させるべきか。ギジュンは脳内にあらゆる暴力の種類が浮かんだが、実行されるより先に、彼の父親の悲痛な声が室内に反芻した。
「後継者になりたくて、ギソクを殺そうとしたのか……?」
お前には、何でも与えてきたのに、まだそれ以上を望むのかと声を震わせるジュウンに、我慢の限界だったとばかりにグムソンは叫ぶ。「父さんは、僕の本当の望みは何か、一度も訊いたことがないだろ!」と。
「……ッ、グムソン」
「僕はね、父さん。昔から、戦うこと自体がすごく好きだった。戦う前の緊張感も、誰かを攻撃するときの快感も好き。でも、一番好きだったのは……戦いに勝ったあと、友達が僕を見るまなざしです。尊敬と……感嘆のまなざし? でも父さんは、いつもそんなまなざしで見られながら生きてきた……ずっと、ずっとそれが羨ましかったんですよ、僕は……!」
ジュウンは口を引き結んだ。愛ゆえに破滅しかない線路から外してやったのに、こんな風に思われていたら親としてもやるせないだろう。
恩人の中でどれほどの痛みが渦巻いているのかを考える。きっと、自分には一生理解することのできない苦しみなのだろうと、ギジュンは息子と胸の内を明かし合う養父の姿を見守った。
ジュウンはグムソンの言い分を聞き、息を乱して叫んだ。
ギジュンがグムソンに対して、抱いたものと同じことを。
「この、バカ息子が! それは……ッ、尊敬でも感嘆でもない、グムソン! 恐怖だ、みな恐れてるんだ……!! それにそれは……『これ』は重荷になる……っ、俺はお前に! そんな重荷を背負わせたくなかったんだ……! 俺はその苦しみを、毎晩悪夢を見る地獄を、誰よりも知っているから……ッ」
「――……っ」
父親の慟哭を聞き、悲痛な顔を見て、グムソンはぐっと唇を噛み締めた。瞳が赤らみ、潤んでいくのさえわかる。
――こうして、もう少し早く父子で話し合えていたのなら、きっとジュウンも、グムソンも――ギソクも、誰も死なずに済んだ。
叶わなかった未来を勝ち得た瞬間は、意外にも凪いでいて、おだやかだった。
ギジュンはようやく腹を割って話せた恩人とその息子を静かに見つめながら、ジュウンが苦渋の判断を下すのを眺めていた。
「……わかった、グムソン」
「!」
ジュウンは息子の肩に手を置いて、グムソンを力強い双眸で射抜いた。
父親としてではなく、広場の主を担うひとりの男として、イ・グムソンに向き合い、告げた。
「お前を、今日からジュウンの後継者に指名する。だが、性に合わないと思ったらすぐに辞めろ。できるかぎり手を汚すな。とくに今回のような卑劣な真似は金輪際するんじゃない。――わかったな?」
「……! 父さ」
「なに?」鋭い声がグムソンの気を引き締める。
グムソンはハッとして、背筋を伸ばしてジュウンを見下ろした。
「はい、会長。誓います」
「……よし」
グムソンの返事を聞き、ジュウンはハァと息をついてギソクに向き合った。自分の息子がしでかしたことの全貌を把握したのだ。ギソクへの責任を、改めて取るつもりだと感じた。
「これは、親として子育てに失敗した俺の責任だ。ギソク、もしお前が許せないのなら、俺の命で償う」
「……会長」ギソクは眉間に力を入れ、そんな必要などないと首を横に振った。ギジュンだったならまだしも、ギソクが命で償えだなんて言うはずがない。詳細を知らないとはいえ、ジュウンが兄の恩人であることは知っているのだ。代償にジュウンの命を望むはずがなかった。
「もう終わったことです、会長。二度目がないのなら、俺はそれで充分です」
「ギソク……」
ジュウンはギジュンにも視線を向けたが、ギジュンはギソクが許すのならそれでよかった。
ジュウンが安堵に肩の力を抜くのが見える。落ち着いたところで悪いと思ったが、早急に協力を仰ぎたい一件――ここに全員を集めた真の目的があるため、ギジュンは会話に割って入った。
「ク会長、ジュウン兄貴も、弟を危険に晒さない約束を反故にした謝罪は受け入れます。ただ代わりに、協力してもらいたいことが――」
だが、ギジュンの言葉を遮って、声を荒らげるものが現れる。
――最初から何ひとつ、納得していなさそうなジュンモだった。
「ざけ……んなよ!!」
「……ジュンモ!」
ガタッと椅子を引き倒して立ち上がったジュンモは、諌める父親の声も聞かずに癇癪を起こし、ギソクを指差し声を張り上げた。
「さっきから勝手に盛り上がっていたがよ! 悪いのは全部イ検事なんだろ!? 何で父さんが、こんな奴に頭を下げなきゃなんないんだよ!! そもそもおかしいだろ……!? ナム専務は生きてここにいんだから、俺らが謝ることなんか何ひとつねえだろ!! なのに、協力だ……? 偉そうに指図しやがって……ッ、おいナム・ギジュン、お前にはここが弟の斎場に見えんのかァ!?」
「…………」
「ジュンモ……!!」
ようやく平穏を取り戻したはずの小屋の中に、先ほどとは比べ物にならない険悪な空気が満ちる。
ジュンモの一線を越えたその台詞に、理性が薄れていくのがわかった。
知ってはいたが、人間のクズを改心させるのは容易なことではないのだ。
生きてここにいるんだから謝る必要がない……なんて、よく弟の前で言えたものだと拳を握りこむ。
お前が寄越したガキどもは、確かにギソクの命を奪いはしなかっただろう。
だが、もし、ソンウォンが本職の殺し屋を送り込んでいたなら? ギジュンがその場に居合わせなかった、前回の人生でのギソクを思う。もしシマネの前に雇われたのも殺し屋だったなら、その時点で、弟はもう生きてはいなかっただろう。
今回は、俺がいたから、ギソクはこうして生きていられるのだ。
――なのに、「謝ることなんか何一つない」?
ジュンモにはもはや生かしておく価値はないと、ギジュンは激昂している顔を見上げ、ギッと椅子を引いた。
「……ッ」
身も凍るほどのギジュンの殺気に、ボンサンが顔を青ざめさせる。本当に、息子を愛しているのだろう。ギジュンが立ち上がるより先に腰を上げ、失言を重ねる息子を力のかぎり殴り倒した。
「い゛……ッ」
ゴッと重い音とともに地面に倒れたジュンモ。ギジュンはそれを冷めきった目で追った。
もし、ジュンモがギソクに対して心からの謝罪を述べられないのなら、それはすなわち、ジュンモが生きている限り、弟の命を絶えず危険に晒してしまうということになる。それだけは避けなくてはならないため、必然的にジュンモを護ろうとするボンサンも含め、殺さなくてはならなくなる。
だが、ギソクの平穏のためにも、腰に隠してあるナイフが使われることをギジュンも進んで望んではいなかった。殺すのはいつでもできる。べつに親子喧嘩をしている最中である必要はない。そう結論づけ、ギジュンは立ち上がるのを見送り、いったん父子のやり取りを見守った。
ボンサンは怒りと息子の愚かさに肩を震わせ、父親を見上げているジュンモに怒鳴り声をあげた。
「何で俺が頭を下げているのか、お前にはその理由もわからないのか……!? お前は、ジュウンの後継者を殺そうとしたんだ……! それは俺にとって、お前が狙われるようなものだ……ッ、これでもまだ、ギソクに謝罪はいらないと思うか!?」
「……ッ」
自分がしでかした事態の重さを父親の激昂ぶりからようやく悟り、ジュンモは唇を噛みしめた。しかし、その言葉ですぐに納得し反省するような男であれば、そもそもギソクを殺そうだなんて考えない。
案の定、ジュンモは屈辱に耐える顔で父親を睨み上げた。
「わかったよ、確かに俺はしくじった……ナム専務に謝罪する。でも……でもじゃあ、俺のことはどうなるんです……!? 部下の前で侮辱された俺へのナム専務のあの行為は、許されていいものなんですか!?」
顔を赤らめてギソクを睨んだジュンモに、ボンサンは苦しげな声で反論する。
「それは……っ、お前が彼を殺す指示を出した時点で帳消しになるに決まっているだろ……!!」
「でも!! ナム・ギソクは怪我のひとつも負ってないじゃないか!! 父さん、ボンサンの跡継ぎが侮辱されたんですよ、ジュウンの後継者に……!! それは許していいのかよ!」
聞くに耐えない言葉の羅列に殺意だけが増していく。
だが、隣に座るギソクは、ただ静かに親子のやり取りを見つめていた。ギソクが沈黙を選ぶのならそれに倣うのがギジュンの務めだと、愚息に手を焼く父親を視界に入れた。
「~~ッ侮辱なんて慣れてるだろ……!! どうせ一生悪く言われるから、それくらいどうってことないだろ!」
要領を得ない息子に悲痛な面持ちで声を荒らげるボンサンだったが、父親のその発言に、ジュンモは泣きそうな顔で叫んだ。
「ほら見ろ、父さんでさえ、俺のことを役立たずのバカ息子扱いしてる……! だから能力を証明したかったんだよ!」
「……ジュンモ」
ジュンモの悲鳴にも似た訴えに、ボンサンの顔が歪んだ。
権力を誇示し、地位や名声を脅かす敵を排除する――確かにそれは、裏社会ではなくてはならない能力であり、必要な手段でもあるだろう。
だが、同時に、裏社会には決して破ってはならないルールや、暗黙の了解というものがある。相手のテリトリーに踏み込む際には命を懸けなくてはならないし、敵の替えの利かないものを奪うというのなら、すべてを失う覚悟が必要だ。
ジュンモには、その知識が備わっていない。この世界で生きていくには、あまりに致命的な欠陥だった。
ボンサンも、それに気づいたのだろう。自分の教育ミスと、帝王学の失敗を。
土砂でスーツが汚れることも厭わずに、ボンサンはその場に膝をついた。幼子のように手足を放り出して瞳を潤ませる息子の頬に手を伸ばし、会長としてでなく、父親としてジュンモに囁いた。
恐らく、ジュンモがずっと求めていた言葉を。
「バカなことを……。証明する必要がどこにある……? 出来の悪い息子は、我が子だと認めないとでも?」
「……父さ、ん」
「お前……父さんがこうする理由が、わからないのか?」
「~~……ッ」
疑うほどに優しいボンサンの声に、じわじわとジュンモの瞳を覆っていった水の膜は、すぐに大粒の涙として彼の頬を伝い流れていった。
静寂が満ちた小屋の中に、ジュンモの啜り泣く声が響く。
こんな父親がいたら、きっと幸せだったろう。泣き出した息子の頭を胸の中に引き込んだボンサンを見て、ギジュンは朧気にそんなことを考えた。
――にしても、ジュンモがこんなにも幼かったとは。
予想より子どもだったジュンモに殺意が萎んでいく。こんな光景を見せられた後では、惨殺するのは少し憐れかという慈悲さえ湧いて来るような気がした。
――まあ、でも、父親にここまで言われたら、改心せざる得ないだろう。
腹立たしい態度はいくつもあったが、ボンサンのためにも殺すほどではないかと自分に言い聞かせ、ギジュンは殺気を消した。
その隣で、ふいに聴こえてきた深いため息。ギソクだ。
どうかしたのか。そう尋ねようと右側に顔を動かして――ギジュンはギチリと固まった。
「な、ん……」
視界に映るギソクには、あるべきものがなかった。レンズに覆われていた目元が明るみになり、美しい顔立ちがその場に晒されている。
――そう。ギソクが、眼鏡を外してテーブルに置いていたのだ。
なぜ外した、味方でもない相手の前で、今すぐかけろと戦慄し眼鏡に手を伸ばしたギジュンだったが、ギソクは兄が予想だにしていなかった提案を口にした。
「ク常務」
名を呼ばれたジュンモが、父親の腕の中から顔を上げる。涙に濡れた双眸がゆったりと弟の素顔を捉える瞬間を、ギジュンはただ、見ていることしかできなかった。
その瞳が、大きく見開かれる瞬間も。
――気を許した相手にしか見せるなと言い聞かせていたものを、かつての仇に見られてしまうことを。
ひとり時を止めたギジュンの隣で、ギソクは淡々とそれをジュンモに提案していった。
「確かに、私の常務に対する行為はあまりに軽率でした。あなたは文字通りク会長のご子息で、ボンサンの跡継ぎだ。昨日の非礼をここでお詫びします。なので――二発。私を殴って、すべてを手打ちにしてもらえませんでしょうか」
「ハ…………?」
疑問を口に出したのは、ジュンモでも、ボンサンでもなく、ギジュンだった。本当に己の口から出たのかと疑うほどに低い声に、ギジュン自身、理解が追いついていなかった。
明らかに表情が消えたギジュンに、傍観していたジュウンとグムソンの顔も凍りつく。ボンサンが最も冷や汗を浮かべていたが、ギソクは兄を無視しジュンモに視線を向けた。
「私はこの問題がすべて片づいたら、会社を辞めるつもりです。だから、退職後に何のしがらみも残しておきたくはない。常務。あなたが望むなら、外にいる部下たちの前で殴られてもいい」
ギソクは地べたに座るジュンモに向けて、まっすぐに言いきった。何のプライドもないとばかりに、一秒でも早い解決を願っているようだった。
お前は、その提案をするために、わざわざ眼鏡を外したのか――。
そんなことは明白だったが、今、弟が告げたすべてが許容できなかったギジュンは、怒りのままに握っていた拳をテーブルへと叩きつけた。骨が軋んだが、気にもならなかった。
「ヒッ……!」
ゴキャッ! とひどい音を立てて凹んだアイアンテーブルに、グムソンの驚愕の声がこぼれ落ちる。ギジュンの暴挙にギソク以外の全員が顔色を悪くしたが、ギソクだけは凪いだ顔で兄に視線を向けた。
「なに、ヒョン」動じることなく尋ねてきた弟に、呪詛に近いそれが口から漏れる。
「……俺に、お前が殴られるのを、黙って見ていろということか?」と。
ギソクは兄に気圧されることなく、躊躇いなくうなずいた。
「ヒョン、昨日言ってたろ。『これはお前の問題だ』って。一発は一発、俺はこのルールに従うのが最良だと思う。だから……そうだな、黙って見てて」
「…………」
怒りとも、憎悪ともつかない感情が全身を支配する。弟の意見を尊重するといったくせに、いざ気にくわない考えを口に出されると思考が停止していく。ジュンモに触れられるだけでも許せる気がしないというのに、この美しい顔を殴らせ、傷をつけるなんて行為、到底許せるはずがなかった。
ふざけてないでとにかく眼鏡をかけろと怒鳴りそうになるなか、ギソクは再度、ジュンモに「どうする、ク・ジュンモ」と声をかけた。
気づけば、最悪の言葉を口にしていた。
「……無理だ」
「なに?」
こちらを振り返ったギソクを見つめたまま、ギジュンは重たい腕を持ち上げて、顔も見らずにジュンモを指差し告げる。
「もし、あいつが、お前の顔に傷のひとつでもつけたなら、俺は多分……あいつを、殴り殺してしまう」
「!……ヒョン」
「ギジュン……っ」
物騒な言葉にギソクの顔が曇る。ボンサンは咄嗟に息子の盾になったが、取り返しのつかないその状況を打破したのは――ほかでもない、ジュンモだった。
「いや……俺、ナム専務を殴ったりなんかしたくないです」
「……常務」
ジュンモはそう告げて父親を立たせてその場から立ち上がると、衣服の砂埃を払い、身綺麗にしてこちらに歩み寄ってこようと動いた。
それ以上弟に近づこうとしたら、鼻っ面を折ってもう一度地面に沈めてやる――そう決めてジュンモの一挙手一投足を見ていたギジュンに、ボンサンは気づいたのだろう。かなりの力で息子を引き留めて、「言いたいことがあるのなら父さんより前に出るな」とジュンモを牽制した。
ジュンモは、嘘のように従順にそれに従った。まっすぐにギソクを見つめ、高揚した顔で口を開こうとしていた。
「…………」
ギジュンは、その「目」を知っていた。
――弟に向けられる、その欲を孕んだ目を、昔からよく知っていた。
ジュンモが何を言い出すか、奴の無邪気な笑顔を見て悟れないほど、ギジュンは伊達にナム・ギソクの兄をしてはいなかった。
ジュンモは父親の隣に立ち、ギソクに向けて右腕を差し出した。今世紀最大の、ふざけた言葉を告げながら。
「代わりに、ナム専務……いや、ギソクさん。俺と、デートしてくれませんか?」
「……。――は……?」
間の抜けたギソクの声が地面へと落ちていく。ボンサンは隣から聞こえた台詞に眉間に皺を寄せ、信じられないものを見るように息子に顔を向けた。兄弟の過去を知るジュウンだけがジュンモの未来を案じていたが、何よりもギジュンの思考を邪魔したのは、グムソンの怒声にも似たリアクションだった。
「は、ハァ……!? おま、何を言い出すんだ急に……!」
「グムソン……どうした、落ち着け」
突然椅子を引き倒して立ち上がった息子に、ジュウンが訝しげな顔を向ける。グムソンはなぜか怒り心頭の様子で、ジュンモを睨みつけていた。
ギジュンはいやに醒めていく頭を一度グムソンに向け、それからその視線を追ってジュンモを見た。グムソンが怒鳴る謂れはなかったが、確かにジュンモが口に出した台詞は、この緊迫した空気のなか放たれるべきものではなかった。
渦中のギソクは話題の変わりように眉間を詰まんで、目を閉じながら、ジュンモの言葉の意図を探って呻いていた。
しかし、ギジュンに言わせれば探る意図の答えは明らかだ。
――奴の、ギソクを素顔を見た瞬間の顔を思い出せば、なぜそんな提案をしてきたのかはわかりきっている。
ギソクに、惚れたのだ。ギジュンが殺してきた、数多の男たちのように。
ああ、やはり、最初に暴言を吐いた時点で殺しておくべきだった――腰にあるナイフに手を伸ばすが、突然テーブルに身を乗りだしギソクとの距離を詰めたジュンモの奇行によって意識を奪われる。ジュンモの猪突猛進ぶりはもはや才能であった。つい先ほどまで憎悪と殺意に溢れていたとは思えないほど、純粋な双眸を携えてギソクの顔を覗き込んでいた。
おい――低い声と共にクソガキの首を掴もうとするが、ギソクに視線で制され、ギジュンはそこから動けなくなった。
ジュンモはその間にテーブル越しにギソクに寄った。明らかになっている素顔に、完全に骨抜きになっている様子であった。
「ヤバ……ギソクさん、あんたすっげえ美人だな……今まで見てきたどの女よりも綺麗だ……。何でいつも眼鏡してるんです? ぜってーコンタクトのがいいのに」
無神経さを隠せていないその発言に、ギソクは眉間に皺を寄せた。
「余計なお世話をどうもありがとうございます、常務」
そうしてイカれた子どもを前に冷たくあしらうギソクだったが、そんなもので止まれるほど、ギソクの美貌は優しくはなかった。
「ね、マジで手打ちにするし土下座でもなんでもするからさ、どうせ辞めんだったらその前に一回だけ、俺とデートしてくださいよ」
ギジュンの予想通りに折れずに口説こうとしてくるジュンモに、再び殺意が顔を出す。
いったいどの面を下げて、そんな申し出をしているのだろうか。弟を殺そうとした分際で、そんな条件が通るとでも? 一度わからせなければ理解しないのだろう子どもをギソクが拒絶してくれることを願い、ギジュンは弟を見た。
「……申し訳ない。この一件とデートの脈略がなさすぎてまったくついていけないんですが……俺がおかしいんですかね? ク会長」
あまりにぶっ飛んだ提案に、ギソクは父親のほうに視線をやった。ボンサンは見るからに疲弊しきっており、愚息の発言に頭を抱えていた。
「ジュンモ……お前はいったい何を言い出した? ふざけてないで、ギソクにさっさと謝って終わりにしろ……」
ボンサンの声にいつもの威厳はなく、見ているこちらが同情するほどだった。けれど、ジュンモは恐れも知らずにギジュンに視線を向け、「嫌だ」と言いはなった。
「だって、惚れちまったもんはどうしようもないだろ」と、挑発するように。
「――――」
ガッと椅子の脚が地面を擦り、激しい音を立てて背後で倒れる。――もう限界だと、ギジュンが立ち上がった音だった。
「ギ、ギジュン……! 待て、待ってくれ! 俺が言い聞かせるから!」
ボンサンの必死な形相が目に入るが、ギジュンの拳を止める理由になるわけもない。「ヒョン!」とギソクに腕を引かれたが、それすら耳に届いていなかった。
ジュンモは父親の心配もよそに、さらにギジュンの殺意を膨れ上がらせた。
「嫌だよ、父さん俺は。だってデートしないなら、ナム専務を殴るしかなくなるし」
「ジュンモ!!」
「……あ……? もういっぺん言ってみろ……」
ボンサンを軽くいなして突き飛ばし、ジュンモの胸ぐらを掴み上げる。だが、ジュンモはここにきても微塵も恐れていなかった。
「なにをそんなにキレてんだよ? 色恋の話なんだから、お兄様には関係のないことだろ」
「…………」
――ああ。そうか。こいつは知らないのだ。
ナム・ギジュンという男が、いったいどういう人間なのかを。
理解させてやる――父親の制止の言葉も聞かずに腕を振り上げたギジュンの耳に、「わかった」という神経を疑う台詞が届く。息が止まる。
今、聞こえてきた言葉は何だった?
ジュンモを掴んだまま、ギジュンは背後をゆらりと振り返った。
「……なんだと」
「だから、常務の提案に乗る」
「な……正気か?」
思わず手の力が抜ける。ジュンモはその隙にさっさと父親の影に隠れたが、ギジュンはもうそれどころではなかった。
「ギソク……こいつは……、こいつは、お前を殺そうとしたんだぞ」
理解できずに解を得ようとする。が、ギソクは「俺も彼のメンツを潰した」と返すだけだった。目眩がする。気分が悪かった。吐き気すら湧いてきて、手足が痺れていくのがわかる。
なぜ、弟は敵にこんなことを言える? 皆目理解できないと立ちくらみすらしたが、ギソクは瞳孔の開ききった兄から早々に目を逸らし、ジュンモに身体を向けた。
「ただし、こちらも条件をつけさせてもらう。ディクロホテルでランチをするだけ。セックスはなし。夜には帰る。それでいいなら、提案を呑もう」
「……、……」
あまりに生々しい発言にボンサンが天井を仰ぐ。ジュウンは心配そうにギジュンに視線をやり、グムソンは大口を開けて間抜けにもほどがある顔でギソクを見ていた。ギジュンはまだ脳内で整理がつけられず、このイカれた状況の打開策を思いつけていなかった。
誰ひとり発言しないなか、ジュンモはじつに嬉しそうにギソクの条件を呑んだ。
「いいですよ、それで。俺のホテルにはアミューズメント施設も多いし、プールもある。でも……もし俺がマトモにあなたを口説き落とせたら、夜のチャンスもありますよね?」
「ハッ……自惚れるのも大概にしてく――」
ギソクが最後まで言いきることはなかった。
ギジュンの拳がジュンモの横っ面を殴り倒すほうが早かった。
「ガッ!」
「ヒョン……!!」
見事に吹っ飛んだジュンモを追いかけ、腹部を蹴り上げる。「ギジュンやめろ!」とジュウンの声が届いたが、やめられるはずがなかった。
ジュンモの髪を掴み上げ、首をかしげてそのアホ面を覗き込む。父親が必死に引き剥がそうとするのをものともせず見下ろしてくる男に、ジュンモはようやくギジュンという鬼の存在を認識したようだった。
露骨に瞳に恐怖を浮かべたクソガキに、ギジュンは言い放つ。
「弟に指一本でも触れたら、確実にお前を殺す」――と。
シン…と静まりかえった室内に、ジュンモの怯えた息遣いだけが響く。同時に背後から深いため息が聞こえ、体内の空気を失ったギソクが呆れた顔で兄を見つめていた。
「ヒョン、ジュンモを離せ。じゃないとここから追い出すぞ」
「……ギソク」ギソクを振り返る。自分の暴走をよくわかっているからこそ、ギジュンは拒絶せずに弟の声に耳を傾けた。
兄が聞く耳を持っていることを確認したギソクは、椅子に座ったままギジュンを諌めて笑う。
「『もう二度と離れない』んだろ? 破りたくなかったら、今すぐにこっちにきて座ってくれ」
ほら、早く。まるで夕飯ができたときに呼ぶように、ギソクはギジュンに命じた。もう一発くらいは殴っておきたかったが、それを実行したら、弟は宣言通り兄を外に追い出すだろうと感じたギジュンは、父親の懇願通りにジュンモを解放して弟の隣に腰かけた。
ギソクはおとなしく従った兄にフッと軽く微笑んだあと、息子を立たせているボンサンに声をかけた。
「兄がすみませんでした、ク会長。とりあえずご子息の提案は呑むので、それで互いに手打ちにする、ということでよろしいでしょうか?」
訊いてはいたが、有無を言わせない声だった。まあ、そう尋ねる男の隣にギジュンが座っているのだ。ノーだなんて口が裂けても言えない状況であるのは間違いなかった。
「ああ……かまわん。お前がそれでいいのなら」ボンサンは掠れた声で、二つ返事で了承した。息子がこれ以上失言をして、自ら命を危険に晒さないことだけを切に願っているように見えた。
正直ギジュンはジュンモの提案も、それを呑んだギソクのことも何一つ納得いっていなかったが、これは文字通り「ギソクの問題」だ。ギジュンはこれ以上の発言権を持ち合わせていなかった。
せめてもとジュンモに殺気を向けるが、肝心の奴はもうギソクとのデートに浮き足立っているようで、頬杖をついて呑気に弟に半月型の瞳を向けていた。その腹立たしい顔を視界に入れていたら何をするかわからないと自覚したギジュンは、早々に弟に視線を戻した。
「よかった、なら決まりですね。――じゃあ、そろそろ本題に移りましょうか」
ヒョン、と話を振られ、ギソクと目が合う。殺意と憤りによりもはや本題が何かも忘れてしまっていたギジュンは、無言でじっと弟の顔を見続けた。眼鏡をかけさせなくては。それだけが脳裏に浮かんでいた。
ギソクは十秒ほど兄が話し出すのを待っていたが、ギジュンの魂の抜けた顔を見て埒が明かないことを悟った。しかし、その一因を担っている自覚があったのだろう。テーブルに置いたままになっていた眼鏡をかけて、再び兄に話しかけた。
「チャ・ヨンド。……潰すんだろ?」
親しい間柄以外に見せるなというギジュンの要望を再び実行した弟を見て、意識が覚醒していくのがわかる。忌々しい男の名前もそうだが、愛しい弟の気遣いを受けて無視できるほど、ギジュンも頑なではなかった。
「ああ、そうだな」
ギジュンはいったん雑念は奥にしまい、わだかまりを粗方解消し終えた四人に向け、今後の話を話題に上げた。

 

「・・・――では、計画はこれでいきましょう」
疲れが滲むギソクの声が、話し合いの終わりを告げた。
一時間ほど話を煮詰めて、ヨンドを潰す作戦は完成した。
シマネを殺す前に弟の暗殺を指示した人間が誰かを聞き出したギジュンが、今現在血眼でヨンドを探している――この情報をヨンドに流し、ギジュンを殺すよう仕向ける。
その後、ギジュンの偽の居場所をグムソン経由でヨンドに伝え、身を隠したヨンドの不意を突き、始末する。
当然問題となりえるあのUSBのことも、視野に入れていた。
『――チャ・ヨンドは恐らく、ここにいる全員……ギジュンさん以外の人間全員の弱みを握っています。殺す前に、確実にそれを回収する必要がある』
グムソンの言葉に、ボンサンが提案を口にする。
『イ検事の権力で警察の捜査礼状は取れないのか。できたら楽そうだが』
『そうですね……取りましょう。二日くだされば奴の部署を丸ごと差し押さえます』
『なら、あとは奴のオフィスに無かった場合の隠し場所をどう調べるかだな……』
ジュウンの神妙な言葉に、ギジュンは『それは任せてください』と口を挟んだ。
『家宅捜査の日を、俺を暗殺させる日と被せるんです。奴はその日、俺が死ぬまで隠れ家から出てこない。つまり、グムソンが裏切ったことを奴は動けない状態で知ることになる。きっと、保身のために部下に機密データを移動させるはずだ。それをソンウォンに尾行させ、手にしたところを押さえて奪ってしまえばいい。あとは……ヨンドは、俺が処理します』
機密文書や音声データをすべて回収し、確実にヨンドを殺す。権力者二人に加えて検事のグムソンの力を借りることによって、難易度は一気に下がったように思えた。
あとは、実行に移すだけだ。
グムソン曰く、家宅捜査を執行するのは明後日だ。それに合わせてギジュンの情報を流してやれば、奴は殺し屋を――ギジュンを殺せる可能性のある人間を、差し向けざる得ないだろう。
――そう。テファン兄貴をだ。
十一年前の騒動の主犯ということになっているテファンが刑務所から出られるチャンスがあるとするなら、恐らく今回が最後だった。
彼が恨みから自分を殺しに来ると知っていて出所させたい理由は、ただひとつ。
ギジュンが、テファンを敬愛していたからだ。
ギジュンはジュウンだけでなく、テファンにも多大な恩があった。ギソクがスンウォンを殺したことに勘づかれたために再起不能にせざる得なかったが、本当はあの日、怪我をさせたくすらなかった。ましてや、殺したくも死なせたくもなかったのだ。
言うなればヘボムにとってのギソクであり、ギジュンにとって命を懸けてもいいと思える大切な兄貴分だった。
ジュウン組に入社したての頃、テファンは唯一ギジュンを地面に沈めることができる男だった。生意気だったギジュンを弟分として世話し、面倒を見てくれた。それだけでなく、戦い方を研鑽してくれ、裏社会のイロハを完璧に叩き込んでくれたのだ。弟がいると伝えてからは、ギソクの分の手土産もくれたりした。
ギジュンにとって、テファンは兄のような存在だったのだ。自由にできる可能性があるのなら、自分の命を危険に晒してでもテファンを救えることに賭けたかった。
明後日は気をしっかり引き締めて挑まねばならないと、ギジュンは深く息を吐き出した。やり直すチャンスはもうこれきりなのだ。昨日にキャンプ場で誓ったとおり、ギジュンはヨンド以外の全員を救いたかった。
――大切な人間の死の上で、幸せになどなれないことを知っていた。
会合も終わり、先にジュウンとグムソンが小屋を出ていった。去り際、グムソンがやけにギソクを睨みつけているような気がしたが、すぐに父親の背を追って去ったためよくわからなかった。
気になったため、ギジュンも後を追おうとそれに続こうと動く。何より、ヘボムをかなり待たせてしまっている。もう用もないため、いち早く彼を安堵させてやりたい一心だった。――全員を殺す可能性を示し、ここに足を踏み入れたのだ。張り詰めさせた気は桁違いだろう。
「ギソク」帰るぞと弟に声をかける。
だが、弟を振り返ったギジュンの視界には、現実であってほしくなかったやり取りが映し出されていた。
「なぁ、ナム専務。明日の十時、うちのホテルに集合な」
「……ああ、はい。時間きっかりに伺います」
「デートだからな! 勝負服で来てくれよ?」
「! ジュンモ……! わがままを言うな、呑んでくれただけ感謝しろ! 帰るぞ!」
「いでっ」
厚かましい申し出にギジュンが殺気立ったのがわかったのか、ボンサンは息子の頭を叩くとそのまま襟首を掴んで連れ去っていった。父親に引きずられながらも呑気にギソクに向けて手を振る様子は、ギソクに対してしくじった過去がなければ愛らしく思えただろう。
だが、その絶対のラインを踏み越えているジュンモがかわいらしく思えるわけもなく、ギジュンの憎悪が煽られただけであった。
二人きりになった小屋に沈黙が落ちた。ギジュンは入り口に視線を向けている弟に問いかける。「本当に行くつもりか」と。
ギソクは横目でギジュンを軽く見て、「なんで」と聞き返してきた。「何でそんなこと訊くんだ」と重ねて問われ、ギジュンの眉間に深い皺が寄る。
「何で? 理解できないからだ、あいつはクズだぞ」
「……そう。でも、ヒョンが言ったんじゃないか。『お前の顔に傷のひとつでもつけたら、俺は多分あいつを殴り殺してしまう』って。俺はべつに二発くらい殴られてもよかったのに。ルール通りに筋通せないなら、提案を呑むしかないだろ」
「……俺のせいだって、言いたいのか」
どこか責めるようなギソクの口調に言葉尻が萎んだ。しかもギソクは「さあね」と言うだけ言って、さっさと小屋を出ていこうとする。その態度に確実に怒っているのだと気づき、慌ててその手首を掴んで引き留めた。「待てギソク……!」
「悪かった。俺が……勝手をやったから怒ってるんだろ」
「勝手ね。例えばなに」
振りほどかれない腕に安堵する。ギソクは顔は向けてくれなかったが、ギジュンの態度しだいでは許してくれるつもりなのは伝わってきた。
ギジュンは初手をミスらないよう、慎重に言葉を並べた。
「ジュンモを殺すと脅した。殴りもした。ク会長の制止も聞かず。平和的に解決したかったお前の提案を拒絶して、メンツを潰しかけた……本当に悪かった」
「…………」
ギソクはギジュンの謝罪を受け、兄を振り返った。じっと無表情のまま、ギジュンだけを見つめてくる。その眼鏡の奥の瞳が怒りに染まっているを知るのが怖くて、ギジュンは少し視線を壁際へと逸らして耐えた。
「ハァ……」呆れを含んだ嘆息が聞こえ、ギジュンはゆっくりとギソクへ視線を戻す。睨みつけているかもしれないと思うと恐怖心が湧いたが、ギソクはどこか、悲しげな顔で笑っていた。
「? ギソク……」
「謝罪は受け入れるよ、ヒョン。明日はもちろん着いてきてくれるよな?」
「あ、ああ。当然」
よかった。そう言って屈託なく笑ったギソクは、「ヘボムが待ってるな」と呟いて、小屋の戸を引き夜の闇の中に消えていった。
呆気なくひとりその場に取り残され、ギジュンは今しがた見たものに対して疑問を募らせる。
――今の顔は、いったいなんだった……?
見間違いにしてはやけに鮮明で、記憶にない弟の表情。本当に許されたのかさえわからないギソクの態度に、焦燥だけが募っていく。
だが、ここで立ち尽くしていても何が変わるわけではない。
気のせいにしてしまうにはギソクの顔はひどく感情的に見え、ギジュンは半ば駆け出すように弟の背を追いかけた。
外はもうどっぷりと深けこんでおり、夜空には街の明かりのせいで星のひとつも見えやしない。曇天に近い空模様はまるでギジュンの感情をうつしたようだった。
ギソクは既にヘボムと話しており、ギジュンも遅れて二人に合流する。
ヘボムは、明日のふざけた茶番のことを何と思うだろうか?
俺がしくじったせいだと知ればきっと、彼も幻滅するに違いない。
侮蔑の目を向けられる可能性も視野にヘボムに声をかけたが、ヘボムは笑顔でギジュンを振り返った。
「うまくいったんですね、ギジュンさん……!」
開口一番、ヘボムは笑顔でそう告げた。それはギジュンが想定していた顔ではなく、不意を突かれて返事をすることを忘れる。ジュンモとの一件を聞いていれば、さすがのヘボムもこんな風には笑えないだろう確信があった。
――言っていないのか?
ギソクに視線を向け、ヘボムに隠している理由を見抜こうとする。――そこでハッと二人の関係性を思い出し、ギジュンはギソクから視線を外してヘボムに顔を向けた。
「ああ、二日後にヨンドを殺す。詳しい話は帰りながらしよう」
「わかりました。すぐに車出しますね」
運転席に乗り込んだヘボムを見送り、ギジュンは弟を横目に盗み見る。ヘボムを見つめている横顔はとても凪いでいて、先ほどギジュンに向けられた複雑で痛々しい表情の面影は微塵も感じられなかった。
「帰ろっか、ヒョン」
「……! ああ、そうだな」
ふいにこちらを向いた弟の顔。
いつから気づかれていたのだろうか? 穴が空くほど見つめた自覚があったため、気まずさが拭えずギジュンは早口でうなずいた。
それからマンションに向かう車内で、ギソクはいやに静がだった。

 

 

長い一日だったため、ギソクは帰宅早々熱いお湯での入浴が必要だと浴室に吸い込まれていった。性急な行動からして、もう眠たくて仕方ないのだろう。睡魔に襲われ湯に浸かりながら沈んでしまわないよう、ギジュンは時おり声をかけに行っていたが、三度目で「そんなに気になるならいっしょ入る~?」と茶化されたのでおとなしくリビングに座っていた。
内容の入ってこないテレビを流し見て、時間を潰す。脳裏にはやはり少し様子がおかしいギソクの姿が過っていたが、ギジュンにはその理由を知る術がなかった。
「ヒョン、風呂いいぞ」
「ん……あぁ」
ギジュンは背後から聞こえてきた弟の声と、少し湿度が増した室内の空気にギソクが入浴を終えたことを知る。自然に背後を振り返ったが、浴室から上裸で出てきていた弟にぎょっと身を固めた。
寝間着の下だけを履いてバスタオルを肩にかけ、濡れた髪をそのままに歩いてくる姿は、いくら高層階だと言っても全面ガラス張りのリビングではあまりにも無防備だ。カーテンのリモコンを手に取って、クローズボタンを押す。自動でカタカタと閉まっていくそれに安堵して、ギジュンはようやくソファーから腰を上げた。テレビを観ようと既に隣に来ていた弟を視界に入れないよう、ギジュンはギソクの横を通り抜け浴室へ向かう。
幼い頃から見慣れているはずのそれから目を逸らしてしまったのは、決して、やましい感情があったからではない。
――ああ、そうでなければならない。
「着替えを借りるぞ」と軽く返し、シャワールームに入り冷たい水を頭から被る。十分以上そうして水に打たれていたが、冷えきっていく身体に気づきながらもギジュンはとてもあたたかい湯を浴びてリラックスする気分にはなれなかった。
ギソクの命を救うことには成功し、ジュンモとグムソンも改心させ、ジュウンとボンサン両名の協力も仰げてすべては順調だった。
だが、いまだに憎いジュンモに、弟を性的に見ることを許す事態を招いてしまったことだけが、ギジュンの中で大きく引っ掛かっていた。――それに、なぜか憂いを帯びた表情を浮かべていた弟のことも。
目を閉じればいつでも思い出せる。一方的に蹂躙されていたギジュンを見て、ジュンモが興奮しながら叫んだ台詞を。
『弟のナム・ギソク!? ああ、そうだよ俺が殺した! ハッ、バカな奴だ……!』
そう言って、嗤った男の顔を。
あんな奴に、弟の素顔を見られ、弟と過ごす時間を与えてしまったのは己の自制心のなさが原因だ。
いや、違う。慈悲など与えず、最初から殺しておけば、こんなことには――なんて、最悪の考えまで脳裏に浮かびだす始末に乾いた笑いが漏れた。
明日、理性を保ちながら二人のやり取りを見続けなければならないことが、なによりも一番気が重いのかもしれない。今夜ギソクの意思に反して彼のメンツを潰してしまったのだから、明日こそはどれだけ癪に障っても、口も手も出してはいけない。それだけは明らかだった。
「……はぁ」
生きているだけ幸福だろ。そう言い聞かせることは簡単だったが、本能的な嫌悪感はどうすることもできない。
ただ、弟にもうあんな顔をさせたくないという一心だけで駆け抜けるしかなかった。
できることなら、明日の同伴はヘボムに変わってもらいたい。そんな弱気なことまで考えだしたため、ギジュンは憂鬱な気持ちを振り払うようさらに強めにシャワーを浴びた。
浴室から出ると、リビングにはもうギソクの姿はなかった。多少の不安から気配を消して寝室を覗けば、そこにはちゃんと無傷のギソクがベッドに横になっていた。弟の無事を確認し、胸を撫で下ろす。ヨンドを殺すまでは安全ではないと知っているからこそ、毎度新鮮に身体が緊張してしまった。
寝ているならいいとリビングに戻って寝ようとするが、それはギソクが許さなかった。
「どこ行くの、ヒョン」
「……起きてたのか」
寝室のドアノブに手を掛けたままベッドを振り返る。ギソクはしっかりと目を開けてこちらを眺めており、ギジュンは居心地の悪さに手汗が滲んでいくのがわかった。覚えていないと勝手に思っていたが、昼間ギソクが寝落ちる前に告げていた「ヒョンになら何をされてもいい」という台詞が、いやに鮮明に思い出されていた。
なんにせよ、一日に二度も同衾すべきではない。ギジュンは自分の理性を信用していなかったため「リビングで寝る」と早口で返して去ろうと動いたが、「窓から刺客が入ってくるかも」なんてふざけたことを言われては出ていくに行けくなった。
「……ここはタワーマンションの最上階だろ」
「そうだけど、ニンジャが殺しに来るかもしれないだろ」
「…………」
「それに、独りで寝たら悪夢に魘されるかもしれないし」なんて布団を被ったままふんぞり返って真面目に告げるギソクに頭痛が増す。ギジュンが断れない条件を口にして囲いこんでくる周到さに、目眩さえ覚えた。
この弟は、何がなんでも兄を寝室に留めておきたいようだった。
理由は知らない。気にはなるが、知る必要もなかった。今日己がしでかした失態を思えば、こうして甘えてくれるだけ幸福だったからだ。
ギジュンはため息と共に寝室の扉を閉め、やけに甘えたな弟が寝転ぶベッドに腰かけた。すっかり乾いている前髪を優しく左右に分け、苦労を掛けっぱなしの弟を見下ろす。
明日、弟は、不本意な相手に半日も身体を拘束される。
――ほかでもない、俺のせいで。
ギソクを健気に愛してくれているヘボムにも罪悪感が湧き、ギジュンは弟に尋ねた。
なぜ、彼にジュンモとのことを打ち明けなかったのかを。
「明日のこと、ヘボムには……言わなくてよかったのか」
「ヘボム……? なんで」
「お前のイロだろ、あいつ」
「なんだそれ……ヘボムから聞いたのか?」
「まあ……」
「あ……! あぁ、昨日の食堂で喋ってたやつ、もしかしてそれ? だからヒョン、あいつのほうが幸せにしてくれるだの言ってたのか」
閃いたと瞳を大きくさせたギソクの顔は、風呂上がりで眼鏡がないせいか、ギジュンの目にやけに幼く映った。
ギジュンはうなずき、ギソクの頬に右手を添える。愛しあう人間がいるギソクに、あんな決断をさせてしまった罪悪感はどう頑張っても拭い去れない。せめて謝罪だけはきちんとしておこうと、ギジュンは弟に告げた。心からの詫びだった。
「悪かった。ギソク……本当に」
「ヒョン」
「殴られたほうが、すぐ終わったのにな」
「……いいよ、もう」
ギジュンの苦しげな顔を見て、ギソクは困ったように微笑んだ。猫のように兄の手のひらに頬を寄せて、焦がれる色を乗せた双眸をギジュンに向ける。
「明日、ちゃんと俺を護ってくれたらそれでチャラ。オッケー?」
「……ああ、わかった。指一本触れさせない」
ギソクはいつでも兄を許容し、許してくれる。ギジュンは弟には頭が上がらないとひとりごち、額に唇を寄せた。そのまま腕を引かれたためシーツの下にもぐりこみ、昼間と同じように片腕を差し出した。
兄の胸元に埋まりながら、ギソクはおもむろにそれを明かした。
「ヘボムに……言わなかったのはさ」
「……ん」
「あいつはヒョンと違って、我慢して何時間でも何日でも、待ってしまうから。ホテルの前で。自分の手のひらとか、口の中、血だらけにして」
忠犬だからさ、文字通り。そう漏らしてギジュンの背中に回された腕に、強く力がこめられる。
なるほど。確かにそうだろうなとギジュンも納得する。ギジュンならば主人の「待て」も最初の数分しか訊いていられないが、ヘボムは違う。ヘボムはどれだけ腹立たしくてもつらくても、命令されたことは守りぬく律儀な男だ。命を狙った相手とのデート、なんてとても言えるわけがないだろう。
「明日の運転は俺がしよう。連れていくのも酷だ」
「うん……だな。頼むよヒョン」
腑に落ちた途端、一気に眠気が襲ってきた。せめて弟が寝るまでは待てとギソクの背を撫でて気を紛らわすなか、ギジュンは腕の中の弟に視線を向けた。
ギソクは兄を見上げていたため、必然的にギジュンと視線が交わった。睡魔と疲労によって潤む瞳は、ひどくおいしそうに見えた。
ギジュンはたまらず瞼に唇をつける。その唇から伝わる体温を失うのが惜しく、もう片方にもキスをしようとしたところでギソクが顔を上げ、視線が絡んだ。――気づけば、唇が重なっていた。
「ンぅ……っ、ふ……ぁ……んむ……」
触れるだけのキスをしたあと、歯列を割って舌を咥内に侵入させる。ちゅ、くちゅ、角度を変えながら何度も深く口づけて、閉じていた瞼を持ち上げ弟の顔を視界に入れて――ギジュンは、そこで自分が何をしているのかを理解し、血の気を引かせた。
バッと顔を離し、弟を見下ろす。糸を引いて離れた弟の唇が、艶っぽく唾液で濡れていた。たったそれだけの情報で、ギジュンは気が狂いそうになる。
――俺は、今おれはいったい、弟と何をした、
悪い、なんてもはや通用しないだろう謝罪に、ギソクは惚けた顔で兄を見上げていた。
だが、ギジュンの顔が強張っているのを見て、その顔に徐々に理性が戻ってくる。何と罵られるかわからず絶望に硬直するしかないギジュンの耳に真っ先に届いたものは、こんな状況でも適応されるギソクの慈悲だった。
「おやすみのキス、大人バージョンだな」ジョークとして片をつけるために笑ったギソクを見て、鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「……ッ」
不出来な兄を持ったばかりに、お前は――。
なかったことになどならないと知っていながら、ギソクの優しさに縋るほか状況を打開する方法を思いつかなかったギジュンは、無理やり笑顔を作って弟に応えた。
「……フ。……ああ、そうだな」
「おかげで、眠くなってきた……よく寝れそうだ……」
そんなことを言って身体を寄せてくる弟に、ギジュンは不甲斐なさから奥歯を噛み締める。
だが、せっかく弟が与えてくれたチャンスだ。二度と信頼を裏切るなと戒め、兄として弟を抱きしめた。
「なぁ……朝……俺が起きるまで、絶対ここにいてくれよ、ヒョン」
「……ああ、約束する」
よかった、そう漏らして寝落ちた弟を見守って、ギジュンも追うように目を閉じた。

Chapter 7: 【ディクロホテル】

Summary:

ギソクとジュンモのホテルデートに同伴するギジュン。
前回の人生で弟を殺そうとしたジュンモとギソクのデートを見守ることは拷問に近いかと思われたが、それは予想外の感情をギジュンに与える。

Chapter Text

「なんで!! ナム・ギジュンがここにいるんだよ……!?」
見るに耐えない癇癪を起こして叫ぶ男に、ギジュンは弟の隣で無表情だけを返し、視線を外した。

昨夜の常軌を逸したやり取り――弟にディープキスをかますという行為――のあと、ギジュンは正直目を覚ました弟と顔を合わせる勇気がなかった。が、「起きるまで傍を離れない」と約束していたことで強制的に行われた顔合わせによる緊張感は、ギソクの「おはよ…」という眠そうな笑顔と挨拶によってすべて遥か彼方へと消し飛ばされた。
兄弟のキスにしてはやたら下心が滲んでいたあの行為を忘れることは許されないが、次の朝に弟がこうしてまだ笑いかけてくれるのなら、ギジュンも素直にそれに甘えたかった。
「そういや……勝負服がどうとか言っていたな」
朝食を取り終えて寝間着を脱いだギソクが、クローゼットの前でそうぽつりと漏らしていた。ギジュンはズカズカとそちらに歩み寄って、綺麗に揃えてかけられているスーツの中から一着見繕ってギソクに渡した。
「いつものナム専務で行け。いいな。仕事なんだから」
深い紺のスーツと揃いのボーダーベスト。紺に映えるヴィンテージグレーのネクタイに、ミルキーホワイトのシルクシャツ。シルバーのネクタイピンと四角いラピスラズリのカフスボタンをつければ、最高に男前なジュウンの元後継者・ナム専務の出来上がりだ。
「ヒョンって意外にセンスあるよな」
「一言余計だ」
威厳もあり、男の色気もある。これで髪を固めて眼鏡をかければ下手なことはできないだろうと満足感に浸っていると、ギソクは「あ、そうだ」と何かを思い出したようにウォークインクローゼットを出ていった。
仕方なく弟のスーツコレクションを眺めて帰ってくるのを待つ。
すると、戻ってきたギソクの手には、見覚えのある箱が握られていた。
「来週誕生日だろ? これ、誕生日プレゼント。昨日、食堂で別れたときにヘボムに頼んでてな。ヒョンから借りたジャケットで採寸したらから……たぶん、サイズぴったりだと思う」
中身は――そう、前回、弟の仇の血で塗れさせてしまったあの黒いスーツだった。
「二人で正装して行けば、ジュンモでも少しはビビるだろ」
やわらかく笑った弟の顔に、帰る主を失った部屋に冷たく遺された「誕生日おめでとう」の手書きのメモが霞んで見えた。
「……ありがとう、ギソク。ずっと、ずっと大切に着るよ」
涙を滲ませ、伝えることのできなかった礼の言葉を口にする。感極まった顔で見つめてきた兄に、ギソクは目を丸くして吹き出していた。
「なん……フッ。もう。急にどうしたんだ、ったく」
ほら泣いてないで、早く着替えて車出してくれるかな運転手さん? そうからかいを口にして背中を叩いてきた弟に涙をこぼしそうになりながら、ギジュンは一張羅を纏って「行きましょうか、ボス」と弟の手を引いた。

――・・・と、約束の時間通りにディクロホテルにやってきた兄弟だったが、ロビーで迎えに立っていたジュンモを見て同時に脚を止めた。
理由? ――うんざりするほど、ハイテンションだったからだ。
ギソクを見留めた途端両手を振って笑顔を弾けさせた子どもに、ギジュンはスーツを着ている高揚感も忘れて激しい目眩を感じた。
つまり、それはギソクも同じであることの証拠であった。顔を弟へ向ければ、やはり何ひとつ取り繕わない鉄壁の嫌悪感が美しい顔に浮かんでいた。
ジュンモはギソクの態度にも気にせず駆け寄ってきたが、すぐにその隣に第三者が居合わせていることに気づき、発狂した。
――それが、いま現在の状況、というわけだ。
「おいナム・ギジュン! なんでお前が着いてきてんだよ!? 今日は俺とナム専務のデートのはずだろうが!」
客もいるロビーで体裁も気にせず叫ぶジュンモに、もはや呆れてものを言えないと無視を決め込む。ギジュンの態度にさらにヒートアップしそうなジュンモを見かね、ギソクは兄がいるその理由を淡々と説明してやった。
「申し訳ない、常務。兄は明日、ヨンドを消し終えるまでは俺の傍を離れないと誓いを立てておりまして。昨日、デートは『二人きりで』との明確な指示を出されていなかったので、同伴も可能だと判断したのですが」
何か、おかしなことを言いましたでしょうか。凛と言いきったギソクに、ジュンモは知能指数の違いだろう。何一つ反論できずに口を閉ざし、忌々しそうにギジュンに視線をやった。忌々しいのはお互い様だとジュンモを睨みつけるギジュンだったが、弟より前に出ることはしなかった。もう同じ轍は踏まない。ギソクのメンツを潰したくてここにいるわけではない。
ヨンドによる万一の襲撃に備えることと、暴走したこのクソガキが、弟に手を出すのを事前に阻止するために俺は今ここにいる。
ジュンモはギソクに反論することはなかったが、ギジュンに向かって「このホテルの中で俺がギソクさんを襲わせるわけねえだろ」と悪態をついてきた。ギジュンはようやく閉ざしていた口を開いて告げた。
「それは結構なことだが、お前は万が一ギソクが殺されそうになったとき、その敵を排除し弟を死から護りぬく力が備わっているのか?」
「……っ」
できないと知っているから、敢えて言った。ジュンモもグムソンも、会長らの息子たちはろくに闘えない。自力で己の身さえ護れない人間に、他人が護れるとは思えない。
ギジュンはジュンモの赤らんでいく顔を見て、ここでジュンモのメンツを潰すことが何よりも避けなくてはならないことであると悟り、すぐに言葉を付け足した。
「俺はただ、弟を護りたいだけだ。お前が弟に害をなさないかぎり、デートの邪魔をするつもりもない。ボディーガードとでも思って目をつぶっておけばいい」
「……そうかよ」
見た目どおりに、ある意味で純粋なジュンモは、ギジュンの言い分を聞いてわだかまりは消えたようだった。ギジュンの大人な対応に、ギソクは意外そうな表情を浮かべていた。
しかし、ギソクが兄に何かアクションを起こすことはなかった。視界の中で、ジュンモが目を疑う行動を取ったからだ。
「じゃ、気を取り直して……ナム専務」
ジュンモは突然その場に片膝をつき、うやうやしく右手を差し出しギソクを見上げた。
「俺と、デートしていただけますか?」
「……。ああ、喜んで」
ギソクは可哀想に、顔をひきつらせながらジュンモの手を取った。それはそうだろう。周りの視線があまりにも痛い。傍目から見ているギジュンでさえも耐えきれないのだ。跪かれているギソクの羞恥心は計り知れないだろう。それに、従業員の中にはホテルのオーナーと競合の後継者であると気づき、その親密な様子に仕事どころではなくなる者も出てくるはずだ。
――これはいっそ、高度な嫌がらせなのではないか?
そんなことさえ浮かぶジュンモの態度に弟を案じる。初手でこれなら夕方まで思いやられると、ギジュンは息を吐き出した。

ディクロホテルにはアミューズメント施設が入っているとジュンモが言っていた通り、一日ホテルから出なくとも楽しめるだろう造りになっていた。
だが、ギジュンが何よりも驚いたのが、ホテル内に簡易遊園地があったことだ。メリーゴーランドに観覧車、ティーカップに縦横無尽に激しく回転する円盤型のアトラクション。人を乗せて高速で回るバイク型の乗り物にシューティングゲームなど、本当に屋内かと疑う光景にはさすがのギジュンも目を剥いた。
「あんたと遊びたくて日中貸し切りにしといたんだ、一緒に乗ろうぜ!」
確か二十五歳だったはずだが、こいつはまだ学生気分が抜けていないのだろうか。そう思わざる得ないほど無邪気に誘ってくるジュンモに、ギソクは見るからに辟易していた。
「常務。俺はこの手のアトラクションが嫌いです」
――嘘だ。ギソクは絶叫マシンの大ファンで、ギジュンには飽きるまで付き合わされた記憶があった。少なくとも、バイク型のアトラクションと円盤型のものは乗りたくて仕方ないはずだった。
それでも澄ました顔で拒否するギソクがおかしくて、ギジュンは入り口で弟を見守りながら小さく吹き出した。
「え~、じゃあティーカップ一緒に乗ってくれよ」
「何が楽しいんですか、あれの」これも嘘だ。
ギソクはチュンソクが吐いてしまうほど高速でカップを回転させ、ひとり笑っているような男だ。ジュンモを思うのならば、乗せないほうが得策だ。――それはそれとして、三半規管をやられてダウンしデートどころではなくなるジュンモは見てみたかった。
ギソクも、同じことを考えたのかもしれない。「まあ、いいぞ」と了承し、ギジュンに一瞬だけ視線を向けて口角を上げていた。
「やる気だな、あいつ……」
何も知らないジュンモは喜びを露にし、いそいそとカップに乗り込んでいた。アトラクションを制御しているスタッフの首が文字通り飛ばなきゃいいがと他人事に思いながら、ギジュンは二人を見守った。
案の定、カップが動き出した途端静かに眼鏡を胸ポケットへとしまったギソクは、常軌を逸した手捌きでカップを高速回転させた。ほかがゆるりと回転するなか信じられないスピードで回るサマは、もはや別のアトラクションだ。
十二年ほど前、チュンソクとビョンホと四人で写真を撮った遊園地での記憶が蘇り、あの頃もこれくらいの速さで回っていたなと軽く笑った。
スタッフが青ざめているのだけが憐れだったが、一緒に乗っているのがオーナーに匹敵する大物のため、自分の判断で強制停止することも叶わないのだろう。一分半ほど呆然と見つめている姿は哀愁すら感じられた。
カップが停止し、ハンドルである円盤に突っ伏しているジュンモと、任務達成とばかりにさっと眼鏡をかけてスッキリしているギソクの姿が目に留まった。楽しかったんだな。わずかに高揚する顔からそれが伝わった。
ジュンモにいたってはしばらく動けないだろう。つまり、デートはこれで終了だ。そうと決まればもうこんなところに用はないと、ギジュンはギソクを呼ぼうとした。が、ジュンモはバッ! と勢いよく顔を上げ、瞳を輝かせてギソクを見た。
「今の、めちゃめちゃ楽しかったな!」
「……、……そう、ですか」
よかったです。そう続けてはいたが、ギソクの顔は苛立っているように見えた。あれで負けず嫌いなところがあるので、ジュンモをダウンさせられなかったことに腹を立てているのだろう。変なスイッチが入ったギソクは、「ジュンモ、全部乗るぞ」と敬語も忘れてジュンモの腕を引いていた。
結果的にジュンモは楽しめただろうが、ゲームで負けても悔しがらずに「すげー!」と感嘆のまなざしで見てくる相手では、ギソクの負けず嫌いも形無しだ。
何の達成感も得られなかったギソクは二時間後、ギジュンの何倍もの殺意をジュンモに放っていた。
「ずいぶんとお怒りだな」
「そりゃそうだろ、張り合いがないんだよ……っ」
小声で茶化せば、わりと本気の不満が返ってくる。それが面白くて笑えば、ジュンモが軽快な足取りで二人へ近づいてきた。
「なぁ、次プールで泳ご――」
「脱ぐのは禁止だ」
「ハ?」
「泳ぎたいならお前一人で泳げ」弟へのあからさまな下心を、ジュンモが言い終える前に遮断する。
ジュンモは当然ムッとした顔でギジュンを睨みつけてきた。
「んでお前が口出ししてくんだよ、ナム・ギジュン」
不服そうに絡んでくる子どもに、ギジュンはいたって冷静に対処した。
「水の中にいられると護れない。感電させられたら一発で終わりだ。しかも、ギソクだけでなくお前まで死なせてしまう。……これがヤバいってことくらいは、お前にもわかるだろ」
「!……ああ、確かに」
それはまずいと神妙にうなずいたジュンモに調子が狂う。こいつは、無駄に素直なんだよな。まあそのほうが助かるが、とギジュンはジュンモから弟に視線を移した。その顔はまだ不服そうで、ギジュンは思わず笑ってしまった。
二人はその後ボーリングで勝負することになり、ギソクの顔にも明るさが戻ってギジュンも一安心だった。
ジュンモはかなり自信があったようで、ギソクにかっこいいところを見せたかったのだろう。腕力とコントロールセンスが桁違いのギソクにこてんぱんにやれて膝から崩れ落ちていた。大変胸がすく思いがした。
「ヒョン!」
あまりの快勝に、ニカッ! とVサインまで掲げてギソクが笑ってこちらを見てくる始末だ。
果たして、あんなに無邪気に笑っている弟を見たのはいつぶりだろうか? ジュウン組を抜けることが確定しているうえに、キャンプ場での生活も目前で、残るはヨンドを葬るだけなのだ。重責もなくなって心が軽くなり、ようやく肩の力が抜けたのだと思うと、見ているこちらも嬉しくなった。
「やるな。さすが俺の弟だ」
「楽勝だな。おいジュンモ、さっきは『俺のスコアで惚れさせる』だとか息巻いてたが、お前の実力はこんなもんか?」
「~~ッ! も、もっかい! もう一ゲームだけさせてくれよ!」
「いいぞ。どうせ結果は一緒だろうが」
乗り気で楽しむギソクを眺めながらソーダを煽る。昨日はジュンモとのデートを防げなかった自分に絶望したが、弟がこんなに楽しんでいる顔を見れたのなら、やはり殴らせるよりマシだったかもしれないと思えた。
それから三ゲーム続けてやった二人は、ギソクの四勝ゼロ敗のスコアで幕を閉じた。
「クッソ……! なんでそんなに強いんですか!!」
「俺は伊達にナム・ギジュンの弟やってないってことだよ、坊や」
悔しい! と頭を抱えるジュンモをニヤニヤと眺めている姿は、まんまチュンソクをボロ敗けさせて笑っていた十二年前の弟そのものだった。
ああ、懐かしいな。そういや、今このホテルに待機していたりするのだろうか?
そう考え出したら逢いたくなり、ギジュンは歯ぎしりしているジュンモにとある提案をしてみた。
「ジュンモ」
「んだよ!」
「チュンソクは今ここにいるか?」
「あ゛? キム室長のことか? ああいるよ、ペントハウスで仕事してる」
そうか、なら……とギソクはジュンモに甘言を囁いた。
「チュンソクも呼んで四人で対決しないか、チーム組んで。弟に負けて悔しいんだろ? 俺がお前を勝たせてやるよ」
「……マジで言ってんの?」訝しげなジュンモに、ギジュンは肯定する。
「ああ。お前とチュンソクは同じくらいの腕だ。公平だと思うが」
「でもあんた……溺愛してる弟、負かせられんのか」
素朴な疑問を尋ねてくるジュンモに、ギジュンは「負けた試しがない」と即答してやった。ジュンモの口元が弧の字に上がる。
「乗った! すぐにキム室長を呼ぶ」
「何に乗った? キム室長って……まさかチュンソクか? なぁヒョン、なにどういうこと」
スコアボードを眺めていたギソクがこちらに近づいてくる。
どうせ遊ぶなら、思い切り楽しんだもん勝ちだ。
ギジュンは上着を脱いでベンチに皺がよらないようかけて、ギソクの頬をぺちりと叩いた。
「久しぶりに俺と勝負しよう、ギソク」
「は?」
「お前はチュンソクと組め。ジュンモと圧勝してやる」
ギジュンの台詞と、バタバタと走ってきたまだ何も知らないチュンソクの顔を見て、ギソクは流れを把握してニヤリと笑った。
「……ハァ、なるほどな。後で吠え面かくなよ、ヒョン」
この負けず嫌いの弟を負かしたら後が面倒だと知っていても、挑みたい勝負というものはあるものだ。
「えっ……ギソク!? 何でここに……って、あ、ギジュン兄貴まで……!」
騒がしい友人の声にギソクは兄の前から踵を返して、「ボーリングの腕鈍ってたらしばくからな」とチュンソクを脅してボールを手に取っていた。
「なぁ、何で協力してくれんの。昨日はマジギレしてたじゃねえか」
ふいに背後からかけられた声に視線を向ける。ジュンモはボールを磨きながらギジュンを見上げており、ただ真意が知りたいという好奇心だけがそこに鎮座していた。
父親との確執が消え去ればこんなにもまともな人間だったのかとギジュンはジュンモを見下ろして、問いの答えに解を渡した。
「弟のためだ」と。
「あいつが、笑ってるから。それだけだ」
「……フゥン。あんた、マジで弟のこと愛してんだな」
「……!」
心臓が跳ねた。素手で掴まれたかと思うほど驚愕し、しかし顔に出さずにジュンモを目で追う。ジュンモはもう興味ないとばかりにボールを磨き終わると、おもむろに立ち上がってレーンを指差した。
「全ストライク――そうすりゃ、ナム専務に勝てる」
かっこいいとこ、一回くらいは見せたい――最後だし。と、ある意味純粋で健気な執着を羨ましく思いながら、ギジュンは弟への複雑な愛情を見抜かれた動揺を振り払って「やってやるか」と指を鳴らした。

 

「――お前が下手だから、ヒョンに負けただろ……!」
「そ、そんなに怒ることかよ……?」
一時間勝負した結果、三勝一敗でギジュンとジュンモチームの勝利で終わった。
負けず嫌いのギソクに足を引っ張ったと責められて困り果てたチュンソクが、ギジュンに助けを求めてくる。
「あ、兄貴どうにか言ってくださいよ、俺は完全に被害者ですよね? 常務の無茶ぶりに付き合ってるだけ偉いと思いませんか?」
生きて目の前にいるかつての弟分に、ビョンホと冷たくなっていた彼の遺体を思い出す。妻子がいるにも関わらず、早死にさせてしまった友の姿が。イカれたジュンモに、殴り殺されてしまった彼の姿が。
しかし、眼前に広がっているのは、ジュンモにゲームで負けて、チュンソクに八つ当たりする最愛の弟の姿だ。
なんて、平和な未来を勝ち取ったのだろうか。そう思わずにはいれらない光景に、ギジュンはチュンソクの髪を撫で回して笑った。
「お前は偉いよ、チュンソク」
だが、チュンソクはギジュンの笑顔を見てザァッと血の気を引かせ、見るからに怯えた顔で固まった。
「……、……え゛……俺、今日……死にます?」
「…………」
せっかく優しく接してやったというのに、この態度。生意気な頭をそのまま叩いてやれば、「んなバカ力で叩かれたらハゲちまいますよ!」と泣き言を漏らした。
ギソクは、兄に理不尽な暴力を振るわれている友人を見て多少気分がよくなったのだろう。二人に近寄ってきて、チュンソクに真相を打ち明けた。
「ヒョンに泣きつくのは間違ってるぞ、チュンソク。お前を常務に呼ばせたのはヒョンだから」
「えっ!?」
「悪いな」
「えっ、何でそんなこと……もう勘弁してくださいよ兄貴~……」
俺はチャ室長の件で処理しねえといけないことが山積みなんすから……と額に手を当てたチュンソクに、こいつも苦労人だったことを思い出す。昔から変わらないなと嬉しく思い、再度「悪かった」と謝罪した。
「なぁ、ナム専務!」
ギソクの上着を持って三人の間に割り込んできたジュンモが、何やら期待に満ちた顔でギソクに視線を向ける。ジュンモの評判を誰よりも知っているチュンソクが顔を歪めはじめるなか、ジュンモは上着を差し出しながら「それ」を口に出した。
「勝負に勝ったしさ、記念に願いをひとつ、叶えてほしいんだけど」
「願い……?」
おい、そんな話聞いてないぞと瞬間的に殺気立つ。まさか夜まで延長させようってんじゃないだろうなとジュンモを睨むが、ジュンモは脳ミソが沸いているのかと疑うような願いを口にした。
「俺のこと、もう一回ひっ叩いてほしい。眼鏡かけて」
「…………」
チュンソクがオーバーに両手で頭を抱えて呻き声をあげる。ギソクは目を細めてジュンモの真意を探っていたが、小屋でのやり取りと同様、探る真意など額面通りのものしかなかった。
ギソクに、叩かれたいのだ。裏にはそれしかなかった。
変態だな。という感情と、弟ほどの美貌を前にしては当然か。という感情がせめぎあう。ギソクがどう思うかが一番大切だったが、殺されかけているのだし、思い切り叩いて腫れ上がらせてやればいいとギジュンは弟の答えを待った。
ギソクはハァ、とため息をついて、懐から眼鏡を取り出し装着した。左の中指でテンプルを押し上げて、わざとらしく冷たい視線を浮かべた。ノリノリじゃないかと笑いそうになった。
「わかりました。……特別ですよ? 常務」
「……っ」
ゴクリ。生唾を飲み込む音がジュンモの喉元から聞こえてくる。子どもにはいささか刺激が強すぎるのではないかと思うそぶりで袖口を捲り上げたギソクは、思い切りジュンモの頬を張り倒した。肉と肉が弾ける音は、思った以上に凄まじかった。
負けず嫌いのギソクだが、負けたらその責を必ず全うしようとするのもまた、ギソクのお決まりの行動パターンだった。
ジュンモはその場から吹っ飛んで鼻血すら出ていたが、口元がたわんでおり、ギジュンは一人の男の性癖が永遠に歪んでしまった瞬間を目撃してしまった気まずさに、天井をひっそり仰いだ。
チュンソクを解放したあと、遊び疲れて空腹になったということで、三人はホテル内のレストランで食事をすることになった。
用意されたかなりの量の食事を片っ端から食べていくギソクにジュンモは釘付けになっていたが、まるで凝視するのは失礼であると気づいたように自分の皿に向かった。
まあ、最初は驚くだろうとギジュンも箸を進め、ギソクが満腹になったところでジュンモはギソクとの会話を楽しみだした。
「なあ、ギソクさん。ギソクさんってゲイ?」
「……、……」
飲んでいた水を噎せかける。いったい何を訊いているんだとジュンモを凝視するが、ギソクはいたって平然と受け止めていた。
「どう見える」
「う~ん、ゲイっぽい。ボトム専門。女も抱けそうだけど、仕事で仕方ないときしかヤラなさそう」
「まあ、だいたいあってるな」
あって、いるのか。まったく知らなかった弟の性的嗜好に、なぜか冷や汗が滲んだ。
「お前は? ジュンモ」ギソクの優しい声が個室の中に広がる。ジュンモは肩を竦めて問いに答えた、
「俺? 俺はまあ女が好きだけど、あんたみてぇな綺麗なひと相手なら男も抱いたりする。プライドとか、弱み握られるリスクとかが邪魔しなきゃ、抱かれるのもキモチよさそ~とは思うけど」
「フッ……時期ボンサン組の会長だからな、さすがにそこは気を使うか」
「やっぱ怖ぇよな。セックスは好きだけど、弱み握られるリスクがデカすぎる」
「それを言ったら、俺を殺すリスクのほうがデカかったと思うけどな」
「う゛っ……それは、反省してます……」
殊勝に額をテーブルに叩きつけたジュンモにギソクは笑った。笑って許し、幼い青年にアドバイスを授けてやった。
「まあ、信頼できる人間を見つけることだ。自分のために命すら投げられるような相手なら、秘密を漏らしたりはしない」
「ん~……あんたにとっての右腕みてえな奴? 俺にはカリスマ性が欠けてんなぁ」
ジュンモの己を卑下する台詞にクスクスと笑うギソクの声は、自宅にいるときのものに限りなく近い、穏やかさが乗ったものだった。半日過ごしたことで、ずいぶんとジュンモに気を許したようだった。
「…………」
なんとなく、面白くなかった。酒も入っているからか、ギソクは柔和な笑みをジュンモに向け続けていた。
目の前にいるのが、自分に下心を抱いている男であることを忘れているようにさえ見えた。
「男に抱かれんのってキモチィ?」
これは、食事を終えたばかりでする話なのだろうか。あまりに明け透けな質問に止めるべきかと考えたが、肝心のギソクが快く答えるのでギジュンは止めきれずにいた。ギソクはこの手の会話をする機会がなかなかないからか、むしろ話したがっているようにさえ見える。止められるはずがなかった。
「う~ん。準備は大変だけどな、まぁ相手のと相性しだいでは女を抱くより気持ちいいぞ」
「そうなんだ」
ギソクの言葉に、ジュンモは真剣に相づちを打っていた。ジュンモは人間のクズだったが、差別意識は持ち合わせていないようだ。当事者だからかもしれないが、これくらい軽い返事だと打ち明けるほうも喋りやすいのかもしれない。
兄として、ふと、それはギジュンが尋ねるべきだったのかもしれないと思った。幾度も繰り返された会話の中で、汲み取って気づくべきことだったのかもしれないと、嫌な考えが脳裏に上がってくる。
――でも、どのツラを下げて?
酒に酩酊した弟を犯しておいて、「お前はもともと男に抱かれるのが好きなんだから問題ないだろ?」とでも言うつもりか?
あり得ない。訊けるはずがなかった。そんな無責任なことが許されるはずがないと思考を淀ませる。
ひとりグラスの中で揺らめく液体から視線が外せなくなっているギジュンをよそに、ジュンモは、一線を越える質問を口にした。
「じゃあさ、ギソクさん。初体験は? 男との」
「初体験……?」
「……、……」
神妙に顔を伏せたギソクに、脳内で警報が鳴り響いた。
ギソクは幼い頃から、何度も何度も性的暴行の被害にあっている。完遂されたことは一度だってなかったが、その加害者たちのなかには実の父親もいる。事故死したと伝えている弟にとって、その記憶に抵触するのは何よりも避けなければならないことだった。
初体験が口での性交渉も含まれるのであれば、ギソクは七歳より前に失っていることになる。そんなおぞましい記憶を、甦らさせるわけにはいかなかった。――なんて、それが全部建前で、ほかに不安を覚えている事柄が俺の焦燥を煽っていることはわかっていた。
――いや、ちがう、「あれ」が初めてなはずがない、
ふと、視線をバカラのグラスから上げる。
弟がいるほうに、ギソクがいるほうに首を回し、その横顔を直視する。
だが、ギソクはもうジュンモを見てはいなかった。
――ギソクは、どこか熱を孕んだ双眸で、じっとこちらを見つめていた。
「――……ッ」
ドッと脈が速まり、視界が歪んでいく。まるで、世界に自分とギソクしか存在していないような錯覚に陥り、動悸が乱れ、正気を失ってしまいそうになる。
「なぁ、ナム専務。初体験は?……聞いてる?」
ジュンモの声がエラーを起こしている脳天をぐらりと揺らす。
ギソクはジュンモの催促を受け、兄から目を逸らさないまま、「何か」を口にだそうとした。
「ヒョン、俺は――」

やめろ。

「え゛っ、おい!?」
「――ッ……ヒョン……!」
――気づけば俺は、弟の手首を掴んでそこから飛び出していた。
背後から二人の批難する声が聞こえてきたが、何ひとつ耳には届かなかった。

Chapter 8: 【マンション】

Summary:

ギソクを強引にマンションへと連れ帰ったギジュン。
弟に理由を問いただされるなか、答えられるわけもないと口を閉ざす。
しかし、ギソクの想いを聞かされ、後がなくなったギジュンは逃げ続けてきた現実を前に選択を迫られることになる。

Chapter Text

「い……ったいってヒョン!」
弟の怒声に、ようやく意識が覚醒した。
ジュンモとの食後の会話中にギソクを連れて走り出したギジュンは、無意識にその脚でギソクのマンションへと帰ってきていた。その右手に、弟の手首を強く握り込んだまま。
リビングでギソクの手を握ったまま立ち尽くす自分に気づいたギジュンは、おもむろにギソクへ視線を向ける。ギソクの顔に苦痛と汗が滲んでいるのを見て、ギジュンはハッと手のひらから力を抜いた。どれほど強く握り込んでいたのかは、解放したと同時に呻き声をあげたギソクの反応と、その右手首に赤くうっ血する痕が教えてくれていた。
肩で息をしている弟を見て、ギジュンは疑問を抱く。
――俺は、ディクロホテルからここまで、いったいどうやって帰ってきたのだろうか。
徒歩圏内でもない距離だ。記憶が朧気であることは笑える話でもなかった。しかし、必死にこちらを呼ぶ弟の声を無視し、車に押し込んで急発進させたことだけは、なんとなく記憶に残っていた。
視界に映るギソクはかなり息を切らしていて、自分がかなりの早足で弟を引っ張ってきたことがわかる。
「なぁ、ヒョン、急に、どうしたんだよ……っ」
痛むのだろう手首を擦り、ギソクは息を整えながらこちらを見上げている。
ギジュンはまとまらない思考をなんとか整理してみようとするが、走り出す前に感じた強い拒絶の感情しか思い出せなかった。
「……すまない」
とりあえず謝罪してみたが、しっくりくるはずもない。感情が込められていないことはギソクにも伝わったのだろう。走って乱れたのだろう前髪を嘆息とともに掻き上げて、呆然と立ち尽くしている兄に背を向け、キッチンに歩いていった。
冷蔵庫から水が入ったピッチャーを取り出し、食器棚から持ってきたグラスに注いで一気に煽る。よほど喉が渇いていたのだろう。ギソクは三杯分を飲み干してようやくギジュンに視線を向けた。ギソクにはアルコールも入ってたのだ、強制的に走らせるのはどう考えても間違いだった。
「あのさ。そんな形式的に謝られても困るよ、ヒョン」
申し訳なさを感じていたところに囁かれるギソクの鋭い声。息は整ったようだったが、纏う雰囲気は疑惑と不信感に満ちているように感じられた。
「せっかくジュンモと後腐れなく縁を切れそうだったのに……。あんな去り方したら、次に何要求されるかわからないだろ」
何でこんなことした? そう尋ねてくる弟に、ギジュンは口を引き結んだ。
自分でもよくわかっていなかった。ただ……弟が「あの出来事」に言及してしまうのが怖いと思ったのは、事実だった。
――そう、六年前のあの日の夜に、起こったすべてに、ギソクに名前をつけられてしまうことが恐ろしかった。
そしてこれを、錯乱の理由にしてしまうことが、何よりも怖かった。
――ギソクは、忘れているはずなのだから。
あの夜を、思い出させるようなことがあってはないけない。
そこまで考えて、自分のあまりの醜さに絶望する。幼い日々のトラウマよりも、兄に暴行された事実を思い出されるほうが、何倍も嫌だと感じてしまっている自分を自覚してしまった。
先ほど兄に何かを伝えようとしていたギソクの言葉を、その内容もわからないのに聞きたくないと連れ去ったのは、あの夜の自分の罪と向き合いたくなかったからだ。
結局俺は、すべて保身のためにやったのだ――などと、ギソクに言えるはずもなかった。
「なぁ……理由があるだろ、ヒョン。ずっと傍観者に徹してたのに、突然あの場から俺を攫いたくなった理由が」
落ち着きを取り戻し、要領を得ない兄からギソクは解を引き出そうと下手に出てくれていた。視線が無意識に弟の右手首に移動する。折れそうなほどのアザが手首についている。きっとかなり痛かったろうに、それをつけた理由さえまともに口にだせないギジュンにすら、ギソクはこうして優しさを見せてくれている。己の不甲斐なさにどうにかなりそうだった。
「ヒョン……お願いだから、ひとりで抱えないでよ。ふたりで生きていくんだろ?」
「……ギソク」
そう気遣うように伸びてきた弟のアザの目立つ腕。くっきりと手形にうっ血しだしているそれを見て、ギジュンは自分の中で罪悪感が限界を超えたのを感じた。
自分で打ち明けられないのなら、ギソクの手を借りるしかない。
ギジュンはギソクが考えていた方法とは違う形で弟に協力を仰いだ。――それが、最低の選択である自覚は持ったまま。
ギソクの問いに答えない代わりに、ギジュンは逃げ出したものと向き合うために顔を上げた。
「お前が……ジュンモに答えるのを聞きたくなかったんだ。お前はさっき、俺に何か言おうとしていたろ。……何を言いかけた?」
「……、……は」
質問に答えることなく問い返したギジュンの言葉に、途端にギソクの顔が歪んだ。瞳を収縮させ、ひどく傷ついた顔をして、渇いた嗤いをこぼれさせる。
「聞きたくなくてずっと逃げてきたのに、“それ”まで、俺に言わせるの……? 『あの夜』のことを……俺に?」
「……!」
責めるような視線と、確定的な言葉に身が竦んだ。同時に、もう逃げられないだろう現実に直面し、全身の血の気が引いていく。
「……ッ」
――ギソクは、ギソクは覚えているのだ……あの夜のことを。
酒に溺れて思考もまともに働かない弟を暴いた、卑劣で劣悪な兄のことを。
いつから――? なんてまっさきに案じたことが、結局は自分のことであった事実にまた絶望する。絶望したいのはギソクのほうに決まっている。弟を手篭めにしておいて、何の責任も取らずにのうのうと生きてきた血の繋がった兄が、相変わらずの無責任さで目の前に立っているのだから。
どんな暴言を吐かれるのだろう。弟に拒絶されて生きていけるほど強くない自負があったギジュンは、ギソクの顔もまともに見られなかった。
――なにせ、六年だ。六年。俺は六年間も、自分の行いから逃げ続けてきた。
最悪なのが、前回の人生での俺が、その罪を清算することもなく弟を死なせたことだ。すべてを覚えていて兄と暮らそうとしてくれていたのなら、「ここで働こうかな」と口に出した彼に返したあの無関心は、あまりにも惨い選択だった。
足元を凝視し、受けてしかるべき罵りをじっと待つ。
だが、ギソクは激昂することなく、どこか失望したような声で、予想外の諦念をフローリングへと吐き捨てた。
「ヒョンはさ……ホントに、意気地がないよな」
「……?」
意味を理解できず、おもむろに顔を上げる。六年前のことを責め立てられると踏んでいたギジュンにとって、第一声な放たれたそれは脳内で繋がらなかった。
ギソクは深く息を吐いて、眼鏡をテーブルに置いた。石造りのそれが金属のフレームと擦れ、軽い音を立てる。殴るつもりなのかもしれない。
いや、そのほうが話も早いとギジュンは朧気に弟の指先を見つめた。
だが、ギソクはギジュンに拳を振り上げたりはしなかった。
「ヒョンはさ……俺のこと、どう想ってるの」代わりに、唐突に問われたそれ。
「……どうって」
意味を図りかねて尋ねるが、ギソクは答えず、続けてギジュンに問いかけた。
「この眼鏡もさ、昔からかけておけって執拗に言ってくるけど、それは弟に対する庇護欲からか? それともほかに、何か俺に対して思うところがあるからなのか?」
「?……ギソク……悪い、その……言っている意味が」
問われたことに答えたかったが、上がる話題が突拍子もなく、うまく答えることができない。庇護欲以外にギソクに対して抱いているものなど、上げだしたらキリがない。
すべて羅列し口に出すべきなのか? 迷っている間に、ギソクは何でもないことのように――ギジュンの思考を停止させた。
「ヒョンはどうか知らないけど、俺はヒョンに恋してる」
透き通るような視線が、まっすぐにこちらを見つめていた。
ドッと、心臓が激しい音を立てて軋む。「……なに」と喉からこぼれ落ちた声は、惨めにも微かに震えていた。
ギソクはギジュンの動揺も気にせず、「だから」と兄から視線を逸らすことなく続けた。
「俺は、弟としてだけでなく男として、性的な意味を含めて、ナム・ギジュンのことを愛してる」
「……、……」
なにを言って、と続けようとした声は、喉の奥で掠れて消えた。
ギソクの目は真剣で強い意思を宿して燃えており、とてもジョークの一環で言っているわけではないことは伝わってくる。
だが、とても簡単に処理できる内容ではなかった。
恋? 俺に、ギソクが? いや、そんなわけがない。俺たちは血の繋がった実の兄弟で、家族で、そこに愛はあれど、恋情の挟まる余地などないはずだ。
――本当に?
「……ッ」
ダメだ。目の前にいるのは、命を懸けて護らなければならない実の弟だ。ギソクがどう思っていようと、俺だけは“それ”に気づくべきではないと脳内の声を振り払う。
だが、一歩、また一歩と距離を詰めてくる弟の前では至難の技だった。
「ちょっと……ちょっと待てギソク」精いっぱい振り絞りだした制止の声を、ギソクは聞かなかった。
「なぁ、ヒョン。俺が今日、何のためにあのクソガキとデートしてたかわかるか? 何で昨日、小屋の中で、ヒョンに怒ってたかわかる?」
その問いに脳裏をよぎったのは、もちろん昨夜の弟の顔だ。悲しげで、ひどく感情的そうに見え、ギジュンの心にひっかかりを作った苦しそうな笑顔。
あのとき、弟と交わしていた会話は何だった?
弟はいったい「なに」に対して、あんなにも不機嫌になっていた?
記憶にあったのは、『何でそんなこと訊くんだ』とこちらを横目に見ていたギソクの姿。それから、兄の返答を聞いて、諦念を滲ませていたあの顔――。
「俺はね、ギジュン」
兄の名を呼ぶギソクの声が全身を痺れさせる。逃げることさえ許されないような強い声色に、ギジュンは弟から目を離すことさえできなかった。
「止めてほしかったんだよ、『俺以外に笑いかけるな』って。言ってほしかったんだよ、ずっと……ずっと。――『お前のことが好きだから』って」
「……ギソ、」
「なぁ、ヒョン。ヒョンがなかなか酒に酔えない体質なのに、弟の俺が、酩酊して記憶を失くすことなんて……本当にあり得るとおも――」
「やめろ!」
気づけば、声を荒らげギソクの声を遮っていた。自分の息が乱れているのがわかり、動揺と恐怖が全身を覆っていくのが理解できた。
珍しく感情を露にした兄を、ギソクはじっと静かに眺めていた。
ギジュンは受け止めきれない情報に弟から後退る。
――いや、そんなわけがない。弟は確かに、あの日の朝、飲みすぎたと口にして一言も夜の出来事に触れなかった。
なのに覚えていたとしたら、この六年間はいったいなんだったというのだ。
「じゃあ……じゃあ、何で、忘れたフリなんてした……」
振り絞りだした問いに、ギソクはギジュンから視線を外し、ビル郡が展望できる窓際に歩いていった。その背を追うギジュンの耳に、自身に対する嘲笑を含んだような声で真実が語られた。
それは、ギジュンがまったく予期していない話だった。
「泣いてたから。ヒョンが。夜中に、『すまない、すまない』って、俺を抱いたこと悔いて……すごく苦しそうに泣いてたから……おれ、」
ギソクは唇を噛みしめて、ガラスに額をつけた。いっそ泣きそうな横顔を晒して、「それ」をギジュンに明かした。
「ああ、俺は酔ったフリしてまでヒョンとヤりたかったのに、ヒョンは違ったんだって。俺はただ、酒を理由にヒョンをレイプしただけなんだ――って……死にたくなるくらい、絶望したんだ」
「――……、は……」
背筋が粟立ち、動悸が乱れる。ギソクの横顔は悲痛に満ちていて、それが真実であることをギジュンに証明していた。
確かに、あの夜。ギジュンは行為後に寝落ちた――と思っていた――弟から自分のモノを引き抜いたあと、くたびれた寝具の上で裸体を火照らせている弟の姿を見て、己の過ちと罪に耐えきれず、頭を抱えて泣いていた。
父親と同じような怪物になってしまったと、実の弟を性的に見て、さらには手まで出してしまった自分が、どうしても許せなかったからだ。――それから六年間も、弟が死ぬまで、連絡もできずギソクの家に寄りつけなかったほどに。
だが、決して、弟とひとつになれたことに喜びを感じなかったわけではない。むしろ、生まれて初めて味わう多幸感に、このまま弟と繋がったまま死ねたならと、ほの暗い考えが脳裏を過るほどだ。
――それが、弟を避ける理由そのものだった。
ギジュンは弟に近寄り、自分と同じように重苦しい罪悪感を背負い続けてきたその横顔に手を伸ばした。ゆるりとギソクの視線がこちらに向けられる。いつ見ても美しい弟の顔が、ギジュンだけを見つめていた。
「レイプしたのはお前じゃない、俺だギソク」
誤った罪悪感を払ってやろうと囁くギジュンに、ギソクは首を横に振った。
「……違うよ、ヒョン。さっき言ったろ、『酔ったフリまでしてヤりたかった』って」
ギソクは兄の手のひらに頬を寄せて言う。「あの日、告られたんだ。ヘボムに」
「ヘボムのこと、大切だったし確かに好きだった。でも、イエスにしろノーにしろ、返事をする前に片をつけないと前に進めないことが……俺にはあった」
ヒョンへの恋心だ。ギソクはそう言いきり、続けた。
「だから、俺はあの夜、大量の酒と嘘の失敗談を持ってキャンプ場に行ったんだ。ヒョンが俺と同じ気持ちなら、もう会社も何もかも捨てて、あそこで働こうと思ってた」
「…………」
ああ、でも、そうはならなかった。
自分が弟に抱いているものが、ギソクと同じ恋心ほど純粋なものだと言えるかわからない。だが、それ以上の特別な感情を持って生きてきたことは確かで、少なくとも、ギソクと同様『ヤりたかった』気持ちを抑えられなくなったのは事実だった。
六年越し――いや、ギジュンにとっては二度と還らない弟の死後に明かされたその告白に視界が暗くなる。すれ違っていなければ、弟は死なず、平穏を手にできていたのだと知らされて。
ギソクは顔を暗くした兄に、困ったような笑みを浮かべた。
「そんな顔しないでよ、ヒョン……。べつにさ、あれはあれでよかったんだ。ヒョンはあの夜の以降明らかに俺を避けはじめたから、俺も踏ん切りついてさ。ヘボムと関係を始めて、ちゃんと六年間、幸せだったから」
ヘボム。彼はギジュンがこの世でただひとり、弟を任せてもいいと思える男だ。
ふと、昨日の食堂で交わした彼の意味深な言葉と、視線を思い出す。
「……あいつは、気づいてたんじゃないのか」
俺と、お前のことに。ギソクは肯定も否定もしなかった。ただ、「ヘボムは、すごく優しい男だから」とだけ告げて笑っていた。
その笑顔が本当に幸せそうで、ギジュンは拭えない違和感を覚えてしまう。根底にある疑問だった。
「ギソク……じゃあ何で、昨日、俺に逢いに来た?」
そう。六年間音沙汰なかった兄に、どうしてあの日逢いに来てくれたのかという疑問であった。
「…………」
ギソクはゆっくりとまばたきし、泣きそうな笑顔で兄に告げた。
「だって、ヒョンのこと、大好きだから」――と。
「ヒョンが俺と同じ気持ちでなくていい、二度と触れてもらえなくてもかまわない。でも、それでもいいと思えるくらい、ヒョンのことが大好きだった……これ以上離れていたくなかった。一緒に、生きたかったんだ、ギジュン――あなたと」
「……っ」
ギソクの頬を伝った涙は、頬に添えていたギジュンの手のひらに吸い込まれて消えた。じわりの濡れた指先の感触が、ギジュンの涙腺までゆるめていくようだった。
だが、ギソクはそこでギジュンの手首を手に取り、強い瞳で兄をとらえ、「でも」と温度を変えて言葉を続けた。
「ヒョンは……この二日間、明らかに俺を意識して過ごしてた。俺はもう吹っ切ろうと思ってたのに、ヒョンは何度も俺に欲を孕んだ目を向けてきた。俺はね、ヒョン。この十一年で、男が自分に向ける劣情に対してかなり敏感になったんだ。……だから、わかるんだよ。キャンプ場で俺に抱きついてきたあの時から、ヒョンがずっと、自分の本心から目を背けていることが」
「……なん」
展開に追いつけずに硬直するギジュンを、ギソクはもう逃がしはしなかった。
「ああ、ヒョンは気づいてないだけなんだって俺嬉しくなってさ、ここ二日、頑張ってたんだよ。何度も何度もチャンスやって、自覚するよう促して、風呂に誘ったり、わざと半裸で出てったり、二回もベッドに誘ってさ……。でも、いっさい触れてこようともしないで、昨日、ようやくキスまでこぎつけて、ああこれでもう告白してくれるかも――って一日期待してたのに……最初にしたことが、俺にそのすべてを言わせること?」
ハッと鼻で嗤って、ギソクは兄の腕を強く引いた。胸ぐらを掴み、下から見上げて挑発するように告げる。
「――いくじなし」
「ッ……」
動揺している間に脚を払われた。バランスを取ろうと動く前に背後のソファーに倒される。革張りのそれでは成人男性ふたりの体重をうまく受け止めきれず、大理石のタイルと脚が擦れる悲鳴が室内に反芻した。
ギジュンは覆い被さってきた弟を見上げ、その肩を押しながら制止の言葉を口にする。
「ギソク……、やめろ」
「なんで? ヒョンの代わりに全部話してやったんだから、やめる理由もないだろ」
「……っ」
聞く耳を持たずにシャツのボタンを外そうとするギソクの言い分に、ギジュンはどうしても消し去れない恐怖が脳裏に過り、罪悪感が全身を支配していくのがわかった。
――実の息子を、性欲の処理に使っていた、あの怪物の姿が。
奴と同じように、庇護すべき家族に性欲を向けた自分のことが、記憶に焼きついて離れなかった。
気づけば「理由ならある」となかば叫ぶように告げ、抱え続けていたものを弟へ吐露してしまっていた。
「俺は……! お前に二度と触れないと誓った……! 俺は……おれは、親父みたいな怪物に、なりたくないんだ……頼む、たのむギソク……俺を、焚きつけないでくれ……俺にお前を、傷つけさせないでくれ……」
「ッ……ヒョン」
ギソクの動きが止まる。自分が何を言ってしまったのかは、二秒後に気づいて血の気が引いた。
――しまった……今、俺はなんて、
父親のことを思い出させることが、弟にとってどれほどの傷になるのか。それは自分が一番わかっていたはずなのに、己の弱さゆえに明かしてしまった事実に絶望する。
「ギソク……」すぐに弟の顔を見上げたが、ギソクは、沈痛な面持ちで兄を見下ろしていた。
「……ギソク?」
「ずっと、そんな風に、思ってたのか……?」
「え……」
ギソクは力なく両腕を下ろし、ギジュンの胸に両手を添えて涙を浮かべて告げた。
「ヒョンが……ヒョンがあんなゲス野郎と一緒なわけないだろ……! ヒョンは違う、ちがうよだって」
ひきつけを起こしたように肩を震わせはじめた弟に、ギジュンは素早く上体を起こしてその身を抱き締めた。「悪かった……ッ、悪かったギソク」落ち着かせるようにその背中を撫ぜるが、震えは悪化する一方だった。
ああ、クソ、チクショウ、俺はいったい何をやっているんだと自己嫌悪で死にたくなりながら、弟のトラウマがこれ以上彼を蝕んでしまわないよう、ギジュンはギソクを優しく抱き締める。
けど、至近距離にあるギソクが口にしたのは、亡き怪物への恐怖ではなかった。
「違う……だって、ヒョンは、ギジュンは、母さんにそっくりじゃないか」
「――……なに」
弟の顔を覗きこみ、ギジュンはハッとした。美しかった母に誰よりも似ている弟が、兄に母の面影を重ねて瞳を潤ませていたから。
「ヒョンは、優しかった母さんによく似てる……ずっと昔からそうだ。父さんがしたこと、人づてにしか聞いたことないけど……それでも俺は、一度だってヒョンが父さんに似ているなんて思ったことはない。俺たちが……あの怪物から受け継いだものがあるとするなら、それは、この体格と、性別だけだ」
ほかに父親から遺伝したものなんて、俺たちには何ひとつない――そう強く言いきった弟の言葉に涙があふれでる。
「……っ、……」
誰かにずっと、言ってほしかったのだ。「お前は父親とは違う」と。
成長するたびに父親に似ていく己の粗暴さや外見がおぞましかった。いつか弟を傷つけてしまうのではないかと気が気じゃなかった。
それで六年前、実際に一線を越えてしまってからはもう、弟に二度と会わない選択をし、記憶から消し去ることでしか正気を保っていられなかった。
――自分は、あの怪物の血を、色濃く引いているとそう思っていたから。
「ヒョン」弟が、淀む意識から兄を引き上げるよう呼び掛けた。兄の涙を拭ってこちらを見つめ、もう一度、言ってくれた。
「ナム・ギジュンは、父親とは違う」
「ギ、ソク……」
「だから、証明するためにも、一度でいいから自分の想いに素直になってよ」
本能に従って、欲望のままに俺を求めてよ。
そう囁いてギジュンの胸に額をつけたギソクのそれは、まるで祈りのようだった。
ギジュンは弟の綺麗なつむじを見つめた。ギジュンは自身の本能が、ずっと前から弟を求めていることを知っていた。
それこそ二日前、キャンプ場で押し倒した弟と目が合ったとき、キスをしたいと思ってしまったように。
昨日の昼、添い寝を希望してきた弟に、場違いな劣情を抱いてしまったように。
昨夜、風呂上がりの弟の裸体を見て欲情してしまったように。耐えきれず、唇を重ねてしまったように。
そして今日、ジュンモを相手に何度も嫉妬してしまったように。
ギジュンには、ギソクの要望をはねのける理由も根拠も何ひとつありはしなかった。
それでも、弟の身体をすぐに抱き締められないのは、ギソクの復讐に手を貸し最後まで忠誠を誓ってくれていた心優しい青年の顔が、目の前にちらつくからだった。
顔を上げた弟が、ギジュンの唇に己のものを重ねようと動いたのがわかった。咄嗟に上体を引き、弟の肩を掴んで止める。
「ヘボムは」
「え?」
「お前の気持ちも、俺に望むこともわかった。……でも、お前には、ヘボムがいるだろ……」
幸福な六年だったと言うほどだ。現状彼は恋人なのではないかと、これは彼に対する裏切りなのではないかとギジュンにしては珍しい弱音を漏らす。
ギソクはこの期に及んでまだ逃げ腰になっている兄を見ても、呆れることはなかった。
ただ、自身たっぷりの笑顔を浮かべて、兄の不安ごとすべてを肯定した。
「だから?」と。
「『だから?』って……」訝しげに顔を歪めたギジュンに、ギソクはそれを投下する。
「どっちも手に入れるよ、俺は」
「……ハ」
「ヒョンは知ってるだろ、俺はヒョンが甘やかして育てたおかげで欲張りなんだ。ヘボムも欲しいし、ヒョンも欲しい。ふたりとも愛してるのに、どっちか選ばないといけないなんてバカげてる」
「……ッ、ギソク」
「ね、もういい加減覚悟決めて。ヒョン」
ギソクの唇が吐息のかかる距離に迫り、きらめく琥珀の満月が視界を覆う。弟に押された上体は、黒い革の背もたれに張りついてとても動けそうになかった。
「俺からは、逃げられないって自覚して」そう煽ってきた唇に噛みつくのに、もう躊躇や迷いは必要なかった。
ギソクの身体を押し返し、ソファーに押し倒して咥内に舌を捩じ込む。マウントを取っていたかったのだろう、あわく抵抗の意を見せこちらの胸を押し返してくるギソクの右手を有無も言わせずソファーへと縫いつける。
だが、それを嫌がらないことも知っていた。――ギソクは前回抱いたときも、兄に支配されることを強く望んでいたからだ。
案の定、弱くソファーに縫いつけられた手を振りほどくこともなく、ギソクはキスを享受していた。それを了解と取り、ギジュンはいっそう深く口づける。想いあってする弟とのキスは熱く、身体中の血を沸騰させるようだった。
ギジュンはソファーに身体を預けて無抵抗になっているギソクに、貪るようなキスをおくった。ヒートアップしたそれに一瞬だけ反応に遅れたギソクだったが、すぐにキスをし返してきた。
少し空いた唇の隙間から舌を割り込ませて咥内に侵入すると、ギソクはそれに応えるばかりかギジュンを凌駕しようと強引に舌を押し返してきた。キスだけでも主導権を握りたいのだろう。必死で舌を絡ませくるが、ギジュンが持てるかぎりのテクニックを駆使して激しく唇を貪ってやると、想像以上だったのかギソクは腰が砕けそうになっていた。
「ふ……ン、まって……っ、ヒョン……」
「そんな蕩けた顔されて、待てる奴がいるはずないだろ」
白い肌をほんのり赤く上気させて上目で見上げてくるギソクの破壊力は、想像を絶するものだ。普段の冷徹な空気からは想像のできない色気の溢れでるその顔に、ギジュンの興奮も募っていく。セックスなんかよりよっぽど快感を得られるキスをしたのは、これが生まれて初めてだった。
そこらの女にするキスとはまったく比べ物にならない実の弟とのキスに、興奮で頭が爆発しそうだった。
弟の腕を引いて起こしたギジュンは、そのまま軽々とギソクの身体を横抱きにして立ち上がった。ギソクは惚けたまま兄の横顔を見つめている。
「寝室に行くぞ」
「え……ここでしないの?」
「まさか。ちゃんとお前を抱けるんだ。ベッドで愛し合いたい」
「……ッ」
ヒョン、そんなこと言えるんだ……。そう言って顔を赤らめた愛らしい弟の頬にキスをする。
ギジュンはギソクを横抱きにしたまま、その脚で寝室に足を向けた。ギソクは自分で歩けると口にしていたが、抵抗してくることはなかった。代わりにギソクの腕はそのままそっと、ギジュンの太い首へと回された。

 

 

ギソクの身体をベッドへ下ろしたあと、ギジュンはジャケットとシャツを性急な手つきで脱ぎ捨てた。
その視界では、ギソクが慣れた手つきでネクタイを抜き取り、ボタンを外していた。スルリと大理石へ落ちたシャツとタイに目を奪われかけるが、視界に広がった艶やかな肌がギジュンの視線を縫いとめる。弟の裸体など幼い頃から何度も見てきたはずなのに、それはまるで餓死間際に差し出された食事かと思うほどギジュンの欲を刺激した。
ごくり。今にも犯してしまわんとする本能を生唾を飲み込み抑えこむギジュンに、ギソクはベルトを外しながら問いかけた。
「なあ……ヒョンって経験人数多いのか? 恋人とかいたことある?」
ギソクの台詞に微かに脈が速まる。恥じることでもなのだろうが、弟にまっすぐ見つめられ訊かれるとどうにも視線を泳がせずにはいられない。
少し躊躇ったあとに「多くもないし、いたことはない」と端的に返したギジュンに、ギソクは目を丸くする。
「え、ホントに? 性欲すごそうだけど」
疑いの目、というより純粋な疑問をたずさえて尋ねてくる弟に、ギジュンはありのままを打ち明ける。
「性欲は確かに……人一倍ある。ずっとお前と暮らしてたからとくに。三十前半くらいまでは手頃な女とヤッてた。でも、ここ十年は特定の相手じゃなきゃイケなかったから……ずっと自分で処理してた」
「……それってまさか」
「……そうだ」
お前だ、ギソク。
ギソクが何かを紡ぐ前に、ギジュンは言いきった。妄想の弟で抜くなんてついさっきまでは罪悪感でしかなかったが、弟と両想いであったと知ったギジュンはこれまでのすべてを恥じるのはやめた。――この瞬間をお膳立てしてくれたギソクに、失礼だと思うからだ。
これまで恋愛をしたことはなく、女を抱いていたのも弟への劣情に支配されないためにだった。ギソクと離れてからは理性を破壊しようとする性欲も消えたため、事務的に処理をしていた。いつまで経っても独り身のギジュンを見かね、隣人が何度か「嫁さんをもらえ」と言ってきたが、今までも弟以外に心を許せたことがなかったギジュンには世間の理想の家庭像にはとても当てはまらなかった。
孤独に死んでいくだけなのだとしても、ギソク以外の相手に心を許すつもりはいっさいなかった。この命が終わるその日まで誰かと体温をわけあう日が二度と来なくとも、ギジュンには微塵の悔いもなかったのだ。
――ずっと、弟だけを愛してきたから。
「これまでも、これからも、俺にはずっとお前だけだ」
ギソクに向けてまっすぐに告げる。弟の手を借りねば口に出すこともできなかった自分に辟易しながら、ギジュンはギソクの反応を目に焼きつけていた。
ギソクは、ギジュンの言葉に恍惚そうに瞳を揺らした。
それから、一度だけゆったりまばたきし、「じゃあ、俺たちはふたりとも、初恋の相手と添い遂げられるんだな」とくったくなく笑った。
「……っ」
その言葉の重みに、ギジュンの視界がぐらついた。なぜ弟とこんな状況になっているかを思いだすと、どれほどの奇跡の上にいるかを重い知らされるからだ。――弟を、独りで死なせた過去を。
思考がよそに向かいそうになったギジュンだったが、そんな兄をギソクは見逃さなかった。自分のもとに引き戻すように流れるような動作でギジュンの腕を引き、この二日間ふたりで眠ったベッドへ兄の身体を押し倒した。股の間に膝をつき、そのままバックルへと手を伸ばす。
「ギソク……」
「いいから」
弟が何をしようとしているかわかったからこそ、ギジュンは背徳感から抵抗を漏らした。
だが、ギソクは手際よくそこをくつろげさせ、すでにテントを張っていた布越しに兄のペニスに触れる。下着を下ろした途端に飛び出てきた雄くさい特大サイズのそれに一瞬硬直したギソクだったが、すぐにうっとりした様子で微笑んで、迷いもなく咥内に迎え入れた。
「ギソク……!」
「ひょんは、らくにひてて」
俺に任せて――。ギソクはそれだけ言うと、巧みな舌技でギジュンに奉仕しだした。ここ六年間、自分の右手の感触しか知らなかったギジュンにとって、それはあまりに過剰な快楽だった。高級だろうシルクのシーツに爪を立て、奥歯を噛み締めて意識をよそに逃がす。
――そうでもしていないと、情けないがすぐに果ててしまいそうだった。
それを見透かしてか、ギソクは「おっきいね」と目元に笑みを浮かべながら、真っ赤に熟れた舌の腹でべろりとペニスを撫でて兄を見上げる。
「~~ッ……」
計算され尽くされたそれに、カッとギジュンの下半身が重くなった。咥内を圧迫したそれにフフ、と笑って、ギソクは竿を下からじゅろっと舌を使って丹念に舐め上げる。女よりも圧倒的に美しいマスクに浮かぶにはあまりにも倒錯的な淫靡さで、ギジュンにはもう耐えきれなかった。
「~~ッ、くっ……あ、ギソク」
「……ん……っ」
どぴゅっびゅびゅ……! とギソクの咥内に吐き出された大量の白濁。ハ、は、と達したあとの脱力感にギジュンが苛まれていると、ギソクはギジュンの劣情をさらに煽るよう、咥内を支配するギジュンの子種をベ、と兄に見せつけた。
「すごい……ヒョン、濃いの、いっぱいだな……♡」
「……ギソク……!」
そんなもの吐きだせ! ギジュンがそう叫んだのもつかの間、ギソクはむぐ、と唇を閉じ、そのまま精液をごくりと嚥下してしまった。
「ヒョンの、おいしい」
「――……!」
それ見た瞬間……淫靡に笑う弟を見た瞬間、ギジュンは自身の脳の奥で何かのスイッチが切れた音を聴いた。
ああ、こんなこと、実の弟にさせていいことじゃない――そう背徳感がゾワリと背筋を撫ぜたが、同時に湧いたものは、雄として目の前の相手を屈服させ孕ませたい――という実にシンプルな繁殖本能だった。
ギソクの計算通り理性を飛ばしたギジュンは、股ぐらに身体を落としていた弟を軽々と抱え上げ、ベッドの中心へと放り投げた。
いつも優しい兄に乱雑に扱われたことに歓喜の色を見せたギソクが、「きて」と舌足らずに兄を強請る。我慢できないとばかりに己のズボンを脚で蹴って脱ぎ去り、ギジュンはあらわになった弟のペニスに直接触れた。
兄のものをしゃぶりながら感じていたのか、しっかりと濡れていた下着の中から取り出されたそれ。どこまでエロいんだ俺の弟はと興奮するとともに、いったい今まで何人の男にこうして奉仕してきたのかと、何人の男にこの身体を暴かせたのかと、破壊的なまでの独占欲が顔をだし憎悪となって全身を支配する。
怒りのままにギソクの雄を武骨な手のひらで覆い、自身を慰めるときよりも乱暴に快楽を押しつける。
ずちゅ、ぐちゅ、じゅちゅ。やらしいにもほどがある水音を響かせながら、硬くなっていくギソクの雄。いっそ俺も咥えてやろう、とギジュンは思ったが、ギソクは愛撫もそこそこに「もう挿入れられるよ」と先を促してきて。
いくら男とのセックスの経験が少ないギジュンでも、男同士の性行為が男女間よりも下準備を要する、ということくらいの知識はあった。
「強姦の趣味はない」と性急な行為の提案を断ったギジュンに、ギソクはそうではないのだと首を振った。
「今日は、準備してたんだよ……その、抱いてもらう……つもりだったから」
「…………」
誰に? 瞬間的に脳裏を過ったジュンモの顔に、凄まじい殺意が湧いた。そんなわけがないと知っているのに、ギジュンやヘボムにしか向けないような柔和な笑顔を浮かべていた弟を思い出すと――その笑顔を見たジュンモを思い出すと、それは憎悪と嫉妬へ変わらざる得なかった。
「俺に抱かせるために準備したこの身体で、ジュンモとのデートを楽しんでたのか……お前は」
ギジュンの低い声に、ギソクは口角を上げる。
「うん。いっぱい嫉妬させて、理性壊してやろうと思ってたから」
「怒った?」とくに悪びれもないギソクに、ギジュンは「そんな生やさしいもんじゃない」とあえて弟の頬にちゅ、と甘く口づけたあと、ぐちぐちとゆるく動かしていた手元のスピードを上げ、暴力的にギソクの快楽を高めていった。
「ひっ……ァ、ちょ、ヒョ……ンッ!」
「悪いけどな、ギソク。自分のイロは、下ごしらえも自分で最後までちゃんとやるって決めてるんだ――俺は」
「え゛、まっ、ヒョン……アッ……!」
ひ、あ、ぁ……! と弟が喘ぐのを確認しながら鈴口を親指でぐりっと抉ってやると、ギソクは腰をビクッとしならせて、「あァ……ッ!」と悲鳴を漏らしてあっけなくイキ果てた。
びゅ、びゅびゅっと吐き出されたそれをギジュンは潤滑油がわりに手に取り、イッたばかりでつらそうなギソクに強引に開脚させ、丸見えの蕾に指を侵入させた。ぬち、と押し入ってきた太い指にギソクはビクリと肩を揺らしたが、ん、と息を漏らし従順にそれを受け入れた。
前回身体を重ねたのは六年前、それも一度きりだ。ギソクのイイトコを見つけるのは至難の技かもな……と手探りに二本指を蠢かせていると、敏感になっている弟の身体はそれだけで快楽を拾い上げ、再びペニスに芯を持たせた。
数分そのままナカを解したあと、指を三本に増やし上のほうにあるだろうしこりを探した。確か前立腺はこの辺だった気がするんだが……とギジュンが一点を突き上げると、途端、ビクビクッと腰を痙攣させ、悶えたギソクの身体。
「――見つけた」
「……っ、ヒョン」
「大丈夫、ちゃんとイカせてやるから」
前立腺を無事に見つけたギジュンは笑みを浮かべ、それから何度も膨らみに指を突き上げた。そのたびにギソクは弓なりにしなり、天井を向いて段違いの快楽に悲鳴をあげる。心地いい嬌声にギジュンは気をよくし、徐々に指の本数を増やして抽挿を繰り返しながら前立腺をぐちぐちと弄っていった。
「ひっ! んっ、ああっ! キモチィ……ヒョン……っ、あァっ!」
「上手くできてるか? お前が遊んできた男どものほうがうわてなんじゃないか」
大切なヘボムを引き合いには出したくなかったため、ギソクがワンナイトを楽しんだのだろう男たちへの評価をその耳元で囁き、尋ねてみる。兄の声にことさら弱いギソクはそれだけで芯を硬くし、熱っぽくギジュンを見つめてきた。
「そんな、ことない……うま、いっ……ヒョンに、されるのが、いちば……アッ…!」
「本当に?」
なら、もっとしてやろうな。にこりと笑ったギジュンに、ギソクは快楽にのまれながら素直にうなずいた。
それからズチュッズチュッと卑猥な水音を立てながらしつこく責めていると、ギソクはひときわ大きな声をあげ、ガクンと仰け反って派手にイッた。
「~~ッ! あッ……!!」
だが、ペニスから溢れたのは精液ではなく、透明のさらさらとした液体。
――どうやら、弟はナカイキで潮が吹けるようになるほど開発されていたようだ。
「は……っ、はっ、……はぁ、ぅ」
「すごいな、ギソク……お前、本当にセックスが大好きなんだな」
どれだけ後ろを使いこなせば後ろだけで潮が吹けるようになるのか。ギジュンには検討もつかなかったが、ギソクはギジュンの発言にカッと顔を赤らめさせ、息も絶えだえのまま否定した。「こんなのは知らない」と。
「……。ギソク……それはさすがにウソだろ」
「ちが……! ホントに、こんなの、初めてなんだよ……っ」
やっぱり、大好きなひととすると違うんだよ――なんて言ってギソクが頬を赤らめ目を伏せるから、ギジュンの理性は瞬時に消し飛び、もう、何ひとつ残らなかった。
熱に浮かされたまま既に四本も入るようになったギソクの内側を虐めるように押し広げる。くぱぁ、と淫靡な音を立て男を誘う後孔に、ギジュンは無意識に唾をのみ込んだ。
ギソクはドライオーガズムに支配され脳がうまく働かないでいたが、ピリピリとひりつく感覚に酔いながらも、ギジュンを見上げて懇願する。
「はぁ……もうきて、ヒョン」
「ギソク……」
流されてしまいそうになったが、このまま挿入するわけにはいくまいとギジュンは手を止める。まて、と呟き、サイドチェストへと視線を向けた。
「ギソク、ヘボムとヤるときに使ってるスキンは」
どこだ――そう続けようとした台詞は、ギソクのとんでもない懇願によって音になることはなかった。
「いい、ナマでいい……っ、ヒョン」
「……バカ言うな」
腹を壊すだろとチェストに手を伸ばそうとするが、すでにぐらぐらと揺れはじめている理性に弟の甘言は致命的すぎた。
「ナマがいいんだ、ヒョン……直に感じたい、ヒョンの熱を」
「ギソ、ク」
「ヒョンと、本当にひとつになりたい……ひとつに還りたい」
だから、俺を、ヒョンの子種で孕ませて――そう言ってギジュンの首を両腕を巻きつけてきたギソクに、ギジュンは平静さをかなぐり捨てた。
「~~ッ…」
この上ない誘い文句に理性を横殴りにされたギジュンは、そそり立つ己の雄を手に取りひくつく蕾に押し当てる。それでも一気に突き入れたい衝動を抑え、怖がらせないよう余裕のある男の顔をして、挿入れるぞ、とギソクに囁いた。
「あ、んぅ……」
「ぐっ……」
しっかりと慣らしていたおかげで、すんなりとギソクのナカに埋め込まれたギジュンの雄。
しかし、アナルセックスに慣れているギソクでもギジュンの立派すぎる雄を受け入れるのは容易ではなかったらしく、圧迫感を逃がすためかぎゅっと眼をつむり、はくはくと不器用に呼吸しながら兄の肩口に顔を埋めている。
その姿がたまらなく愛おしくて、ギジュンは彼を傷つけないよう腰を進めた。
ぐぷ、ぐぷとギジュンを包み込んだ粘膜はひくひくと小刻みに痙攣し、絡みつくように締めつけていく。ギソクに受け入れられてる、そう伝わってくる強烈な締めつけに、ギジュンは眉間を寄せながら笑った。
抽挿を繰り返し、前立腺を突いて、ギソクのオーガズムを煽ってやる。そのうち律動に合わせてギソクの腰が浮いてきたので、ギジュンも速度をあげて腰を打ちつけていった。
ドチュッ、ドチュッ! とひどい粘音を立てながら性器を出し入れして、小刻みに前立腺に腰を押しつける。
「あ゛っ、やぁっ、あっ、あっ……! ヒョンっ、んっ!」
「どうだ、ギソク……いいか……ッ?」
「ひっ! は、はげしっ! 激しいよ……ッ! あた、あたまっ! おかしく、なっちゃう……ッ!」
「いいぞ、好きなだけイけ、ギソク」

ドチュンッ! パンッ、パンッ、パンッ、パンッ!!

「~~~ひぐッ!! んっ、あ゛っ……あぁ、ヒョ、あ゛っ、あ、んん゛ーーーッ!!」
「う゛……っ」
急激に中が締まり、思わずギジュンは顔を歪めた。なんとか奥歯を噛み締め堪えたが、危うく持っていかれるところだったと肝を冷やした。
は、と詰めた息を吐き出してギジュンが腕の中を見下ろしてみると、ギソクはふたり分の体液で艶めいているシーツの上で、ビクビクと小刻みに身体を痙攣させている。ペニスからはしょろ、と液体が伝っており、ギソクがまた達したことを告げていた。
だが、ギジュンはこんなものでは足りないと、ガクガクと震えるギソクの腰を掴み、再び腰を打ちつけはじめる。絶えず襲いくるオーガズムにあっあっと喘ぐことしかできなくなったかわいい弟の唇に、ギジュンは律動を激しくしながらかぷりと噛みついた。
ベロりと舌で下唇を舐め口を開けろとノックすると、ギソクは素直に口を開ける。その隙に待ってましたとばかりにギジュンは舌を捩じ込み、口腔内に侵入した。
弟の舌と絡ませるために己の舌を奥に動かしたが、ギソクの舌はまるで生き物のようになまめかしく動きまわり、ギジュンを蹂躙した。それでも負けずとギジュンがくちゅくちゅと口内に唾液を塗りたくっていると、どことなく兄の意図を察したのか、ギソクは服従を示すよう舌を差し出してきた。兄に唇を貪られ酸欠になりそうなほどに顔を赤らめているのに、それでも伸びてくる舌の健気さに、雄としての支配欲を煽られたギジュンの下腹部はずくんとより重くなった。

ちゅ、ぬちゅ、くちゅ、ちゅむ……!

「ふ、ん゛ん……っ! はぁ、んむ……、ん゛んん~~っ!」
水音を立てながら舌を絡ませ夢中で口づけていると、ドッと胸板を叩かれた。なんだとギジュンが目線を下げれば、涙で赤くなった瞳と視線が重なる。どうやら、本気で酸欠を訴えているようだ。
兄よりもよっぽど遊んできて手馴れているだろう弟が、兄相手にキスで翻弄されるのを見納めるのは名残惜しかった。
だが、人間というのは想像よりも軟弱な生き物だ。
そう。
――一度失ってしまった最愛の弟の命を……自分の手で、危ぶめるわけにはいかなかった。
舌を引っ込めたギジュンは、くちゅりと糸を引いて離れた唇に触れるだけのキスを落とす。
「ぷは……っ! はっ、はぁ……っ、はぁ……は」
「すまない……ギソク、つい……夢中になって」
雄の本能に負けた申し訳なさでいたたまれなくなったギジュンに、ギソクは呼吸を整えながら――泣きそうな顔で、笑った。
「うれしい、すごく……」
「!……ギソク」
「ヒョンに、こんなに求めてもらえて……俺、いま、すごくしあわせだ……」
「ッ……ギソク……」
最後は、手、繋ぎながら抱いてほしい。そう切なげに要求してきた弟の手のひらを捕獲するようシーツに縫いつけて、マーキングするよう首筋や、鎖骨のほくろにキスマークや歯形を落とす。それに応えるよう同じくギジュンの首筋に強く噛みついた弟をを愛おしく思いながら、ギジュンは荒れ狂う感情を吐露するよう腰を打ちつけた。
「ヒョン……っ、あっ、ひっ、ギジュ……ギジュン……!」
「……っ、ギソク……」
手を握り、キスをして、まるで普通の恋人同士のように、セックスに溺れる。近親間で一線を越えるという道徳的に赦されない禁忌を犯しているというのに、紆余曲折の末に手にいれた夜であると知っているふたりには、そんなもの何の罪悪感にもならなかった。
限界がギジュンの足元から這い上がってきて、思考回路を焼き尽くす。ギジュンはギソクを追い上げるように、自分を追い立てるように、肉壁を擦って、強く杭を打ち込んだ。
ぶるっと震える感覚に犯されながら、ギジュンは永遠に弟と離ればなれにはならないと誓いを刻むように、いっそう奥深く腰を打ちつけた。
「ナカに、出すぞ……ギソク……ッ」
「ひぐっ、う、うんっ、あっ、だ、だしてっ、ヒョ、ヒョン…ッ、あっ、だめ、イッ──……!!」
「くっ、…ぅ゛……!!」

ドピュッ、ビュルルルーーーーーーッッッ!!

「ッ~~~!! ァ、あッ……ッ……」

ビクッビクビク………ッッ!

あ、あァ、とガクガク身体を痙攣させている弟のナカに、ギジュンは望み通りに種づけをした。きゅんっと切なげに締めつけてくるギソクの内側にギジュンは奥歯を噛み締めながら、最後の一滴までを吐精する。直腸の奥に放たれた子種は、ギソクの中を満たし、埋め尽くした。
射精したことによる解放感により頭が真っ白になり、気怠い解放感に包まれる。ギソクは絶頂にビクビクと身体を痙攣させ、そのままぎゅっとギジュンに抱きついた。ギジュンは直に伝わってくるギソクの絶頂を感じながら、快感の余韻に酔いしれる。
息を整えギソクにリップ音を立ててキスをして、ギジュンはナカから雄を引き抜いた。
「んっ……は……」
ぐぽんっと音を立てて抜いたあと、視界には自分の中から消えた質量にどこか寂しさを覚えたように、右手で腹部を擦るギソクの姿があった。
「どうした」ギソクに抱きついて尋ねると、「ヒョンがここにいるなぁって」だなんて凄まじい煽り文句を告げてくる。
危うく勃ちそうなったギジュンだったが、明日はヨンド殺しやテファンを救うという大事な任務がある。体力は温存しておかねばならなかった。
劣情を振り払うよう弟の火照る身体をぎゅうぎゅうに抱き締めるギジュンに、その腕の中で小さくなりながらギソクはくすりと笑っていた。
「てっきり……何回もするのかと思ってた」
「もちろんシたいが……それより、お前と愛し合えたこの幸せを……ゆっくり味わいたい」
「……そう」
なら、また「明日」だな──。
ギジュンの胸に頬を寄せてそう囁いたギソクの言葉に、ギジュンの瞳からぼろっと涙が溢れた。
この幸福が一度限りでなく、また明日からも続いていく──まるで夢のようなその現実は、前回の惨たらしい人生にさえ意味があったのだと思えるほど、ギジュンの胸を打ち震わせた。
じわじわと、意識をのみ込もうと睡魔の波がやってくる。弟も同じなのか、まばたきをするスピードが徐々にゆるくなっている。まるで子どものようで母性を擽った。
最愛の弟が、穏やかな顔をして、俺の隣で眠りにつこうとしている――もう、ギジュンにはそれだけで充分だった。
「ありがとうな、ギソク」
「ん……こっちこそ……」
ギジュンは弟を取り戻せた運命に心から感謝した。
弟の頭に手を伸ばし、母がやっていたように優しく髪を撫でまわす。
それにふふ、と小さく笑ったギソクの額に口づけて、ギジュンはおやすみと弟に甘く呟き、瞼をゆっくりと下ろした。

Chapter 9: 【地下駐車場】

Summary:

ギソクと一線を超えてわかりあったギジュン。
その喜びもそこそこに、ヨンド暗殺に向けてヘボムとギソクと三人で段取りを確認する。弟を死の運命から完全に救い終えるまでもう少しだと気を引き締めたギジュンは、テファンを味方につけるべく因縁の駐車場へと向かうが……。

Chapter Text

甘い香りと目蓋を焦がす明かりに誘われ、ゆっくりと意識が浮上する。揺れるカーテンの合間から差し込む朝日を感じとり、ギジュンは促されるように重たい目蓋を持ち上げた。
「……ギソク」
微かな温かさだけを残して空になったベッドに、思わず最愛の名前を口にする。のっそり身体を起こし寝室を見渡してみたが、室内に呼びかけた名の主はいなかった。サイドチェストに置いてある時計の針はスマートフォンのアラームよりも前を指していて、ギジュンの頭に疑問が浮かぶ。
ギソクはアラームより先に起きられる性分ではなかったはすだ。疑問が不安へと変わる。ここに刺客が入ってこれるはずがなかったが、今日はヨンドを貶めて殺す計画をしている日だ。万が一がないとは言えなかった。
不穏なことばかりがギジュンの脳裏を過った。
しかし、寝室にまで充満している甘い香りがその思考に歯止めをかける。
とにかく、起きたのならギソクを見つけて無事を確認しなければ。
その使命感のもとギジュンはいったん疑問を端に寄せ、脱ぎ散らかしていたスラックスを履いて香りのするほう――キッチンへと足を向けた。
そしてそこにあった光景に、衣服を纏わず出てきたことを死ぬほど後悔した。
「あっ、おはようございます! ギジュンさん」
「……ああ」
キッチンに立っていたのは、弟――ではなく、ギソクの忠実な部下、兼恋人のヘボムだった。
実の弟と寝た翌日だ。いくら他者の視線に無頓着なギジュンでも、朝からその恋人である若者に情事の爪痕が残る裸を見られ、なおかつ笑顔で挨拶されるのは相応に堪えた。
ギジュンが探していた張本人は、新聞片手にダイニングテーブルに腰掛け、優雅にコーヒーを口に運んでいた。衝撃だ。昨夜のあられもない姿どころか、仕事モードでもない気の抜けた顔で、だらりと長い脚を伸ばしてギソクは椅子に腰掛けていた。
完全にオフの弟がそこにいた。
ギソクはヘボムの声に新聞から顔を上げ、寝室から出てきた兄を見た。「おはよ~ヒョン」と間延びた声でへらりと笑い、「ヘボム来てるよ」と見ればわかることを報告してくる。幼い頃のような態度に寝ぼけているのかと思ったが、もくもくと何かを焼いているヘボムが何も言わないのを見て、これが通常運転なことを知った。
ギジュンの記憶にいる弟と変わらぬ姿に、ギソクがいかにヘボムに気を許しているのかが窺えた。確かにこんなに気を遣わないでいい相手が傍にひとりいたら、「幸福」だと口にするのもうなずけた。
にしても、この匂いは何だっただろう。懐かしいような甘いそれに惹かれるよう、エプロン姿のヘボムに視線を向ける。十歩以上遠くからじっとヘボムの手元を見れば、テーブルのほうから答えが飛んできた。
「ヘボムの作るパンケーキ、すごくうまいんだぞ」
「……パンケーキか」
確かに。言われてみればそれだとヘボムに視線を戻せば、ヘボムは大皿に信じられないほど大きなパンケーキを五枚重ねており、ギジュンは一目でそれが弟の朝食であることを悟った。
いつも、その量を作ってやっているのか? 素朴な疑問が浮かぶ。これはかつてギジュンがしていたことだったが、かなりの愛がないと続かない作業だ。なんせ、朝から最低でも五人前の食事を用意せねばならない。根気も忍耐もいる。そしてそれを苦じゃないと思える精神力と、ギソクへの無償の愛が何よりも不可欠だった。
だなんて、そんな心配がいらないことは、苺やら生クリームやらでパンケーキを綺麗にデコレーションしているヘボムを見れば一目瞭然であった。
「ありがとな、ヘボム」思わずこぼれた感謝に、ヘボムは百二十点の回答を返した。
「えっ? ああいやそんな、俺が好きでやっていることですから」
笑顔でニカリと笑ってパンケーキに艶めくメイプルソースをかける姿に、ギソクが惚れ込むのもわかるとギジュンはやわらかく笑った。が。
「にしても、やっぱあれっすね……ギジュンさんってすげえ鍛えてるんですね」
「……なに」
話がだいぶ飛んだなとヘボムの横顔を見る。すると、その視線はギジュンの肩から手首にかけて彫られているタトゥーの目立つ上裸へ、まじまじと向けられていた。
「墨が映える筋肉っていうか、無駄のない筋肉っていうか……俺、そんなに綺麗なシックスパック見たことないっす」
「だろ? ヒョンのタトゥーかっこいいよなぁ。ヒョンはな、現役の頃もすごい強かったんだから」
噛み合っていない会話を難なく進行させる二人の関係性に苦笑しながら、ギジュンの脳裏にそもそもな疑問が埋めつくす。
ああ、そう。この謎の状況についてだ。
明らかに性行為をしただろう己の兄貴分とその実兄の姿を見て、ヘボムはなぜここまで平然としていられるのだろうか? さっぱり理解できないと立ち尽くしていたが、「ギジュンさんも食べられますよね」とヘボムが一人分のパンケーキを皿によそいだしたため、仕方なく落ちていた弟のシャツを羽織ってテーブルについた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「あ~腹減った! いただきます!」
山盛りのパンケーキに子どものようにはしゃいで食らいついた弟を尻目に、ギジュンも湯気だつ丸いそれにナイフを入れる。なるほどギソクの好きなふわふわの焼き加減だなと思いながら、切り分けた一口サイズのそれを口に運ぶ。
「うまいな……」
「だろ? 最高なんら、ヘボムのめし」
兄の感嘆の声を聞き逃さず、口いっぱいに頬張りながら得意気に言ってくる弟に苦笑が漏れる。
「わかったから、食べるのに集中しろ」
「むぐ……」
隣に座っていれば頭を撫でていたと思うほどいとしい仕草に、ギジュンはため息すら出そうだと笑う。ギジュンはパンケーキに集中しだした弟から視線を外し、兄弟をよそに皿洗いを始めたヘボムに声をかけた。
「ヘボム」
「! はい、どうかされました?」
律儀に水を止めてこちらに視線をやったヘボムに、「片付けくらいはやるからお前もこっち来て食べろ」と顎でギソクの隣を指す。ヘボムがいくら尽くすことに喜びを感じる男であっても、ギジュンは彼を家政夫のように扱いたくはなかった。敏いヘボムはそれを察し、少しだけ申し訳なさそうに同じテーブルへと腰を下ろした。
ようやく質問できる状況になったと胸を撫で下ろしたギジュンは、単刀直入にヘボムに問いかけた。「それで、何でここにいる?」
「昨日も来てなかったし、べつに朝食作るのが習慣化してるわけじゃないんだろ」
居ることを嫌っているのではないと優しく訊いたが、ヘボムは気遣いは不要とばかりに軽い調子で問いに解を提示した。
「あ……そうですよねすみません。今日は兄貴に呼ばれたので」
隣に視線を向ける。ギソクは咀嚼しながらそうだとうなずいており、ギジュンはまたヘボムに顔を向けた。
「ヨンドの件か」
今日は計画当日だ。可能性は大きいと踏んで問いかけたが、返ってきた言葉はその予測を微塵もかすってはいなかった。
「いえ。……あ、もちろんその件も会長からご指示いただいています! でも兄貴からは『お祝いだからパンケーキ焼いてくれ』って」
「……お祝い」
まだヨンドを殺したわけでもないのにずいぶんと楽観的だなと眉をひそめたが、ヘボムはギジュンの眉間から皺を消し飛ばす発言を投下した。
「はい。ギジュンさんとやっと結ばれた、その記念に」
「……は?」
心からの声が出た。は? 以外の正しいリアクションがあったなら教えてほしいと思うほど、衝撃的な言葉だった。
どういうことだ。確かにめでたいのはそうなのだが、少なくとも恋人であろうヘボムの口から出てくる内容じゃないと弟を見やる。そこにはいつの間にかパンケーキを完食していたギソクがいて、なに食わぬ顔で告げた。
「ヘボムはずっと応援してくれててさ、この六年間。俺からは話してないけど、こいつ敏いだろ? ヒョンとヤッて帰ってきたあの日の朝、すぐに気づかれたんだ。何かあったなって。それでも支えになりたいって言ってくれてさ……救われたんだ、俺。あ、ちなみに全部捨ててヒョンと生きようと思ったのも、こいつの後押しがあったからなんだよ。『当たって砕けてみたらどうですか、六年前の俺みたいに』って」
「ああ、それで辞めようと思ったんですね」
お役に立ててよかったです。そう言って笑ったヘボムに驚愕の顔を向けたが、彼の食堂での行動に完全に筋が通っていくのもまた事実だった。
『ギジュンさんはいないんですか、恋人』と、こちらを探るように訊いてきたあれも。それにいないと返したギジュンに、『よかったです』と心からの安堵を浮かべていたことも。
――すべて知っていて、案じてくれていたのか、こいつは。
好いている男を傷つけ続けていたその兄に対して、どうしてそう寛大に振る舞えるのだろう。自分ならとても無理だと思いながら、改めてヘボムの器の大きさを実感する。
ヘボムにはとても頭が上がらないとギジュンは頬を搔いて、「お前の兄貴を長い間悩ませて悪かった」と丁寧に謝罪した。
「お前も、複雑だっただろう」
ギジュンの言葉にヘボムは首を横に振った。まったくギジュンを恨んでも責めてもいない稀有な双眸が、優しげにこちらを見つめていた。
「ギジュンさんはギソク兄貴のお兄様ですよ。絶対悪い人じゃないって俺、わかってましたから」
「……お前は、本当にできた男だな。ヘボム」
自分が恥ずかしくなるほどの誠実さに苦笑していると、隣からまた自慢気な声が聞こえてきた。
「そうなんだよ、ヘボムは最高なんだ」
「あっ、兄貴恥ずかしいんでやめてくださいよ……っ」
相手がギソクだと感情豊かになるところも愛らしい。
ギジュンはヘボムの愛情たっぷりのパンケーキを口に運びながら、弟二人のやり取りを微笑ましく見守った。

 

それから一時間ほどたった頃。朝食も取り終わり、ギジュンが食器類を洗い終えたところでヘボムは本題に切り出した。
「それで、ギジュンさん。今日のスケジュールについてなんですが」
「ああ。ジュウン兄貴からの伝言だったな」
タオルで両手の水分を拭き取りヘボムに顔を向ける。シマネに刺された左手のひらの傷口はだいぶ治っており、テファンが本気で殺しに来ても話し合えるほどには回復していた。
今日、ギジュンがすることは二つ。
テファンを説得し、殺さずに再会を終えること。
すべての発端であるチャ・ヨンドの身柄を押さえ、その命を終わらせること。
今日が終わる頃にはすべてに片がつき、目の前にいる二人とハッピーエンドを迎えられる。それだけは絶対に達成しなければならないと、ギジュンはキッチンからリビングへ移動した。
「それで? 兄貴はなんて」
ギジュンの催促を受けたヘボムはタブレットをテーブルに置き、とある駐車場を表示させた。
――それは、テファン兄貴を殺したあの駐車場だった。
ここまで大きく未来が変わっていても、運命の道筋はそう変わらないんだなとギジュンは液晶を見下ろした。
「イ検事の情報によると、今日の十一時にこの駐車場で、ギジュンさんが銃の取引をするとの偽の情報を流したようです。恐らく、殺し屋はここに送りこまれてくるでしょう。なのでギジュンさんはその間に、チャ・ヨンドの隠れ家に行ってください。家宅捜査は同刻十一時から計画されているようです。隠れ家には……そうですね。USBの件もありますし、正午くらいに行くのがいいかもしれません」
計画通りのシナリオを説明してくれたヘボムの言葉にうなずきながら、ギジュンは最初から決めていたことをヘボムへと伝えた。
「ヘボム」
「はい、なんでしょう」
「その計画なんだが……ヨンドを殺す前に、駐車場に行こうと思ってる」
「えっ」
バッと顔を上げたヘボムの驚愕の顔色に申し訳ないと思ったが、ギジュンには譲れない理由があった。
きっと、その駐車場にはテファンが待ち受けている。ギジュンに対して強い憎悪を抱いている彼を、敵側に居させたままにはしておけない。
それに。
――兄貴はきっと……ギソクを何よりも恨んでいるだろうから。
テファンが忠誠を誓っていたのは、ジュウンでも、ボンサンでもない。ポムヨンドゥン組のオ会長だ。彼が死ぬ事件にまで発展したスンウォンの死。その真相を知っているテファンにとって、ギソクもまた許せない相手なのは間違いない。
きっと、テファンはギジュンを殺したあとにギソクを殺そうとする。ならば早々に誤解を解いてこちらに引き入れたほうが得策だった。
ヨンドは確かに恨めしい。だが、弟に害を成すかもしれない人間を放置して行くことも、本当に恨むべきは誰なのか、恩人である男に教えてやれないことも、ギジュンには耐えられなかった。
「待ってよ……っ」
「……ギソク」
剣呑な声がギジュンの耳へと届けられる。一筋縄ではいかないとわかっていた。
「意味がわからない……何でわざわざ、そんな危ないところに行くんだよ?」
兄の発言を受け異を唱えたギソクの声に、ギジュンは弟を振り返る。土壇場で計画を変えた兄に憤るギソクの顔を見て、ギジュンのなかにも多少の罪悪感が湧いた。
だが、そんなちっぽけな罪の意識など、弟の死の前では塵も同然であった。
「狙いが俺じゃなくお前だったら? 俺が刺客を放置してヨンド殺しを優先させることまで見越して、お前を殺させようとしていたら? それなら、先に殺しておいたほうが安全だ」
「……じゃあ、俺も」
行く、と言おうとしたギソクの言葉を、ギジュンはこれだけは許可できないと冷たく遮った。
「ダメだ。今日お前はこの部屋から一歩も出るな」
「は……? なん、だよそれ……ずっと傍を離れないって言ってたのはヒョンのほうだろ……!」
想定内の反発にギジュンは息をついた。二人に挟まれているヘボムの顔が強張っていくのがわかる。
確かに兄想いのギソクからしてみれば、行く必要のない場所に行くだけでも心配だろうに、そこに着いてくるなと突き放されたらいい気分はしないだろう。
だが、なんと言われようと、今日だけは安全な場所にいてもらわなくてはならない。
ヨンドさえ殺せば、もう敵はいないのだから。
「ああ、確かに言った。だがなギソク。殺し屋がギルロクと同じような手練れなら、俺はお前を護りながら闘わなければならなくなる。これが、計画を進める上で得策だと思うか?」
「……っ」
ギソクの顔が歪み、視線がギジュンの手元に落とされる。――左手にある、ギソクの命と引き換えに一生の傷となったそれに。
口を引き結んだ弟を見て、ギジュンは宥めるようその顔に手を伸ばした。
「安心しろ、ギソク。俺が負けたりしないのは知ってるだろ? お前はここで、ヘボムと俺の帰りを待ってろ」
あえて左手を使い、ギソクの目にかかっている前髪を撫でてやる。ギソクは苦し気に兄を見上げたが、ギジュンの言い分が一理あることを理解できないほど愚かではなかった。
「怪我したりしたら、許さないからな」
拗ねたようにそう口にしたギソクに、ギジュンはゆるく口角を上げる。
「怪我もか……? フ、わかった。最大限努力するよ」
「そうして」
仏頂面の弟に思わずを笑う。ぐしゃぐしゃと綺麗な黒髪を撫でまわして、ギジュンはヘボムを振り返った。
「ヘボム」
「は、はい……!」
殺伐となりかけた兄弟を黙って見守ってくれていたヘボムに向き直り、ギジュンはその肩に手を置いた。
「弟を頼んだぞ。俺が連絡するまで絶対に誰も入れるな。近づかせるな。それがたとえ……会長でもだ。いいな」
俺は、お前だから弟をここに残して出ていけるんだと、お前だからこそ弟の命を預けられるのだと、ヘボムの目をまっすぐに見つめて言い聞かせる。
ヘボムはごくりと喉を嚥下させたあと、ガンホルダーから銃を取り出し、強い色を宿した瞳でギジュンを見返した。
「――はい。誰であろうと鍵を開けたりしません。侵入者は全員、これで額に穴を空けます」
黒く鈍い色を放っているそれに視線を落とす。海兵隊にいた頃に何度か扱ったことのある、近代モデルのグロック17。反動が少なく殺傷能力の高いその選択から、ヘボムの銃の腕前は察せられた。
「ヘボムの射撃の腕は世界大会レベルだぞ」
背後から聞こえてきたギソクの肯定に、やはりそうかとヘボムを見つめる。
「必ず、ギソク兄貴を護りぬきます」
「……ああ、頼んだ」
ヘボムなら大丈夫だという根拠のない安心感は、前回の人生で復讐をサポートしてくれた彼への信頼から生まれていた。他人をこれほどまでに信頼できたのはこれが初めてで、ギジュンはヘボムが弟と出会ってくれてよかったと心の底からそう思った。
ヘボムへの感謝と激励の意味を込めて強く二度肩を叩き、弟に視線を向ける。
「必ず帰る、ギソク」
「うん。約束だからな」
ギジュンはうなずいて、弟がくれたスーツや手袋を身に纏ってマンションを後にした。
武器は持っていかなかった。テファンが持参してくるだろうナイフすら使うつもりがないのだ。殺したくない相手に会いに行くのに、命を刈り取る刃物など必要なかった。

――その判断を、数時間後に後悔することになるとも知らずに。

 

 

駐車場に到着したギジュンは、入り口手前のほうに車を停めて辺りを見回した。体感的には一週間ほどしか経っていないが、確かにここは、テファンが命を落とした場所で間違いなかった。
気を引き締めて車を降り、駐車場内を探しまわる。テファンが隠れひそんで襲ってくるとは考えにくかったが、念のためだ。
「いないか……」
前回はすぐに襲われたのだが、やはり状況が違うからかテファンの姿はなかった。もう暫く待ってみるかとギジュンは車に背中を預け、送り込まれてくるであろう恩人を待ちわびる。
だが、待てど暮らせど、テファンが現れる様子はない。腕時計を確認する。現在の時刻は十一時半。グムソンがヨンドに伝えたという銃の取引の時間からゆうに三十分が経過している。取引など五分あれば終わるのだ。三十分も放置する意味などありはしない。
――何か変だ。
湧いた焦燥と違和感は、一気にギジュンから平静を奪い去った。慌てて懐からスマートフォンを取り出し、ヘボムに電話をかけてみる。弟の身を案じての連絡だったが、ヘボムはすぐに通話に出てくれた。
『ギジュンさん、終わりましたか?』
「いや、誰も来てないんだ……何かおかしい、そっちに異変はないか?」
『え……あ、はい何もないですよ……! 兄貴も目の前にいますし……映画観ながら、ドーナツ食べてます』
「……フ、また食ってるのか」
気の抜けるような情報にドッと安堵が胸に落ちる。弟が無事ならいいのだと胸を撫で下ろし、ギジュンは念のためにヘボムに状況の把握を頼んだ。
「ありがとう、安心した。ヘボム悪いが、グムソンに連絡してヨンドが雇った殺し屋の情報を調べるよう伝えてくれ」
『わかりました、すぐに折り返します。あ、ギジュンさんは今からどうなさるんですか?』
暗にヨンドを殺しに行くのかと尋ねてくるヘボムに、ギジュンは「もう暫く待ってみる」と返した。
「無力化させられるなら、ここでしておきたいしな」
ヘボムはギジュンの言葉に「わかりました」と返事を寄越し、グムソンに連絡するために通話を切った。
胸元にそれをしまい、ギジュンも自身の中でも状況を分析しようと試みる。
テファンを出所させていないとしたら誤算だが、現状ギジュンを殺せるとするならテファンしかおるまい。なんせ、十一年前、ギジュンが唯一殺せなかった相手なのだから。
狡猾なヨンドが、テファンというカードを切ってこないわけがない。もしかしたら、隠れ家を護衛させている? ああ、あり得ない話じゃない。どうせ殺しに来るのなら、待ち受けて返り討ちにしてやろうと考えた可能性もある。グムソンは情報を流しただけだ。その後の選択はヨンドにしかわからない。
ヘボムからの連絡を待って、ヨンドを殺しに行こう。
ギジュンはそう答えを出し、それから十分ほどその場で時間を潰した。

TLLL...

「……来たな」
胸元で鳴り響いた着信音。ギジュンは胸元からスマートフォンを取り出し、そこに表示されていたヘボムの名前を確認してから通話ボタンをスライドさせた。――いや、しようとした。
「――……ッ!!」
ビュッ! と鼻筋ギリギリに振り下ろされた刀に反射的にのけ反ってその場から転がり避ける。
だが、避けた先にいた大男の蹴りが顔面に迫ってくるのが見え、ギジュンは防御しようとし咄嗟に両手で頭部を覆った。その隙に、手元から携帯が飛んでいく。激しい音を立ててアスファルトの上を滑っていったそれを視界にいれながら、ギジュンは蹴られた勢いで倒れた身体を即座に立ち上がらせた。
目の前にいたのは、テファンではない――本職の殺し屋二人だった。
ひとりは赤髪でギジュンと同じような体格をしており、手に刀を所持していた。もうひとりは黒髪で二メートルはあるだろう上背にレスラーのような体躯で、両手にサバイバルナイフを手にしている。
両方とも見覚えのある顔のような気がしたが、呑気に観察していられるほど、腕のない相手ではなかった。
先ほどの奇襲の一手で、ギジュンにはわかっていた。
――こいつら、シマネと同じレベルの殺し屋だ。
ひとりでも相手にするのが骨が折れるだろう実力の人間を、一度に二人も相手にしなければならない状況は正直予想していなかった。
刀を避けたところで凄まじい拳を脇腹に食らい、そのままナイフで首を搔き切られそうになる。大男の攻撃を避けてもその先には刀の男がいて、本気の殺意が込められた大振りの刃物は避けるので精いっぱいだった。
しだいに上がり出す息に、漠然と感じる。
どちらかの刃物を奪わないと、俺はここで死ぬ――。
死期を悟った脳裏に浮かんだのは、弟の拗ねたようなあの顔だった。
『怪我したりしたら、許さないからな』
「……ああ、そうだ。約束だもんな――ギソク」
最愛の弟への強い想いが、既に壊れているギジュンの力のリミッターを振り切らせる。
その体躯に見合わず瞬発力のある大男の拳が、ものすごい勢いで顔面に飛んでくる。殴られたらただでは済まないだろう重い拳を、奥歯を強く噛んだ右頬で受け止めた。
ゴッ…。えげつない音とともに脳が揺れるのがわかったが、ギジュンは意識を保ったまま大男の手首を掴み、全力で明後日のほうへ捻り上げた。
「グッ」呻き声を上げたその手のひらからナイフが滑り落ちる。
ギジュンはそれがアスファルトに落ちる前に掴み取り、そのまま大男の頸動脈に向かって振りかぶった。
獲った――そう思った瞬間、真横から身体を蹴り飛ばされ、吹き飛んだギジュンは車体の側面に激しくめり込んだ。
「ガッ……」
あまりの衝撃に肩が外れたのがわかる。うまく利き手が動かせない。怪我のなかでも最悪の部類だった。
だが、油断している暇などなかった。ギジュンはすぐに男らを視界に入れたが――そこにいた三人目の男を見て、ハッと息をのんだ。
「テファン、兄貴」
「久しぶりだな。ギジュン」
やはり、ヨンドはカードを切っていた。
肩を押さえて立ち上がり、死なせたくなかった男をじっと見つめた。
ああ、くそ。会えてよかったはずなのに、状況があまりに劣勢すぎる。
殺し屋二人を相手にするのもギリギリだったのに、そこに三人目が加わり、しかもそれが恩人ときた。ついでに肩がイカれて右手が動かせず、ろくに闘える状態でもない。
生まれて初めて、ギジュンは自分の敗北が脳裏を過った。こんなところで死んでいる場合ではないと鼓舞するが、ここから生きて帰るには、躊躇いなく早急に全員を殺さなければ恐らく不可能だ。テファンを説得している余裕は、今のギジュンにはとてもなかった。
――殺したくない。
テファンは今でも、ギジュンの大切な兄貴分だった。
だが、弟の命と天秤をかけたとき、傾くのは当然ギソクのほうだ。比べるまでもない。ここで自分が死ぬことでギソクがテファンに殺される可能性がほんの少しでもあるのなら、ギジュンは痛みを背負ってでも、恩人の心臓に杭を打てる男であった。
だが、テファンの背後で男らの気配が消えたのがわかる。視線をテファンの向こうへ動かすと、悪意ある笑顔を浮かべながら去っていく二人の背中が確認できた。
――テファンが来るまでの、時間稼ぎだったのか?
わからない。考えても答えが出るわけじゃない。
ともかく、風はギジュンに吹いていた。三人を相手にするのはほとんど自殺行為だったが、ギジュンが望んでいたテファンの相手だけなら、生きて二人でこの寂れた駐車場から出ることも夢ではなかった。
「兄貴」肩の痛みに少し顔を歪めながら、ギジュンはテファンに呼び掛ける。
テファンはあの日と変わらぬ怒りとも嘲笑とも取れる表情を浮かべ、ギジュンに問いかけた。
「なぜなんだ」と。ギジュンは問いの先を知っているからこそ、無意識に眉が下がるのを止められなかった。
「十一年前のことだ。……俺を殺せばよかったのに」
悲痛に歪んでいく顔と比例するように、ギジュンの胸の中にも苦痛が湧き上がる。テファンは技手をはめた右手をゆっくりと持ち上げて、チクショウ、と呻くように漏らした。
「とんだ、生き恥だよ!」
「! 兄貴、待ってくれ……!」
激昂し殴りかかってきたテファンを、左腕だけで制し、受け流す。だが、そんなぬるい闘い方で相手ができるほどやわではないテファンに、ギジュンは一方的に蹂躙されるほかなかった。
でも、たとえ両腕が使えても、殴り返すつもりはなかった。前回の人生と同じように、テファンと闘う意思はこれっぽっちも抱いてはいなかった。
むしろ、肩を外されたのはフェアですらある。奇しくも、彼と同じハンデを背負ったのだから。
それが裏社会で生きてきた男の生き恥になると知りながら、己がテファンを殺したくないばかりに、ギジュンは慈悲の欠片も持たずに彼の利き腕を切断したのだ。この状況は当然の報いだった。
防戦一方で殴り返しもしないギジュンにテファンは腹を立てたのか、懐から例のナイフを二本取り出してこちらに投げて寄越した。高い金属音が閉鎖的な空間に反芻した。
「拾え。早く終わらせよう」
「…………」
ギジュンはその鈍く光る銀を見下ろす。見覚えのある、殺傷能力の高いサバイバルナイフを。
しかし、前回とは違う選択を取るためにギジュンは顔を上げた。
「兄貴とは闘わない。理由がない」
「そうか。悪いが俺にはある」
だから今すぐに拾えと命じてくるテファンに、ギジュンは対話を選択した。
「十一年前のことで、兄貴が俺を殺したい気持ちはよくわかる。でも……俺もああするしかなかった。兄貴は知ってるだろ。俺が、どれだけギソクを愛しているか」
テファンは表情を変えなかった。
「ああ、お前が弟を大事にしているのはわかってるよ。だがな、忘れてないか? ギジュン。そもそも、全部ギソクが始めたことだろうが……!」
「……兄貴」
声を荒らげたテファンが、ギジュンの胸ぐらを掴んで車のボンネットに押し倒す。ナイフを顔のすぐ横に突き立ててギジュンを見下ろす双眸は、ひどい憎しみに染まっていた。
「お前の弟がスンウォンを殺しさえしなけりゃ、あんなことにはなってなかった! 俺の兄貴も……オ会長も、死なずに今も生きていたはずだ……! あのひとは……っ、あのひとは俺の生き甲斐だった……俺のすべてだったんだよ、ギジュン! それを、お前ら兄弟が全部奪ったんだ……!!」
聞いているのもつらくなるほど、痛ましい叫びだった。
それと同時に、もしここでテファンを説得できなければ、確実にギソクの命が危ぶまれることも理解できた。
「お前を殺したら、弟もすぐに見つけ出してあの日のケジメを取らせる。『殺してくれ』と泣いて懇願するまでじっくり痛めつけ、十一年分の罪を清算させたあとで、お前と同じ場所に送ってやる」
「――――」
楽には殺さずいたぶってから殺す――そう決定的な言葉を口にしたテファンに、本能的な殺意が身を焼いた。
十一年前もこうだった。ギソクがしたことを見抜かれたあの日。『会長の息子……お前“は”やってないよな?』とテファンに言われた瞬間、恩人の彼が排除すべき敵に変わったように、ギジュンは弟に仇なすものをなにひとつ許容できなかった。
だが、目が据わったギジュンを見て、テファンがわずかに安堵の色を浮かべたように見えた。気のせいだと思いたかった。けれど、ここで前回死んだときの彼を知っているからこそ、それを見過ごすことはできなかった。
――兄貴は、殺されたくてここに来ていたのだ。前回も、今も。
ギジュンの弟想いを知っているからこそ、似合わない挑発を口にして殺意を煽っている。――それほどまでに、護るべきオ会長を自害させてしまった自分が許せないのだ、兄貴は。
ギジュンにはその気持ちが、痛いほどに理解できた。弟を亡くしていたから。独り惨たらしく、苦痛と痛みのなかで死なせてしまったから。
気づけばギジュンはテファンの左手首を掴んで、その目をまっすぐ見上げていた。
「テファン兄貴……本当に悪かった。謝って済む問題じゃないのは知ってる。でも、十一年前の真犯人はギソクじゃないんだ。弟のほかに別にいる」
これだけは知っていてほしいと射抜けば、ギジュンの瞳の真剣な色を見抜き、テファンは笑い飛ばさず問い返した。
「ほかに……? 誰がいるって言うんだ」
ギジュンは意を決して告げる。
「チャ・ヨンド。兄貴を務所から出した警官だ」
「……は」
眉間に皺を寄せ、テファンは固まった。脳内で処理しているのだろうテファンに、ギジュンはあの日の真実と、兄としてのけじめを口にする。
「俺もついこの前まで、ギソクが個人的に何かトラブって殺したと思ってた。兄貴も覚えてると思うが、あの頃スンウォンは弟に何度も言い寄っていた。殺した理由を聞いてもギソクはわけを話さなかったから、言いたくないのは無理やり何かされたとか、そういうことだと勝手に決めつけていた」
でも、違った。ギジュンは己を絶望させたあの録音を思いだし、テファンに告げた。
「ギソクは、ヨンドに言われたんだ。『スンウォンが兄を狙っている』と。それでギソクは……俺を護ろうと、スンウォンを殺した」
「…………」
テファンは依然恨みを消せずにいるようだったが、それも見越してギジュンは告げる。
「それでも許されないとわかってる。……なぁ兄貴、弟がやったことは俺が責任を取る。あいつをこの世界に引き込んだのはこの俺だ。このまま俺の左腕を持ってってくれてかまわないから、だから……弟を、許してやってくれ」
「……ギジュン」
ギジュンは顔の横に刺さっているナイフを抜き取り、テファンの胸に押しつけた。
「頼む、兄貴……。兄貴も、オ会長の命が狙われてると知ったら、きっと相手が誰であれ躊躇なくその手を穢せただろ」
ギジュンの言葉に、テファンの瞳がぐらりと揺れた。
全身を焼いていた憎悪が、薄れていっているように感じた。
テファンは大きなため息を吐き出し、押しつけられたナイフを苛立ちまぎれに駐車場の壁に投げつけた。ガラァンと独特の音を立ててアスファルトに落ちたそれを無意識に目で追ったが、すぐに左腕を引っ張られボンネットとから立たせられた。
「兄貴……」上目にテファンを見上げると、テファンは苛立たしいとばかりに「んな目で見るな俺を……!」と叫んで頭を搔いた。
「ったく、お前のパピーアイ攻撃には弱いんだよ俺は。まあいい、言い分はわかった。ギジュン。だがな、真犯人がわかった以上お前の腕なんかいらねえ。弟のもだ。必要なケジメは、あの腐れ警官を殺すことだ」
テファンはそう言って肩を押さえたままのギジュンに膝をつかせた。ギジュンとしてはテファンになら本当に片腕を持ってかれてもよかったため、無抵抗に従った。
「歯ァ、食いしばれギジュン」
言われるがまま顎に力を入れると、テファンは一気に脱臼した肩を戻した。くぐもった悲痛な呻き声が響いたが、脂汗と引き換えに鈍い痛みは収まっていた。
「兄貴……ありがとう」
「お前のためじゃねえ、俺の兄貴のためだ」
お前だけでも五体満足じゃねえとあのクズ野郎を殺せねえだろ。テファンの漏らした本音に、ギジュンは足元から歓喜が湧いてくるのがわかった。
テファンはもう殺気もなく、ギジュンに対するわだかまりも抱えていないように見える。生に対する無気力さも。確認のため、ギジュンはテファンに問いかけた。
「もう、死にたいとは思わないよな。兄貴」
テファンはため息とともにギジュンに顔を向け、うんざりとした面持ちでそれに答えた。
「クソめ……最後まで恥かかせやがって」
「あに、」
「お前は昔から人の心がわからねえのがいけねえ、ギジュン。――仇がのうのうと生きてんのに、呑気に死んでいられるか」
「……!」
んなこといちいち言わせんな。
悪態をついて立ち去ろうとするテファンのぶっきらぼうな姿はまんま世話になった兄貴分そのもので、ギジュンは安堵と感動で涙腺がゆるんでいくのがわかった。
一度死んでから、俺の涙腺はどうかしてしまっている。
明らかな事実を前に口端が上がる。ギジュンはテファンの連絡先を聞いておこうとその背に声をかけようとして――あることに、気づいてしまった。
胸元の定位置から取り出そうとしたスマートフォン。それがないことに気づき、そういや殺し屋二人とやりあっていた際、手元から飛んでいったことを思い出す。壊れてないといいがと軌道上に視線を向けた。
だが、そこにギジュンのスマートフォンは存在していなかった。
「な、い……」
ドッと心臓が跳ねる。いや、まて、車の下にあるのかもしれないと確認するが、どこを探してもスマートフォンは見つからなかった。
乱れる動悸は、自分が「なにか」を見落とし重大なミスを犯してしまっている現実への警報だった。
「……テファン、兄貴」
「あ?」
突然駐車場内を歩きまわり顔を青ざめさせたギジュンに、テファンはさすがに何か感じ取ったのか、出ていかず訝しげに様子を窺ってくれていた。
ギジュンはテファンに速足で近寄って、凄まじい力でその胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「ぐっ……な、おいギジュ――」
「兄貴、あの殺し屋どもの狙いは何だった」
「……ギジュン」
「頼む兄貴……っ、何でもいい、何か知っていることがあるのなら俺に教えてくれ」
切羽詰まったギジュンの様子に、ただ事ではないとテファンは察したようだった。ギジュンの両腕を振り払いシャツを正したあと、それを明かしてくれた。
「あいつらとは別の指示をされてたから詳しくは知らねえ。俺はただお前をここで足止めして、できるなら殺せと言われただけだ。……ただ」
テファンはいったん足元に視線を落とすと、神妙な顔でそれをギジュンに伝えた。
「こう言ってるのは聞こえた。『必ずナム・ギジュンのスマートフォンを奪ってこい』ってな」
「……、……スマホ……なんで」
なんで、なんて、考える暇もなかった。

――ギソク、

「あに……兄貴、スマホ貸してくれ」
「なに?」
「電話を、貸してくれ……!」
凄まじい剣幕に気圧され、テファンは懐からスマートフォンを取り出しギジュンに渡した。ほとんど奪い取るようにテファンの手から拝借したそれに、唯一覚えている弟の電話番号を素早く打ち込んだ。
「出ろ……出ろ、ギソク」
コール音が鼓膜の奥で反芻する。何度も、何度も、繰り返し。自宅で平和に映画を見ながら甘味を満喫していたら、絶対に鳴り続かないだろう回数を超えたとき、ギジュンはスマートフォンをテファンに押しつけてその場を駆け出した。
「……っておい、ギジュン!!」
うまく動かない脚も気にせず全力で走り、ギジュンは乱暴に車に乗り込んだ。テファンは咄嗟に運転席のドアを掴んで「どういうことだ」と止めてくるが、ギジュンはもうテファンにかまっている余裕はなかった。
「兄貴どいてくれ……はね飛ばされたくないだろ……!」
「ギソクに関係してんだろ、その様子は……! なら俺を利用くらいしねえか!」
「! 兄貴」
テファンの怒声にハッと意識を取り戻す。ドアを掴んでいるテファンに視線を向けると、テファンは懐からスマートフォンを取り出した。
「俺はまだあいつに雇われている身だ。勘づかれるかもしれねえが、俺が奴の居場所を聞き出してやる。どこに連絡すればいい」
「……連絡」
ああ、そうだ。俺のスマホは手元にない。だがヘボムの連絡先はまだ記憶できていないし、ギソクは電話に出ない。
「……ビョンホ、ビョンホ兄貴のバッティングセンター」
巻き込まないと決めていた男の名前を口に出し、ギジュンはテファンを見上げた。
「何かわかったら、ビョンホ兄貴に伝えてくれ」
「わかった、行け」
テファンがドアを閉めた瞬間ギジュンはシートベルトもせずに強くアクセルを踏み込んだ。
大丈夫、ただ映画に夢中で気づかないだけだ、そうに決まっている。なんせあのマンションはハイセキュリティのタワーマンションで、なおかつヘボムが一緒にいる。銃まで用意し、護衛してくれている。
それなのにギソクに何かあったなら、それはすなわち――ヘボムの死をも意味した。
ああ、ダメだ、弟も新しく家族だと受け入れた青年も、俺はもう失っては生きていけないと、ハンドルが軋むほどに強く握り込む。
「ギソク、ヘボム……」
大丈夫だと言い聞かせる余裕は既になかった。

 

「ギソク!」
暗証番号を入れ込み、ほとんど壊すように玄関を開けた。室内はいっさい荒らされてなく侵入者もいない雰囲気だったが、ギジュンの怒声に対してやけに静かだった。
息が乱れ、動悸が荒くなる。再度弟とヘボムの名を呼ぼうとしたが、廊下の先から何事かと顔を見せたヘボムの姿を見て、言葉を飲み込んだ。
――ヘボムが、幽霊でも見るように俺を見ていたからだ。
不安が確信に変わる。いや、違う、嘘だと言ってくれとヘボムに近づいて、それからリビングを見渡した。
ギソクはどこにもいなかった。
「ギソク、は……」
「え゛……ギ、ギジュンさんと、一緒じゃ……ないんですか」
ヘボムの声は震えていた。ギジュンはもう、自分の精神が平静を保つのが厳しいギリギリのラインにいるという自覚があった。
リビングに視線を留めたまま、努めて冷静に、ヘボムに問いかける。
「どういう意味だ……?」と。
ヘボムは答えた。――ヨンドが俺のスマホを狙ったそのわけを。
「三十分ほど前に……その、ギジュンさんから兄貴に連絡があって、『終わったが車がパンクしたから迎えに来てくれ』って……で、その、それで」
「…………」
目眩がする。立っていられないほどの、強い目眩だった。
ギジュンは弱々しい声の持ち主に向けて、憤怒を滲ませる声を発していた。
「それで、お前……ギソク独りで……行かせたのか?」
「……ッ」
ゆらりとヘボムに視線をやる。いま彼を責めても何も変わらないとわかっているのに、勝手に裏切られた気分になっているギジュンは怒りが増幅していた。
ヘボムは初めて向けられるギジュンの本気の殺気に顔をひきつらせ、可哀想に身体を竦ませていた。
だが、それでも説明責任をまっとうしようと震える声で話してくれた。
「も、もちろん着いて行こうとしたんです……! で、ですが、その……ギジュンさんにも連絡入れてたんですが計画にトラブルが生じてて、あの……家宅捜査が、行われていないみたいで」
「……なに?」
「それでギソク兄貴が『お前はそっちを対処しておけ』とおっしゃったので、その、俺は、おれ……っ」
「……ヘボム」
萎むように消えていった語尾とその顔に浮かぶ絶望が、ギジュンの中の場違いな憎悪をいったんよそへと消散させる。
ヘボムは、ギソクの命令に忠実に従っただけだ。第一、今は彼に当たっている場合ではない。一刻でも早く事態を掌握しなければならないのだから。
それに、殺し屋どもに襲われる直前、確かにヘボムは連絡をくれていた。それに出ることができなかったのはギジュンの不手際だ。ヘボムに責められる謂れはない。
ギジュンは深呼吸をし、ヘボムに尋ねた。
「それで……対処はできたのか」その簡潔な問いに、ヘボムは血の気の引いた顔を横に振った。
「それが、イ検事が電話に出ず……会長からも連絡してもらったのですが、音信不通のようで……」
検事局にも出社していないそうです、同じくチャ・ヨンドも行方がわかっていません――そこまで聞いて、ギジュンは目眩にふらつくのを止められなかった。
「ギジュンさん……!」
咄嗟に支えてくれたヘボムの手を借り、キッチンカウンターにもたれかかる。
――ああ、クソ、クソ。イ・グムソン、やはり情けなどかけずに、あの小屋で白状した瞬間に首をへし折っておくべきだった――。
父親と和解してジュウン組の後継者になれたことで、もう驚異ではないと思ってしまっていた。ヨンドを利用し、ジュウンとボンサン両方を望んですべてを計画した張本人なのに、ギジュンはジュウンへの恩義から、グムソンのその本質から目を逸らしてしまっていた自分に気づかされる。
年を取ると、見たいものしか見なくなる――それが自分にも当てはまる言葉であると、ギジュンは知りたくなかったのだ。
吐き気がする。頭が重い。一度きりの弟の命を救うチャンスだったというのに、こんな腑抜けたミスを犯してしまった自分を殺してやりたかった。
ギジュンはヘボムの介助を断り、しっかりと立ち上がった。
今すぐに弟の居場所を見つけ出し、救わなければならない――まだ、生きて、いるならば。
世界が崩れるほどの絶望と悔恨がまたギジュンの全身を襲う。弟と結ばれた上でその日々を失うことは、前回の何倍もの喪失感をギジュンに植えつける。
やはり当初の誓いどおり、片時も傍を離れるべきではなかった――なんて、どうにもならない後悔が視界を暗くするが、悔いている時間があるのなら捜索にすべてを注ぐべきだとギジュンは踵を返した。
「あ゛……ギジュンさんどこに、」
ギジュンと同じく絶望に覆われた声が背後からかけられる。ギジュンは横目でヘボムを見やり、「見つけろ」ときつめに言いはなった。
「ソンウォンでもジュンモでもいい、どんな手を使ってでも弟を見つけろ! いいか、ヘボム。――あいつが死んでいたら、俺はお前を殺して自分も死ぬ」
ギジュンは本気だった。ヘボムに対する憎悪から言っているわけではなく、ギソクを自分の命よりも尊ぶギジュンとヘボムが、この大失態を抱えて生きていけるほど、この先の人生に意味をなせないことを知っていた。
「……ッ、はい、必ず見つけだします」
ヘボムはギジュンのこの上ない脅しのようなそれに、慈悲を感じたかのように涙を浮かべて強くうなずいた。
ギジュンはヘボムを信じている。彼が、「必ず」と言ったなら、それが現実になることを心から信じていた。
「あ、あのこれ、使い捨てのスマホです……!」
去ろうとするギジュンに慌てて手渡されたスマートフォン。「俺の電話番号は入れてます」と変わらぬ優秀さに礼を告げ、ギジュンはヘボムを置いて足早にマンションを出る。
あの殺し屋二人が弟を拉致したのなら、丸腰で突撃するわけにはいかなかった。
――昔使ってたようなバットがいる。
ギジュンの目にはもう、復讐しか映っていなかった。

Chapter 10: 【バッティングセンター】

Summary:

ギソクが拉致され絶望するギジュンは、復讐に取り憑かれビョンホのもとへ足を運ぶ。
だが、またギソクを失うかもしれない現実を前に打ちのめされる。

Chapter Text

「ギジュナ……!」
「……兄貴」
十一年ぶりに顔を出した弟分に、ビョンホが笑顔を向けてくる。
だが、その顔に浮かぶ憎悪と焦燥を見て、ビョンホはすぐに何かに察したようだった。
「……事務所に行こう」と、血が滲むほどに握り込まれたギジュンの手を優しく引いてくれた。

 

「――いや、チュンソクから話は聞いていたが、本当にこっちに戻ってきていたとはな」
茶を出されたがとても飲む気にはなれず、ソファーに腰掛け虚ろに一点を見つめる。小さな湯呑みの中でゆらめく薄緑はギソクとよく遊んだ公園の木々を彷彿とさせ、ギジュンの鼻の奥を熱くさせた。
「……それで。何があった、ギジュン」
明らかに様子のおかしいギジュンを見て、ビョンホが単刀直入に訊いてくる。ギジュンは口にするのも躊躇う現実を、ゆったりとビョンホに打ち明けた。
「ギソクが、拉致された……もう、生きているかもわからない」
「な……」
「俺の……おれのせいだ……っ」
「……ギジュン」
目の前にいるのがビョンホだったからだろう。ここに至るまでの辛酸を思い出し、耐えきれず両目からあふれでた絶望がぱたぱたと膝を濡らしていく。
いくらでも弟を危険から遠ざける手段などあったはずなのに、ギジュンはすべてを救うことを望んで、その結果、一番失いたくない弟を敵に奪わせた。本末転倒だ。欲をかいた罰だった。
ギソクだけ救えればよかったのに、おとぎ話のような結末を望んでしまった。自分の能力を過大評価しすぎていたのだ。
コミックの中のヒーローのように、すべてを救えると過信していた。
――俺は主人公ではなく、物語の悪役だろうに。
突きつけられる現実は、ギジュンの心を砕き割る。
「ギソクだけ、救えればよかったのに……っ、あいつさえ生きてくれてたら、ほかには何もいらなかったのに……俺は、全員を救うだなんて、ガラにもないことをして、そのせいで……弟を……」
支離滅裂な言葉を羅列し泣き出したギジュンに、ビョンホは向かいのソファーから立ち上がり、友人の足元に膝を折った。広がっていく膝上の黒い染みに手を添えて、静かに涙を流している男を見上げた。
きっと、ギジュンの発言の半分も理解できていなかったはずだ。当然だ。この倒錯した感情を知るのは人生をやり直しているギジュンただひとりで、ほかに知る人間がいるよしもない。
だが、ビョンホはそれでもギジュンに寄り添うことを選ぶ男だった。理解できずとも傍で耳を傾けて、間違った意見には正しく「ノー」と言える、実直な男だった。
「ギジュン、それは違う」
耳元をかすめたそれに、ギジュンは膝を見つめていた視線をおもむろに上げる。優しく膝に添えられたビョンホの右手が、ギジュンを溶解するよう熱を与えてくれていた。
それでも「違う」とは思えなかったギジュンは、「違わない、全部俺のせいだ」ときつく眉間に力を入れる。
それでも、ビョンホはギジュンの言葉を優しく否定した。
「お前に何があったのか、俺にはよくわからない。話したくないなら訊かない。けどな、ギジュン。お前は昔から、全員を救おうとする男だろ。自分では弟以外興味ないと思っているのかもしれないが、それは違う。ギジュンお前は、お前が思っているよりも仲間想いな奴だ。いつだって仲間のために手を汚せる男だ。たとえ十一年前、スンウォンを殺したのがギソクじゃなくて俺やチュンソクだったとしても、お前はきっと、同じことをしただろ」
「……ッ、あにき」
ビョンホの肯定に、ギジュンは唇を噛み締めさらに涙をあふれさせる。
ギソク以外で、ギジュンを人の形をした神ではなく人間として見てくれているのは、ビョンホだけだった。昔からずっと、闘いが終わったあとに『怪我は』と真っ先に聞いてくれたのはいつもビョンホだった。ずっと変わらず心から案じてくれる相手からの肯定は、ギジュンの荒んだ心に雪解けをもたらしていく。
否定の言葉を口にしなくなったギジュンを見て、ビョンホは腰を上げた。弟分の硬く癖のある黒髪に手を伸ばし、ギジュンが弟にするよう優しく撫でてみせた。
「ギジュン。お前は、お前自身が思っている何倍も、優しい男だよ」
「……っ」
ビョンホのあたたかい愛情は、ギジュンの砕けた心を戻すのに充分だった。
情けない。大の大人が取り乱し、子どもみたいに泣き崩れるなんて。そう思いながらも、父のように、兄のようにギジュンのすべてを受け止めてくれる男の前では、ギジュンもその強情を張れるほどは頑なではなかった。
数分ほど、乱れた精神を落ち着かせるためにギジュンはビョンホに見守られながら泣いていた。ビョンホはその間、ギジュンの隣に腰掛け、背中を撫で続けてくれていた。迷惑をかけている実感と申し訳なさに目が醒めていき、いい加減に自分を叱咤するよう、ギジュンは自分の顔を殴って正気を取り戻させた。
ビョンホはそれでも、隣で黙って見守ってくれていた。
「落ち着いたか?」やわらかい声に、ギジュンは切れた口元をそのままにビョンホへ視線を向けた。
「……ああ、すまない兄貴」
鼻を鳴らして謝罪したギジュンに、ビョンホは変わらぬ笑顔で告げる。
「いいんだよ。お前がギソクをかわいいように、お前は俺のかわいい弟なんだから」
「兄貴……ありがとう」
心からの礼を告げる。彼がいなければ、とても正気を保ってはいられなかっただろう。――ヘボムに八つ当たりし、怯えさせてしまうくらいなのだから。
ビョンホは笑って受け止め、話の主題を本筋へと引き戻した。
「ほら、それよりギジュン。ギソクの話。死体を見てないなら生きてる可能性のほうに賭けるのがナム・ギジュンだろ?」
だから、俺のところに来たんじゃないのか? まっすぐに問われたそれに兄貴には敵わないなと苦笑して、ギジュンは当初の目的をビョンホに頼み込んだ。
「ああ。昔使ってたようなバットがいる」
「よし……一時間くれるか? すぐに取り掛かる」
お前はギソクの行方でも探してろ。ビョンホはそう告げて、足早に事務所を出ていった。
その背を見送り、息をつく。ビョンホ兄貴には頭が上がらない。いつもそうだったが。
ギジュンは少しひりつく目元に苦笑して、天井を仰いだ。
しばらく高い天井を見つめたあと、ギソクは無事だろうか。と考える。無事でなければ、俺は自分を決して許せないと思考が淀んでいくのがわかったが、その思考に割り入るよう馴染みの声が鼓膜を揺らした。
「ギジュン兄貴……!」
「!……チュンソク」
ソファーのへりに預けていた頭を持ち上げて、声のしたほうへ顔を向ける。そこにいたのはチュンソクと、こちらを睨みつけている――ジュンモのふたりだった。
ク・ジュンモ。全身が警戒心を纏い、殺気立っていくのがわかる。奴がチュンソクとともにこのバッティングセンターの敷居を跨ぐことは、相応にギジュンのトラウマを刺激した。
だが、ジュンモはこちらに大股で近寄ってくると、大声で想い人の兄を叱責した。
「おいナム・ギジュン! 俺からナム専務を攫っておきながらモブに拉致られるとか何事だよ! それでもお前伝説の男か、あ゛ァ!?」
「ちょ、常務やめてくださいって……!」
チュンソクに引き剥がされるいきり立ったガキに目を細める。なぜここに来たのかと警戒したが、ギソクの件を知っているのなら気をまわす必要はなさそうであった。
案の定、すぐに追いかけてきた長身の影にギジュンは力を抜いた。
「ヘボム」
「ギジュンさん……! すみません、遅れてしまい」
ふたりを追いかけて事務所に入ってきたヘボムは、両手にタブレットとラップトップを抱えていた。喚くジュンモに視線も向けずギジュンの元に一直線に歩いてきて、ギジュンの前のローテーブルにそれらを広げる。
「Nクリーン社に情報提供を依頼し、ク常務のお力もお借りして見つけました。ギソク兄貴がいる可能性のある場所を」
「……ヘボム」
いくらなんでも仕事が早すぎるだろうと顔色の悪い青年の横顔を見つめる。自分が焚きつけた自覚はあった。同じく絶望していた若い彼を、否応なしに責め立てた罪悪感も。
ギジュンはヘボムのうなじに手を置いて、心から謝罪した。
「悪かった……さっきは、お前に当たりが強すぎた。許してくれ」頭を下げて詫びると、ヘボムの動揺した声が上から降ってくる。
「そっそんな、やめてください、言われて当然ですから……! せっかくギジュンさんが信じて、兄貴を任せてくださっていたのに……俺は」
そう言って、ヘボムは血が滲むほど唇を噛み締めた。ギジュンは即座に「お前のせいじゃない」と断言する。
「いいかヘボム。これは俺のせいだ。みすみすスマホを奪わせた俺の。さっきはそれを受け入れられなくて……お前にきつく当たってしまった。本当に悪かった」
「ギジュンさ……」
「八つ当たり? お前ホンットに最低だな、ナム・ギジュン」
「常務……!」
淀む空気を悪態で破壊するジュンモの声に、心なしか救われる。チュンソクが代わりに頭を下げている姿がさらにギジュンを和ませた。
ヘボムは凄まじい視線をジュンモに向けていたが、ジュンモの言い分は最もである。それに、昨日一日ジュンモと過ごしたため、彼が本気でギソクを気にかけているのは理解していた。罵りの言葉は甘んじて受け入れようと、ギジュンはジュンモを制裁することなくヘボムに先を促した。
「それで、どこにいた」
ギジュンの問いに、口を開いたのはジュンモだった。
「これ、うちの構成員に探させたナム専務の車」
ジュンモがラップトップを操作し表示させたのは、トンネル脇で横転している黒のフォードブロンコ――間違いなくギソクの車であった。横から派手に追突されたのだろう凹み具合に、弟の安否が不安視される。
「多分、この感じだとダンプか大型トラックかでぶつけられてますね……。ギソク、無事だといいっすけど」
チュンソクの友人を案じる声に視界が暗くなる。
「……ああ」思わず息を止めていた。現実として示される弟が拉致された証拠は、想像よりもギジュンに重くのしかかっていた。
ジュンモはタッチパッドの上に指を滑らせ、次の資料を画面に映し出した。
「そんで、次これ。この現場から連れ去った可能性がある場所をソンウォンにカメラで追わせたら、だいたい三ヶ所に絞られた」
「それがここです、ギジュンさん」
ジュンモの言葉に合わせ、ヘボムがタブレットをギジュンに提示する。そこには鬱蒼とした山の奥地にある三つの建物が映っており、確かに誰かを監禁するにはうってつけの場所に見えた。
「しかし……三ヶ所もあるのか」
それも、すべて逆方向だ。候補があるのは助かるが、今からしらみ潰しに探していたら、きっとギソクの救出は間に合わない。
深刻な顔でタブレットを凝視するギジュンに、隣から軽い声が聞こえてくる。
「全員で手分けして探せばいいんじゃね? ボンサン組で一ヵ所。ジュウン組で一ヵ所。で、あんたら二人で残り一ヵ所」
ジュンモにしては冴えている案だったが、それを実行するにはあまりに大きなリスクがあった。
「効率はいいが、現実的じゃない。ギソクは恐らく俺を襲った殺し屋と一緒にいる。あれと対峙して生きていられるのは、現状俺だけだ。つまり、俺が行った場所がハズレなら、かなりの死人がでることになる。……それに」
ギジュンは言葉を区切り、ヘボムを見て告げる。
「イ会長が本当に味方かどうか、信じられる根拠がない」
「……そうですね」まっさきにグムソンの裏切りを知ったヘボムだ。失望の度合いはギジュン以上だろう。
そう、グムソンが裏切っているのは確かなのだ。息子かわいさに父親が手を貸しているとも限らない。
ギジュンとしてはジュウンを疑いたくはなかったが、弟の命がかかっている。下手な選択肢は取れなかった。
ジュンモはふたりの意見を聞いて嘆息をつく。
「ああ、検事さんが裏切ったんだったな……忘れてた。じゃあ、一個ずつ確認していくしかねえってこと?」
三ヶ所の位置は、それぞれここから三十キロ以上もある。移動時間を考えると、それこそ時間が足りないだろうとギジュンは頭を悩ませる。
せめて、もう少し情報があれば。
これ以上の後悔はしたくない。出発する前にまだ精査していこうとヘボムに提案し、ラップトップへ向かったギジュン……だったが、念頭から外れていた来客が視界に入り込んできた。
「よぉ、ギジュン」
「! テファン兄貴」
テファンだった。予期せぬ兄貴分の登場に、チュンソクは驚愕のあまりにガタッと派手な音をた立てて後退していた。ビョンホのデスクにぶつかり随分なリアクションを取っていたが、テファンは横目で「久しぶりだな」と挨拶するだけにして、ギジュンに視線を戻した。
「チャ・ヨンドから情報取ってきたぞ。絞ったっつう隠れ家の三ヶ所、見せてくれるか」
「ヨンドから? おい、お前何者な――」
突然の増員に訝しげな顔をしていたジュンモが、元凶の名を聞きしっかりとした敵対心を持ってテファンを睨みあげる。
「常務!」しかし、上司の命の危機を察して即座に止めに入ったのはもちろん、チュンソクだった。
「こ、この方はギジュン兄貴の兄貴分で、オ会長の側近だった方です。……務所上がりですので、敵にまわさないほうが」
「……へえ」
ジュンモは素直に吠えるのをやめ、半歩後ろに下がった。ギジュンの恐ろしさはよくわかっているためか、その兄貴分がいかに危険かはさすがにもう理解できたようだ。
ジュンモから視線をテファンに戻したギジュンは、ヘボムに隠れ家の写真を見せるよう指示した。
「これが、私たちが探り当てた場所なんですが……」
テファンはヘボムからタブレットを受け取り、その三つを確認する。三秒もかからずテファンはタブレットをテーブルに置き、一枚の画像を指さした。「間違いない、ここだ」と。
指されたのは、汝矣島から車で三十分ほどの距離にある寂れた山荘だった。
「兄貴……この情報は確実か」
ヨンドから直接聞いたなら信憑性は確かなのだろうが、ヨンドは嫌なほどに頭が切れる。偽の情報を掴まされている可能性も捨てきれなかった。
テファンはギジュンの問いかけに、「確かだ」と即答した。
「『お前に逃げられたから弟を殺して首を持っていってやる』――そう奴に伝えたら、笑ってあっさり監禁場所を教えてくれたよ」
「……そうか」
ヨンドはよほどギジュンを壊したいらしい。腹の立つ笑みを浮かべて了承したのだろう顔が思い浮かび、殺意に拍車がかかる。
だが、確かにそれなら偽の情報ではなさそうだと、ギジュンはテファンに礼を告げた。
「ありがとう兄貴、この恩は忘れない」
テファンは「勘違いするな」と切り捨てた。
「言ったろうが。これはお前にけじめをつけるさせるためだ。お前ら兄弟のためじゃねえ」
そう冷たく突き放しながらも、テファンがこちらを案じているのが伝わってくる。どこまでも硬派な男だ。己の不器用さは間違いなくテファン譲りだと、ギジュンはひそかに思った。
「お……おいおい、随分と珍しい顔だな」
「よぉ、ビョンホ。久しいな」
テファンの視線がよそに逸れたのにならい、ギジュンもそちらに顔を向ける。バットを作り終えたのだろう。ビョンホは両手に特製のそれを持ち、テファンの存在に目を丸くしていた。
「もう出られたのか?」純粋に尋ねたビョンホに、テファンはギジュンを顎で指して答えた。
「ああ。ギソクを拉致した男に頼まれてな、ギジュンを殺してくれと」
「……なるほど」
ビョンホはギジュンに視線を動かした。ギジュンが涙を流すまでに何があったのか、テファンの台詞から彼なり察したような顔だった。
神妙にため息をつくと、バットをギジュンに手渡し、その顔を見上げて言う。
「特別に一番重いやつをつけておいた。ゲス野郎をぶち殺して、弟を救ってこい」
「……ああ、ありがとう、ビョンホ兄貴」
以前、ビョンホとチュンソクの遺体が横たわるこの場所から回収したバットが、生きたビョンホから手渡される。その事実が弟を救う希望となり、ギジュンの背中を押した。
常人なら片手で持てないだろうそれを、軽く視界まで持ち上げて確認する。確かに、質量が増えていた。前回ジュンモが雇った傭兵たちを殴り、叩き潰し、惨殺した際のものより、殺傷能力が上がっているようだった。
これなら刀も通さないし、化け物じみた巨体も粉砕できる。もう二度と圧されないで勝つイメージを脳内で構築し、ギジュンはバットを地面に下ろした。
武器も手に入れ、ギソクの居場所もわかった。準備もできたことだし今すぐ出発しようと、ギジュンはヘボムを振り返る。
テファンはギジュンの動きを察し、そのつもりだったのだろう言葉を口にした。
「どうせついでだ、俺も行こうか? ギジュン」
ギジュンはテファンに視線をやる。つい数時間前まで殺し合いをしていたとは思えないそのやり取りに、ギジュンは己が人生をやり直すことでいい方向に進んでいる未来がひとつでもあるのなら、自分も少しは誇れるかもしれないとそう感じた。
だが、それと山荘に連れていくのとでは話が違った。気持ちはありがたかったが、ギジュンはこれ以上、今この場にいる前回死んだ人間たちをこの一件に巻き込まないと決めていた。
「いや、大丈夫だ兄貴。これは俺が原因だ。ヨンドだけは、自分ひとりで殺したい」
有無を言わせぬ物言いに、テファンが食い下がってくることはなかった。
「必ず殺せよ」
ただ、強い視線がギジュンへと向けられていた。
「ああ、すべてを終わらせる」
誓う、兄貴たちの名にかけて。
ギジュンの言葉に、テファンは昔のように大きく笑ってくれた。

 

 

「すぐに撃てる状態にしておけ、ヘボム」
山荘に着き、車を降りたギジュンはバットを片手に背後を振り返る。運転席から降りてきたヘボムは、ギジュンの声にこくりとうなずいた。
本当は連れてきたくなかった青年を見やり、何かあれば躊躇いなく引き金を引けと命じた。もし弟を救えてもヘボムを死なせてしまったら、ギジュンは自分がギソクと幸せにはなれないことをよくわかっていた。
それでもこんな危険な場所へ連れてきたのは、ヘボムを蝕み滅ぼさんとする自責の念を見ないことにはできなかったからだ。いくらギジュンが「お前は悪くない」と言おうと、自分がギソクを送り出してしまったという事実がヘボムの中から消え去ることはない。
――前回の人生で、キャンプ場で弟を引き留めなかった俺のあの、壮絶な悔恨のように。
ギソクを愛し、護りたいという想いはギジュンと同じだ。そのためなら死なないよう本能的な力が働くことを経験上知っているため、ギジュンはヘボムが同伴することを許可した。「ギソクのために死んでも死ぬな」と強く言い聞かせて。
同意したヘボムを連れて建物に近づく。長い間使われていないように見えるコンクリート製の山荘は、人の気配ひとつないように感じられた。
「入り口……は正面は避けたいな。裏のほうに回ろう」
「はい」
正面玄関をスルーし、裏の勝手口へ進む。パスキーを入力して入るタイプの扉に、見た目にそぐわず最新のセキュリティが敷かれている一点に置いて「ここで間違いない」という確信が胸に湧いた。
ヘボムの銃で壊して入ってもよかったが、侵入者に気づいた途端ギソクを殺すかもしれない。リスクを取れなかったギジュンはヘボムを振り返った。
「解錠できそうか?」
「問題ないです。ハッキングツールを持って来てますので」
予想の範囲内だったのか、ヘボムは手慣れた手つきで鞄から電卓のような小型の機械を取り出した。要領よく扉のパスキーに繋ぎ、十秒も経たずに施錠を解除した。状況が状況でなければ口笛を吹いていただろう手際のよさだった。
「ヘボム、俺の後ろにいろ。離れるな」
はい、とヘボムが返事をしたのを確認し、ギジュンは重い鋼鉄の扉を開けた。ギィ…と独特の音を立てたそれを片手で押さえながら、室内の様子を見回す。扉の先は一本道の通路になっており、先に上階に登る階段と地下へ続くのだろう階段が見えた。
――変な造りだ。
そう感じながら一歩足を踏み入れたギジュンだったが――それ以上、その脚が自力で前に進むことはなかった。
シュー! と突然通路の上部から噴射された濃煙。
「……ッ!!」
もろに吸い込んでしまったギジュンは咄嗟に背後を振り返り、まだ間に合うであろうヘボムの身体を力の限り突き飛ばした。
「ギッ、ギジュンさ……!!」
「逃げろ!!」
すでに意識が遠退きかけているのがわかったギジュンは、せめてヘボムだけでも無事に逃がさねばと扉を閉めようと動く。何の薬か知らないが、吸い込んですぐに弛緩していくほどだ。自分がこれからしばらく使い物にならないことは明白である。せめてヘボムに無事でいてもらわなければ、何もかもが絶体絶命であることを瞬時に判断していた。どこからか狙撃音が聴こえ、外にいるヘボムを狙っているのがわかる。
「ッ……クソ!」
ヘボムはその場から駆け出すしかなかった。
ギジュンは重い扉がゆったりと閉まっていく隙間から見えたヘボムの背中に、どうか無傷で安全な場所に避難してくれと強く願った。
気絶させられるなど人生最大の失態だ――そう感じたときにはもう、ギジュンの意識は闇に沈んでいた。

Chapter 11: 【山荘・Part1】

Summary:

眠らされたあと、目覚めたギジュンは拘束されていた。目の前には事故に遭い、拉致されたギソクの姿が。
ギジュンは敵の正体を知り、弟を護れない地獄を味わう羽目になる。

※同意のない性行為、意識のない人物へのレイプ(本番なし)を含みます。ご注意ください。

Chapter Text

目を覚ますと、見慣れない部屋の床に乱雑に転がされていた。
両腕は後ろで頑丈な手錠で拘束され、鋼鉄の柱に括られビクリとも動かない。気絶する時まで手にしていたバットも、遠く離れた壁際に立て掛けてある。ご丁寧なことに、予備で衣服のあちこちに仕込んでいたナイフや暗器の類いまで奪われていた。きっと、スマホも壊されてないだろうと考える。もし場所を移されていた場合、GPSを追ってヘボムやジュンモらが助けてくれる可能性もあるが、今こうして捕まり最悪な状況になっていることからして、恐らくそれは望み薄だ。
唯一助かったことといえば、ヘボムを逃がせたことだ。彼なら無事でいてくれているだろうことを考えれば、まだ希望は潰えていなかった。
つまり、気絶してからどのくらいの時間が経過したかは定かではないが、時間さえ稼げば助けは来るということだ。
ギジュンは痛む頭をクリアにして、現状を整理しようとする。
だが、まっさきに頭に浮かんだのは、失態を犯した自分への腹立たしさだった。
「何が伝説の男だ……聞いて呆れる……」
「おや。目が覚めたみたいですね」
「……!」
突如聞こえた声にギジュンは身を固め、身体をひねって上体を起こした。そのまま背中を柱に凭れさせ、声がしたほうに視線を向ける。
――視界に広がった光景に、息をのむ羽目になった。
「……――」
――そこにあったのは、三メートルほどのコンクリート台に寝かせられたギソクと、それを囲っている二人の男の姿だった。
「ギソク……ッ!!」
「……へえ。あんた、そんな顔もできたんだな」
「!」
知った声の主。ギジュンは憎悪に理性が引きちぎられる思いを抱きながら、そちらに顔を向けた。
「イ・グムソン……」
「ああ、私もいますよ、ギジュンさん?」
横になっているギソクの側に立っていたのは、グムソンと、憎いヨンドのふたりであった。
忌々しい男らから視線をギソクへと向ける。ギソクは拘束こそされてはいないが、死んだように動いていなかった。交通事故の際の怪我か、額には血がにじんでいる。
ギジュンはいち早く状況を理解しようと努力するが、目の前で嗤っているヨンドの顔を見ていてはまともに思考も動かなかった。
こうした危機に陥るのは初めてのことだが、ギジュンは焦ったりする性分じゃない。銃口を突きつけられてようが、ポーカーフェイスを貫き状況を打開する方法を模索して、通常通りの自分でいられる。
だが、最愛の弟が捕らえられている場合は話が別だった。
自分が痛めつけられるのなら、まあ好きにすればいいと思う。あとで何倍にも膨らませて代償を払わせてやればいいだけの話だから。
けれど、ギソクを傷つけられるとなるとギジュンは昔から怒りのあまりに脳が思考停止状態となり、冷静に判断することもできなくなる。憎悪に支配され、目の前が見えなくなってしまう。
今もそうだった。
自分も捕まり、ギソクも捕まっている。本来なら冷静に敵と渡り合い、応援を呼ぶ方法を考えたりしなければならない状況だ。
しかし、ギジュンの頭に浮かぶのは、血が沸騰してしまうのではないのかと思うほどの猛烈な怒りだっま。ここでキレてもどうにもならないし、ギソクが救われるわけじゃない。俺が冷静でいなければ状況を悪化させるだけだ、抑えろ、抑えるんだとギジュンはゆっくりと深呼吸をするが、やはり気絶している弟の前でヨンドが下衆た笑みを浮かべていると、とても冷静ではいられなかった。
苦肉の策で視線をヨンドの鎖骨辺りに落とし、至って冷静な表情を作り出す。
今ここでギソクを救えるのは俺だけだ。失態を犯したためにギジュンはこうして弟を危険に晒し、二人して捕まっている。それを忘れるなと自分を叱責し、ギジュンはヨンドに話しかけた。
「随分な執着だな……キム先生、だったか? 兄弟そろって生け捕りにするとは」
恐れ入るよ。平静を装い見上げると、ギソクの足元に立っていたヨンドは少しだけ口角を上げて、わけないですよと呟いた。
「あなた方の計画のすべてを、検事さんに教えていただきましたから」
ね。そうヨンドが笑いかけた先にいたグムソンは、無表情でこちらを見下ろしていた。思っていたよりも最悪の裏切りに頭痛が増した。
すべて漏れていたのなら、何もかもがヨンドの手のひらの上であったことになる。腹立たしさは想像の範疇を越えていた。
「いやぁ、私も驚きましたよ、ええ。まさかシマネが殺されるとは思ってませんでしたから。その上? 私のことを探り当て、ジュウンとボンサンに手を組ませて潰しにかかってくるとは……ギジュンさん、あなた、弟さんのことになると途端に知能が上がるようだ。本当に人が変わりますよね――ああ、そう。十一年前のあの夜のように」
「……ッ!」
ガチャン! 殺意が本能的にギジュンの身体を動かさせる。繋がれていなければ殺されていただろうギジュンの殺気を浴び、ヨンドは「おお怖い」と嘲笑を浮かべていた。
「まぁ、私の役目はここまでです。あとは検事さんにお任せしましょう。すべて、彼の計画ですから。『ナム・ギジュンの前でナム・ギソク専務を殺すんです』……ってね」
「!……グム、ソン、お前」
ヨンドのまさかの発言に、ギジュンはグムソンから視線が外せなくなった。絶望に似たその顔を見て満足したのか、ヨンドは宣言通り「では、私はバッティングセンターにいる犯罪者どもの取り締まりがありますので」とギジュンにさらに貶しめて階段を上がっていった。

地下なのだろう空間に静寂が落ちる。
先に口を開いたのはギジュンだった。
「なんでだ……」
「……なんです?」
「何で、こんなことをした……会長の座も譲ってもらえただろ」
声を荒らげる気力もなくグムソンを見上げたギジュンに、グムソンは予想外の台詞を口にする。
「あなた方の計画があまりに杜撰だったからですよ」と。
「なに……?」それはどういう意味だと睨んでくるギジュンをグムソンは一瞥し、飄々とギジュンの身体から力を抜く発言を口にした。
「チャ・ヨンドは狡猾だ。暗殺しようとしても恐らくすんでのところで逃げられる。だから僕は計画を変えたんです。初期の段階で僕の裏切りを奴に知られたら、全体像を掴めなくなってしまう。それは愚策と考え、奴にこう進言したんです。『僕は今も変わらず、ジュウンとボンサン、両方を望んでいます』と。父が後継者に指名しようと関係ない。邪魔者を全員排除するまでは協力してもらいますよと、奴に伝えました。あとは簡単でしたよ。ナム専務……いや、ギソクさんを拉致させ、ヨンドをここから動けないよう手配し、その間に奴のオフィスを家宅捜索させ、機密文書を押さえる――はい、そうです。お察しの通り、機密文書もUSBメモリーもすべて差し押さえ済みです。どうです、完璧な計画でしょう?」
「……お前」
スマートフォンの画面をこちらに見せてくるグムソンに従い、液晶に視線を向ける。そこには押収されたのだろう、ギジュンが前回ヨンドの部下から奪ったメモリー入りのアタッシュケースが映されていた。
「言っておきますが、ウソではないですよ。あの品性のないク・ジュンモにでも連絡して聞いてみますか」
父伝にヨンドがバッティングセンターへ行くことは伝えたので、今ごろ暗殺への手回しで忙しいでしょうが。なんて何事もないように明かしてくるグムソンに、ギジュンは胸を撫で下ろしたかった。
本当に「それ」だけだったなら、手錠が外れた途端抱きついてキスをしてやってもいいくらいだ。
だが、それはできなかった。ギジュンの本能が、こう告げていたからだ。
――違う。こいつは決して、味方ではないと。
なぜなら、どう足掻いても説明できないことがひとつあるからだ。
「じゃあ、なぜ……それを、俺たちに共有しなかった?」
ギジュンのもっともな問いに、グムソンは一瞬だけ返答を迷っていた。
だが、思い出したように質問に答えた。
「言えるわけないでしょう。どこで盗聴されているかもわからないのに。それにギジュンさん、あなたが『はいそうですか』と弟さんの拉致を承認してくれるとは思えなかった。隠した理由はただそれだけで――」
「いや……おかしいだろ」ギジュンは耐えきれず、被せるように告げた。
「お前の計画は、俺たちが考えたものの二番煎じだ。べつに弟を拉致せずともお前が家宅捜索した時点でヨンドは孤立無援になり、否が応にも文書を移動させていたはずだ。つまり、テファン兄貴を味方につけたらあとはもうヨンドを始末するだけでよかったのに、お前は、さらに殺し屋を雇った。あまりに不自然な計画だ……これじゃ、これじゃあまるで、お前の計画の目的はヨンド潰しではなく――」
そこまで口にし、ギジュンはハッとしてグムソンを見上げた。
――いや、違う。そんなわけがない。
手に汗が滲む。呼吸が荒れる。
だが、グムソンの視線が向いている先がギジュンに確信を呼んだ。冷や汗が頬を伝っていく。
「――……」
グムソンは、気を失っているギソクを、ひどく熱の孕んだ瞳で見つめていた。ギジュンのことを気にもせず、その陶器のような頬に指を滑らせ、眼鏡を失った寝顔をじっと見下ろしている。
その横顔に狂気に近いなにかを感じ取り、ギジュンは本能的に声を発していた。
「弟から……ギソクから、離れろ」
想像よりも低い声がグムソンを牽制する。グムソンはギジュンに声をかけられて、ようやく己がしていたことに気づいたようだった。
グムソンはギソクから手を離し、ゆらりと底のない双眸をギジュンに向けた。
「どうして、気づいてしまうんです?」と、まったくの無表情で口にして。
「……!」
そう言うがいなや懐からナイフを取り出したグムソンに血の気が引いた。「やめろ……!」と届くはずもない懇願を漏らすが、グムソンはギソクを見つめたまま、ナイフを片手に呪詛のようなそれをギソクへと降り注がせた。
「ギジュンさん、先ほどおっしゃいましたよね。『会長の座を譲ってもらえただろ』って。僕も、すごく嬉しかったんです。ずっと父に認めてもらいたかったから、父の跡を継げて本当に嬉しかった。でも、座ってみて気づいたんです。『ああ、違う、僕が本当に欲しかったのはこれじゃないんだ』と」
ナイフを持っていないほうの右手でギソクの首筋を撫で、グムソンは恍惚そうに目を細めた。
「僕は、トップの座が欲しかったんじゃない。父のようになりたかったのだと。父のようにギソクさんに慕われ、彼と共に働き、会社の未来を生きたかったんだと、空白の隣を見て、そう思いました」
ギソクのいっさいの乱れのない襟元に触れ、グムソンは「彼に僕だけのために働いてほしかった」と口にした。
彼が困った顔も、彼が呆れた顔も、彼が僕に笑いかける顔もすべて僕だけのものにしたかった――そう呟くグムソンの狂気を孕んだ目に、ゾッと背筋が粟立った。
明らかに、ギソクに何かしようしているのは間違いなかった。何よりも、その左手に握られているナイフがギジュンの焦燥を煽っていた。
注意をこちらに逸らす必要がある。ギジュンはグムソンを刺激しないよう、努めて冷静な声で意見を述べた。
「そうか……なら、起こして訊いてみたらどうだ。伝えないとわからないだろ」
正直なところ、この状況で好意的に受け取る人間がいるとは思えない。もう組織から足を洗おうとしているギソクなど、とくに。その上、交通事故に遭わせ気絶させ、こんな山奥に拉致して監禁しているのだ。どんなに能天気な人間でも第一声は罵りの言葉に違いない。
だが、正論を振りかざしてはいられなかった。
俺はいま動けない。ギソクを救うためには慣れない言葉を並べ立てでも、時間を稼ぐ必要があった。
だが、グムソンはギジュンの言葉を聞き、首を横に振った。「もう、その段階じゃないんですよ」と、恨めしそうにギソクに視線を向けた。
「ギソクさんは昨日、一線を越えた。よりによってク・ジュンモのようなゲスとデートして、自分の価値を下げたんです。……わかりますか? このひとは、素顔を見て一目惚れしただけの男とあんなにも簡単に、あんなにもあっけなく! 誘いに乗ることができるような軽薄な男なんだ……!」
グムソンはそう言って、意識のないギソクに向けて声を荒らげた。
歪んだグムソンの言い分に「イカれてる」と心から感じたが、同時に二日前、小屋での会合の際にやけにジュンモに突っかかっていたグムソンの姿を思い出した。
――小屋を出ていく際、ギソクを強く睨んでいたその顔も。
ああ、クソ。
裏切る予兆はあったのに、ジュンモに気取られて見落とした――ギジュンは奥歯を噛み締めたが、その後悔が何の役に立つわけでもない。すぐに対処しなければこいつは弟に何をするかわからない。
ギジュンは壁伝いに腰を上げ、グムソンと同じ目線で語りかけた。弟に執着するストーカーまがいの男のメンタルケアなんて血反吐を吐いてでもしたくなかったが、そうするしか打開策が思いつかなかった。
「グムソン、勘違いするな。弟は場を収めるために呑んだだけだ。他意はない」
少なくとも、ギソクが尻軽だからオーケーを出したわけではない。そう事実でしかないことを伝えたが、グムソンはギジュンを視点の合わない瞳で見つめると、脈略のない話をしはじめた。
「ギジュンさん……十四年前のことを、覚えていますか? そう。あなたが、弟さんをうちの屋敷に連れて来た日のことだ。僕はね、鮮明に覚えているんです。まだオ会長の屋敷に住んでいなかった頃ですが、完璧に思い出せる。厳つい男ばかりに囲まれて育った十二歳の僕に、優しく微笑んで手を差し伸べて、一緒に遊んでくれた当時のギソクさんのことを」
「……グムソン」
ギジュンを見ながらその遠くの一日を見つめている双眸に、記憶の中から問題の日に意識を馳せる。
確かに今から十四年前、ギジュンはジュウンの屋敷に弟を連れ、挨拶にしに行った記憶があった。――日本のヤクザとの抗争を収め、正式にギソクの受け入れが認められたからだ。
車で待たせていた弟の腕を引き、ギジュンはその脚でジュウンの屋敷の敷居を跨いだ。緊張していた弟の背を押して、ジュウンに挨拶させたのを覚えている。
――もし、時間が戻せるのなら、俺は間違いなくこの日に戻ることを選ぶだろう。
なんせ、弟を裏社会に入れてしまった日だ。それも、俺は誇らしさすら感じていた。救えない。緊張していた弟の真意になど、気づきも知ろうともしなかった。
ジュウンに挨拶を済ませたあと、会長のところへ向かいテファンにも顔見せをしようとしたのだが、途中、ほかの構成員に外せない要件を持ちかけられた。ギソクに聞かせる内容でもなかったため迷ったのだが、ギソクはすぐに察して『中庭にいるよ』と兄の傍を離れていった。
それから十分後、中庭で見たのは少年と石打ちをして遊ぶギソクの姿だった。
――ああ、これか。
そこまで思い出し、ギジュンは弟と遊んで嬉しそうに笑っていた少年の影をグムソンに重ねた。
「覚えてるよ、ギソクは子ども好きだったからな」
グムソンの独り言のようなそれに答える。グムソンはギジュンの答えを聞き、無感情だった顔に表情を乗せた。
ひどくつらそうな、痛ましい色を。
「僕はあの日、初めて恋をしたんです」という告白とともに。
「父さんのオフィスからあなたと出てきた彼を見た瞬間、恋に堕ちていました。これまで屋敷にうろついてた輩とは違う、まるで天女のような彼に。あまりにきれいで、幼い僕はドキドキして、中庭に走って逃げた……でも、そこに、ギソクさんがやってきたんです。『暇なら一緒に遊ぶか?』って。みな父を恐れて僕を腫れ物のように扱い、必要以上に話しかけないなか、彼は僕をひとりの人間として扱ってくれた……。僕がイ・ジュウンの息子だと知っても、ギソクさんは態度を変えたりしなかった。『じゃあふたりだけの秘密だな』と笑って、たびたび隠れて勉強を教えてくれたりしました――十一年前、あの事件が起きて、父が僕を後継者から外すまで」
グムソンはそこまで言うと、瞳を潤ませてギソクに視線を戻して告げた。
「一生に一度の恋でした」と。
「…………」
ギジュンは顔をしかめた。
じゃあ、なぜこんなことをする? なぜギソクを殺そうと計画する? 愛しているのならなぜ、ギソクをこんな危険に晒しているのだと、最愛の人間に切り傷ひとつ付くことさえ許容できないギジュンにとって、グムソンの行動は理解不能だった。
だが、ギジュンの憤りはすぐに解消された。
グムソンは、ほとんど泣きそうな顔で呪詛を吐き出した。
「……なのに、彼はあの事件の日以降僕にいっさい関わるのをやめた。それどころか、いつの間にか僕が継ぐはずだったジュウン組の後継者に選ばれ、僕が父にもらうはずだった期待を一心に受けて……それで、それなのに、彼は」
その後に続く言葉は、もう聞いていた。あの小屋で。二日前。本人の口から、ギソクに向けて叫んでいたのを聞いていた。『なんであんたは、そんな風に、大したことないように振る舞える』のだと。
人は恋心を拗らせると、こんな暴挙まで取れるのか。さめざめとグムソンを見つめるが、地位や権力を狙っての恨みではないのなら、まだ止められる可能性は高かった。
だが、ギジュンが思っていたよりも事は深刻だった。
グムソンのギソクに対する感情は、とっくに限界を超えていたのだ。
グムソンは強く唇を噛み締めて、ギソクの頬に手を置いた。
「どうしても理解できない、許せないんだ……。彼は、ク・ジュンモなんかを選んだ。十五年近く想い続けている僕の存在を無視し続けきたのに……ッ、よりによって、その日顔で好きになっただけの男を、彼は!!」
「……おい!」
グムソンは突然左手に握っていたナイフを強く握り締め、慟哭に合わせて台へと乗り上げた。
「僕のモノにならないのなら、せめて誰のモノにもならないままで死んでほしい」――そう言ってギソクに馬乗りになり、ナイフを両手で持って心臓に向けて振り上げる。
「――――」
――ダメだ。
グムソンの殺意がギソクを襲うのを見て、霊安室で冷たくなっていた弟の姿が脳裏に甦る。とうてい、受け入れることなどできない絶望が。
なぜ、どうしてだ、結局グムソンがギソクを殺すのか? こればかりは避けられない運命だとでも言いたいのか?
――じゃあ、いったい何のために、俺に人生をやり直させたりした?
信じもしない神に悪態をつき、居もしない悪魔に唾を吐く。
ああ、いや、関係ない。俺からもう一度弟を奪ったら、神だろうが悪魔だろうが何であろうが、必ず息の根を止めて殺してやる――そうだ、この世界のすべてを焼き払ってでも。
猛烈な憎悪が身を灼いた。
視界でギソクの命を終わらせようと突き立てられようとせん鈍色に、ギジュンの視界が赤く染まる。咄嗟にその場から駆け出すが、鋼鉄の柱に手錠で拘束された身体は衝撃に軋むだけだ。それでも手首が折れるほどに強く前に進んだが、壁から部屋の中心にあるコンクリート台までは二メートルは離れており、現状ギジュンができることは叫ぶことのみだった。
もはや刺激しない、という選択肢はなく、グムソンに抱いた悪感情のすべてを注意を引くために利用する。
「やめろグムソン……お前、一度もギソクに伝えないまま逃げきる気か……!? 言っておくが、ジュンモはギソクの許可が出るまで、指の一本も触れたりしなかったぞ……!! なのに、お前はなんだ……? 勝手に惚れて、勝手に傷ついて勝手に恨んで、挙げ句の果てにギソクの意思を無視して殺すのが、お前の『一生に一度の恋』なのか?」
「……ッ、黙れ」
グムソンの手が震えていた。ギジュンは目を細める。
ああ、そうだ。――こいつは、俺に向けて引き金を引く勇気もなく、自殺しようした情けない男だ。クリスチャンでありながら自死を選択するほど、気の弱いガキだ。
「お前に! 僕の何がわかるんだよ……!」そう叫んだグムソンだったが、ギジュンはもう取り乱したりはしなかった。
「少なくともお前よりはわかってる。お前は、ギソクの純粋な優しさにこの上ない仇を返した男だ。独りで寂しそうにしていたガキを見なかったことにできなかったギソクを、十年越しに惨たらしく殺そうとしたクズだ。『ク・ジュンモのようなゲス』……? ハッ。ふざけるな。お前のほうがよっぽど、ジュンモよりゲス野郎だろう」
「~~っ、黙れ……ッ!!」
癇癪を起こして叫んだグムソンに、ギジュンは口角を上げる。いいぞ、そのまま標的を俺に変えろとグムソンの怒りを煽る。両手は確かに使えないが、至近距離に来れば脚や歯を使えばいくらでも殺す方法はある。
ジュウンには申し訳ないが、こうなったらもう殺すしかないとギジュンも覚悟を決める。
弟の命より優先されるべきものなど、この世にはないのだから。
「ぼくは、僕はただ……」
台のほうから聞こえてきた声に視線を上げる。激昂し、こちらに向かってきているグムソンがいると踏んでいた。
――だが、グムソンはナイフの先端をギソクの心臓の真上ぴったりに添え、体重をかける体勢でうつむいていた。
「……、……」
心臓が、いやな音を立てて軋むのがわかった。呼吸が乱れそうになるのを自制し、息を殺す。
知っていたからだ。
グムソンがあのまま前方に倒れるだけで、ギソクの心臓が止まってしまうことを。
「グムソン」
ひとり戯言を繰り返す男の名を呼び、最後の牽制を口にする。
「もし、俺から弟を奪ったら、俺はお前だけでなくお前の大切にしている人間全員を殺す。たとえ、そのなかに……俺の敬愛するジュウン兄貴が含まれていようと、関係なく」
ギジュンの言葉に、グムソンは少しだけ肩を揺らした。
だが、ナイフの切っ先を引っ込めることはなかった。
グ…と押し込まれていく刃先が、やけにスローに映る。受け入れがたいあまり、視界のすべてが作り物のように見えたが、深々と埋まるはずだったそれは、一ミリたりともそこを動くことはなかった。
代わりにギソクを襲ったのは、大粒の雨だった。
「ふ……うぅ゛……殺せる、わけない……やっぱり……」
「……グムソン」
グムソンはだらりと力なく両手を下ろし、ギソクに股がったまま泣いていた。ガランガランとアスファルトに転がり落ちたナイフを尻目に、ギジュンもドッと脱力してうなだれる。
やはり、自分の手を汚すことはできない性分だったかとグムソンを見やった。父親から遺伝されたものが、ちゃんと備わっていてよかったと安堵する。
グムソンの行為はとっくにギジュンの中の最低ラインを越えていたが、ジュウンが前回ボンサンを殺してでも護りたかった実子だ。ギジュンとしても、ルール通りに何かしらのけじめをつけさせる程度に収めてはやりたかった。
――もちろん、この手で片目を抉り出すくらいのことはさせてもらうが。
ギジュンはいまだギソクに股がり顔を覆って泣いているグムソンに「おい」と声をかける。グムソンはゆるゆるとこちらに視線を向けた。
「満足したなら手錠外せ」
「……ギジュンさん」
この期に及んで死の恐怖を浮かべたグムソンに辟易しながら、ギジュンはもう殺意がないことを証明する。
「殺しはしない。お前が弟を解放するなら。俺は恩義あるジュウン兄貴に、唾を吐きたくはないからな」
お前と違って――。冷たく言い放って睨んでやれば、グムソンは少しは反省したのか見るに耐えないスピードでギソクの上から降り立った。その脚で今すぐこっちに来て俺の拘束を解け、そういっそ怒鳴りたいほどには苛立っていたが、グムソンの横顔があまりに悲痛だったため奥歯を噛んで耐えた。
「ギソクさんは……どうして、僕を避けたんでしょうか」
あんなに、優しくしてくれていたのに。
唐突にこぼれ落ちたそれ。いちいち考えずともわかりきった答えに頭にきてそれこそ怒鳴りたかったが、恩義あるジュウンの笑顔を思い浮かべ、ギジュンは平然と答えてやった。
「そりゃ、会長に言われたからだろ。『息子には関わるな、あれには光の道を行かせる』とか……そういうことを。俺がポムヨンドゥン組を壊滅させた直後だ。……恐ろしかったんだろ。息子のお前が、俺のような怪物の餌食になることが。ギソクも兄の俺が犠牲になった後だ。自分がいる世界のことを自覚して、まともに子どものお前に近寄れなくなったんだよ、きっと」
ギソクは、お前が知っている通り、優しい奴だから。
「……!」ギジュンの言葉を聞き、グムソンは目を見開いてこちらを見た。言われないとそんなことすらわからないのかと辟易する。
しかし、グムソンはぼろぼろと涙を流し、意識のないギソクの前に膝をつき謝罪を口にした。
ごめんなさい、ごめんなさいと、いつもの傲慢で高飛車な態度をかなぐり捨てて、アスファルトに頭を垂れながら許しを乞うていた。
「ぼく……僕は……っ、なんてこと……」
もうギソクに触れもしていない改心した姿を見て、ギジュンは運命を回避できた安堵感と、子守りをした疲労感にいっそここで一眠りしてしまいたいとすら思った。
それから五分、くらいだろうか。ひとまず平静を取り戻せるほどには懺悔し終わったのか、ずび、と鼻を鳴らしたグムソンがこちらに視線を向けた。
「すみ、ません……今すぐ解放します」
「ああ。そうしろ」
腕が痺れてきた。と悪態をつけば、グムソンは慌てた様子で胸の内ポケットから手錠の鍵を取り出した。
「すぐに――」
こちらに向けて、グムソンが足を進めたのが見えた。ギジュンはそれを、正面から立ったまま見ていた。手錠が外れたらとりあえず目の前のクソガキを殴り失神させて、ギソクの無事を確認しようと、そう考えながら。
だが、突然右側から重い鉄の擦れる音が響き、ふたりして顔をそちらに向ける。
ヘボムだ。そう思った。
でも、違った。
――ギジュンはそこにあった複数の顔を見て、事態を察し切羽詰まったようにグムソンに叫んだ。
「おい早く手錠を外せ……!!」
「え゛っ、な……お前ら何でまだここにいる――」
大股で階段を降りてきた男らはそのまま全力で駆け出し、反応できていなかったグムソンの頭部をその勢いのまま殴り飛ばした。
「グムソン!」
悲鳴すらあげることなく吹き飛ばされ部屋奥の壁に激突したグムソンは、こめかみを強打し、一瞬で気を失ったようだった。ギジュンは冷や汗が頬を伝うのを止められなかった。
――隣に立っている男が、凄まじい殺気をこめてこちらを見ていたからだ。
臆することなく右へと顔を移動させる。見知った顔がそこにいた。
「数時間ぶりだな、ナム・ギジュン」
「……ああ。会いたくはなかったが「」
それは、駐車場でギジュンを追い込み、スマートフォンを奪っていった殺し屋の一人だった。人の気配がするほうを見てみると、もう一人もこちらに殺気を向けている。
だが、ギジュンの平静を奪い去っていたのは、殺し屋たちではなかった。
ああ、クソ、クソ!
ギリ、と奥歯が鳴る。できれば悪夢であってくれとさえ思った。
「いや~、ずいぶんと長話でしたねぇ。待ちくたびれて寝てしまうかと思いましたよ、私は」
「……ッ! チャ・ヨンド……っ」
そう。――ここにはもういないはずの男が、悪意に満ちた笑顔を浮かべてそこに立っていたからだ。
何でここにいる? そう尋ねようとした問いは、ヨンドがひけらかすように口にした言葉により声になることはなかった。
「『何でここにいる?』そんな顔ですね? ええ、どこからお話いたしましょうか」
鼻につく話し方でこちらに歩み寄り、ヨンドは手錠の鍵を拾って室内を歩き回りはじめた。
「検事さんが裏切ることを事前に気づきましてね、私。まあ、まさか私のオフィスを荒らしてUSBまで差し押さえる計画だったとは想像していませんでしたが? ひとまず終わったことだ、置いておきましょう。ともかくまあ腹立たしく思ったので、少し作戦を変えてみたんです。たとえば――この二人。イ検事はただの殺し屋だと思っていましたが、そうじゃない」
ギジュンさん、あなたには誰か、思い当たる節があるんじゃないですか?
ギソクが眠らされている台の向こうからそう問いかけてくるヨンドに、ギジュンは改めて男らの顔を見る。
わかっていた。一目見たときから。「どこかで見た顔だ」と、おぼろ気な認識があったから。
だが、思い出せなかったのだ。
――俺は、殺した奴や始末した奴の顔などいちいち覚えていないからだ。
現に今も、その傷の目立つ顔を見ても記憶から呼び起こされるものはなにひとつなかった。
「ああ……酷いお方だ。お前たちのこと、覚えてすらいないようだぞ」
癪に障る声が耳に届く。殺し屋二人はギジュンに近づくと、動けないギジュンの髪を掴んで頬を殴り、それから力のかぎり腹部を蹴り上げた。
「ガハッ……!」
バキリ。肋骨が粉砕した音がする。痛みは体質柄ほぼなかったが、激しい息苦しさに咳き込み崩れ落ちたギジュンを見下ろし、がたいのいい黒髪の男は恨みつらみを吐き捨ててきた。
俺たちは昔お前に組織を潰されたプサン組の構成員で、ずっとお前の行方を追っていたのだと。この十一年姿も見せなかったお前が突然汝矣島に現れたと聞いて、すぐに殺しに来たのだと。そこで声をかけてきたヨンドの「提案」に乗り、手を組むことにしたのだと、赤裸々にギジュンに明かした。
ギジュンは「提案?」と尋ねたが、それに答えたのはヨンドだった。
「ええ。私はどうしてもあなたに苦しんで死んでほしくてね。あと、ナム・ギソクにただならぬ想いを抱いている検事さんにも地獄を見てほしかった。それであなたをここで襲い無力化できるよう、テファンに正しい情報を流してやった。あなたが人外じみているのは知っていましたからね、警察で押収した即効性の睡眠薬を使った、というわけです」
ヨンドの話は一部朗報だった。奴は今、ギジュンを襲った場所を「ここ」と口にした。その点からして、今いる場所はあの山荘で間違いないのだ。気絶していた時間がどの程度かはわからないが、ヘボムが生きているのならこの地下を特定するのも時間の問題だ。
あとは、どうやって時間稼ぎをするか。
ギジュンが思案しはじめたところで、急に殺し屋の一人が声を荒げた。
「もう始めていいのか」と。
ヨンドはまだ話の途中だぞと辟易した様子だったが、好きにしろと男らに手を振った。
「復讐に餓えた奴らは忍耐力が足らないな……」
ゴーサインを出された男らは口笛を吹き、コンクリート台に身を乗り上げると、おもむろに眠っているギソクを抱き起こし膝の上に座らせた。
「……、……おい……何して」
ギソクが、何をされるのか。
ヨンドの「ギジュンとグムソンに苦しんでほしい」という発言からどこか頭の端で理解していたギジュンは、身動きが取れない自分の状況に冷や汗と動悸が止まらなくなる。もはや、冷静でいることなど無理だった。
「……っ」
ギソクの肌に触れ興奮している男らを冷たい眼で見ているヨンドに、ギジュンは捲し立てるように叫んだ。
「お゛い……おいやめさせろ……! お前の標的は俺だろ! ヤるなら俺にしろ!!」
「……あなたが?」
「そうだ……っ、憎い張本人だろ! そっちのほうが満足できるだろ……!」
「……だそうだ。どうだ? お前ら。天下のナム・ギジュン様がお相手してくれるとよ」
ヨンドの言葉に、ギソクのスーツを脱がそうとしていた巨体の黒髪が視線だけをこちらに寄越した。
そしてハンと馬鹿にしたように笑い、お断りしておくよと吐き捨てた。
「あいにく、お前を苦しめるためにお前の弟を犯すんでな。痛みに強いお前の尊厳なんざ奪っても、つまらねえだろ? なす術なく最愛の弟が輪姦されんの見せつけられるほうが、テメェにゃ何倍も堪えるだろ。それに見ろよ……この裏社会の人間とは思えねえ女みてえな甘いマスクに、たまんねえカラダ……。俺はなナム・ギジュン、お前の弟が美人だからヤリてぇんだよ」
「……ッ」
ギソクを膝の上に乗せている男は恍惚とした表情でそう口にすると、そのままギソクの顔を片手で掴み、うなじをベロリと舐めて見せた。その光景は想像していたよりもギジュンの嫌悪を誘発し、押し込めていた怒りを爆発させる事になった。
「やめろッ……!! それ以上弟に触れたら殺すぞ!!」
「おい殺すだってよ、こわ~」
「あのナムギジュンの弟を、お前の前で犯せるんだぞ? 普通にやめるわけねえだろ。もしかして、弟を神聖視してるタイプか?」
ならこれから見るものは拷問だな~。
ギジュンの制止など聞き通すはずもなく笑った男らは、ギソクの頬を掴むと「おい起きろナム・ギソク!」と思いきり叩いて見せた。パァン! と肉を打つ音に、弟が傷つけられている光景に、全身の血が沸騰していく。
だが、一発で目を醒まさなかったギソクを男はさらに強めにゴッと頬を殴りつけ、無理やりギソクの意識を覚醒させた。
加減もしなかったのだろう。ギソクの唇は切れて、口端に血が滲んでいた。
やめろ、頼む、せめて気を失ったままにしてやってくれと屈辱に目尻に涙が滲んだが、ギソクの目蓋は持ち上げられてしまった。
「ン……っ、……?」
「やっと起きたか、やっぱ美人は目ェ開いてるほうがそそるよな」
「な……ん、だれ、だ……お前」
背後からした声と、正面にいる赤髪の男に、意識も定まらないギソクが疑問の声を上げる。男はギソクの赤くなっている頬を掴んで、無理やりギジュンのほうに顔を向けさせた。
「おら見ろ、無様に捕まって弟がレイプされるのを見てることしかできねえ、お前の情けねえお兄ちゃんの姿をよ」
「……ヒョン?」
「っ……ギソク」
覚醒しつつある意識の中で見えた兄の姿に、ギソクが瞳を輝やかせる。ずっと弟を護りつづけてきた兄に対する本能的な安心感であるとわかったからこそ、これから起こることを阻止できない自分を知っているギジュンは絶望するしかなかった。
「え……なんで、ヒョン……捕まって――」
ギソクの瞳が収縮するのが見えた。この状況を理解したのかもしれない。ギソクは拘束されていないため逃げようと思えば逃げられたが、ギジュンにはわかっていた。
殺し屋たちは、ギソクが適う相手ではないことを。
だが、それでもギソクが黙って蹂躙されるような男ではないのもよくわかっていた。
ギソクが起きたことで興奮が増した黒髪が、ふいにうなじに噛みついた。それで何をされるのか完璧に理解したのか、ギソクは肘を使って黒髪の顔面を攻撃する。
「おおっと、危ねえ」
「っ、離せ……!」
だが、軽くいなされ両手を掴まれ拘束された。正面にいる赤髪が露骨にギソクの両脚を割ってマウントを取ろうと動いたが、素直に屈辱を受け入れるギソクではなかった。
黒髪の拘束から逃れようと素早く上体を起こし、逃げを打つ。されど、即座に首を絞められ台へと激しく引きずり倒される。
「ガッ……!」
ゴッと後頭部を打ちつけられたギソクは一瞬その動きを鈍らせた。だが、すぐに反応して目の前の赤髪の顎を蹴り上げる。綺麗に入ったからか赤髪も反撃に遅れ、その間にギソクは台を飛び下りてギジュンに向かって走ってこようとした。
「ギソク、バットを使え!!」
「!」
ギジュンはすぐさま部屋奥の武器を目線で示し、殺し屋の頭を粉砕するために持ってきていたビョンホのバットの存在を気づかせた。ギソクはすぐに反応しそちらに走っていこうとしたが──それよりも、黒髪がギソクの髪を掴んで止めるほうが早かった。
「い゛……っ!」
「じゃじゃ馬だな。ったくさすがお前の弟だ、ナム・ギジュン……」
「ギソク!」
「クソッ……! 触るな、離せ!」
ギソクは拘束から逃れようと抵抗したが、体格も腕力も違う相手に羽交い絞めされた状態では何の意味もなかった。
黒髪は暴れるギソクを軽く引き寄せ片腕に閉じ込めると、ギジュンを見下ろし、そして――見せつけるよう、ギソクの首に注射針を打ち込んだ。
「!? お゛い、なにして」
「あ゛、く……ヒョ……」
黒髪は恍惚とした顔でギジュンを見下ろし、注射器の中身をすべてギソクに注入した。
ギジュンは弟が呻き声をあげて、目を回して失神するのを……ただ、見ていることしかできなかった。
「なに、何を打った……」
「あ?……おいちょっとまて、気絶してんじゃねえか。これ、上物じゃなかったのかよ?」
ギジュンのことなど気にもせず、気を飛ばしたギソクを抱えたまま黒髪は背後を振り返る。赤髪はそれを肯定し、「ヤク、したことねえのかもな」と顎を擦りながら答えていた。
「ジュウンのナンバーツーがドラッグもしたことねえなんて、プサン組では考えられねえな」
「……なんの、何の薬だ」
「だとよ、キムせんせ」
言い表せられない怒りを宿したままヨンドに目を向ける。
ヨンドはおかしそうに嗤って言った。
「私が説明しなくとも、ほら……弟さんを見ていればわかりますよ」
ヨンドが顎で指したギソクは、しだいに息を乱し、頬を紅潮させていった。見るからに苦しそうに悶え、黒髪にしなだれかかる。
――それを見て理解できないほど、ギジュンも裏社会を伊達にやってはいなかった。
「即効性の媚薬……弟さん、お気に召してくださるとよろしいのですが」
「ヨンド……!!」
耐えきれない憎悪がギジュンに声を荒らげさせる。
だが、問題なのはヨンドではなく、殺し屋二人だった。
「安心しろナム・ギジュン。美人はエロいほうがハメがいがあるからな。しっかり二人でかわいがって何日か楽しんでから、お前の前で殺してやるよ。……そうだな、食道にせり上がるくらい腹いっぱい精液飲ませてやったあと、しゃぶらせたまま俺のモノで窒息させる――ってのはどうだ」
「ハハッ、最高だな!」
「――……ッ」
最大限の侮辱に怒りで手錠が軋む。
しかし、黒髪はもうギジュンには用はないとそのまま息が乱れるギソクを再び台の上に運んだ。乱雑にそこへ投げ倒すと、上半身のスーツ切り裂いて、露になった胸に手を這わせる。
「あぁやべえ、男の胸の感触じゃねえ……!」と興奮しきった黒髪は力の加減もせずギソクの胸部を揉みしだく。意識はなくとも媚薬により感度が底上げされているギソクの胸は痛みに反応を示し、男らの興奮をより煽っていく。
「おいおい……ナム専務は乳首で感じるみたいだぜ?」
「嘘だろ……」
「たっぷり虐めてやらねえとなぁ? なあナム・ギジュン」
男は武骨な指先でギソクの乳頭を摘まむとグリグリと捻った。爪先で遊ぶように刺激してやると、んぅ、と小さくギソクが声を上げる。それがいけなかったのか、正面で見ていた赤髪が興奮し、ギソクの両脚を持ち上げ足を開かせた。
赤髪は足の合間に割り込むように膝をつくと、そのままギソクの胸にしゃぶりついた。じゅる、と生々しい音にギジュンは気が狂いそうになる。
その後も舌で執拗に胸を責められ、ギソクは眉間に皺を寄せながら、あ、ぅ、うと喘いだ。赤髪は気分を良くし、ギソクの股間を膝で刺激し、ギソクが身体を捩り頬が紅潮していくの様子を見て、歓喜の声をあげる。
「クソ、たまんねぇ……! 興奮して頭が爆発しそうだ……ッ」
「俺もだ……。初めて見た日からずっとめちゃくちゃにレイプして、よがらせてやりたかったんだ」
まさか、こんなにエロいとは夢にも思わなかったが……と黒髪はギラついた眼でギソクの耳に舌を捩じ込み、クチュクチュと音を立てて舐めまわす。そしてしばらく堪能したあと、耳たぶを強く噛んだ。ギソクはそれに、またんぅと小さく喘いだ。
琥珀を収めた長い睫毛が、与えられる快楽にふるふると揺れる。
やまない暴力的な愛撫のせいで、はぁ、は、と吐き出される熱のこもった吐息が、男らの欲を確実に煽っていく。
――ギソクの何もかもが、奴らの雄を挑発していた。
「なあ……あんたは参加しねえのか? ヤバいエロいぞ、こいつ」
呼ばれたヨンドは、怒りで震えるギジュンから眼を逸らし「『今日は』遠慮しておく」と返事をした。
「私はしっかりと意識を持ったギソクさんがいいのでね」
ギジュンは血の滲む唇を開き男を追及する。
「これ以上、ギソクをどうする気だ……」
ヨンドは再度ギジュンに視線を戻し、にこりと不適な笑みを浮かべた。
「知りたいですか?」
「ッ……!?」
――その表情は、これまで見てきた中で一番、惨たる狂喜に満ちた笑顔だった。
「完全に四肢を封じた弟さんをね、意識が鮮明になってるうちに、あなたの目の前でレイプしてやるんです。性欲処理の道具のように好き勝手に穴を使われて、揺さぶられて、大好きなお兄さんにその浅ましい姿を見られたくないと絶望に涙にくれる彼は……さぞ、美しいでしょう」
「なん゛……」
そう言いながら、ヨンドはカツカツと革靴を鳴らし、一歩一歩噛み締めるようにギジュンに近づいてくる。
そしてギジュンの前に立つと少し腰を折り、何の色も映していない瞳でギジュンを覗き込み、口を開いた。
「十一年前、助けが欲しくて私の下で啼いた――あの夜と、同じくらいにね」
「――は……」
ドッドッ……。
心臓の音が大きくなり、耳鳴りで世界から音が消えていく。
いま、何て、と尋ねた声は震えていた。
ヨンドは恍惚と言い放つ。
「ああ……知りませんでしたか? とてもかわいかったですよ、二十代の彼は。向こう見ずで、無駄に優しく、簡単に丸め込めて。『私にもリスクがありますからねえ、何か見返りがないとさすがに』そう囁くだけで、あなたの弟さんは簡単に脚を開いてくれた。ただ、お兄さんを救いたい一心で」
そんな若い彼を好き放題屈服させて嬲るのは、本当に気持ちがよかったですよ――そう続けて嗤った悪魔に、ギジュンの視界は激しくぶれた。
「~~……お゛え…っ」
スンウォンの情報欲しさにヨンドに初体験を捧げ、痛みに耐える弟の姿を想像し、ギジュンは激しい嫌悪感にたまらずその場に胃液を吐いた。
事の重大さに、自分の犯した失態に、ここまで聞いておいて、何もできない自分の無力さに耐えられずに。
そんなギジュンの背中を優しく撫ぜ、ヨンドは残酷にも言葉を繋げた。
「まあまあ、そう自分を責めることはないですよ、ギジュンさん。健気で愚かで、いとおしいじゃないですか。自分が、兄を苦しめるためだけに利用され、凌辱されているとも気づかずに、あんなに必死に媚び奉仕して……ああ、見せてやりたかった、あなたにも。弟さんが処女を喪失する瞬間を」
「――もう゛、やめろ……」
ギジュンはヨンドに対する猛烈な嫌悪と憎悪で、よもや頭を上げることさえできなくなる。
ヨンドはニタリと嗤い、ギジュンをさらに貶しめた。
「まあ、どうせあなたもここで死ぬんです。弟さんが散々辱しめられ、殺されたのを見届けたあと。そう気負うこともない」
だから、安心して弟がレイプされるサマを楽しめ。誰も責めない。なんなら加えてやってもいいぞ、お前も一度くらい、弟を欲のある目で見たことがあるだろうから。
そう告げてギジュンの頭を撫でたヨンドは、殺し屋二人に向きなおり、まだ殺すなよ、と嘲笑うようにつけ足した。
「わかってる、んなもったいないことするかよ」
「にしてもよ、エロくてやべぇよな……ハァ……ほんとにこれ現実か……?」
「好きに嬲ってやれ。実感が湧くまでな」
「こいつのデカマラでそんなことしたら壊れちまうだろうが」
「俺よりガチガチにおっ勃ててる奴が何言ってんだ」
もう我慢できねえ……と切羽詰まったように赤髪がギソクに馬乗りになり、自分のベルトに手をかけた。グロテスクなまでに膨張した肉棒を取り出して何度か扱き、意識のないギソクの口許に押しつける。
「ハァハァ……ッ、口でしゃぶらせたあと、ちゃんと顔にぶっかけてやるからな……っ、ナム・ギソク」
「やめ、てくれ……」
その辱しめる台詞を聞いて。
侵略されようとしているギソクを見て。――ついに、ギジュンは心が折れて涙を流した。
何でこんなことに、だとか、殺し屋どもに対する憎悪だとか、そんなものじゃない。
ギソクを穢されることを止められない自分の不甲斐なさ、そして、守ると誓ったはずのギソクへの罪悪感で、塞き止めていたダムが決壊してしまったのだ。
そんなギジュンを横目に、赤髪はギソクの口にペニスを挿入する。
だが、恨み続けた男の最愛の人間に無理やり口淫をさせようとしている、という視覚から入ってくる情報の破壊力に、赤髪は耐えきれずにその場で果てた。
「――ッ、あっ…く!」
ドピュドピュッと勢いよくぶちまけられた白濁は、眠りについているギソクの顔を盛大に汚した。
ギソクの美しい陶器の肌を、どろ、と垂れていく精液を見て、背後で見ていた黒髪はあまりの感動に「生きててよかった」と感嘆の息を洩らす。そして無防備なギソクの顔を後ろから捻り口づけて、力ない舌を弄んだ。
ぐちゅ、やらぬちょ、やらわざと水音を立ててギソクにディープキスする黒髪に、ヨンドが呆れて笑った。
「品がない。薬を盛っているんだ、酸欠になるぞ」
「ハッ、ならなおさら嬲んのやめらんねぇわ」
俺のテクニックで腰砕けにしてやるよ。
黒髪はそう言うと、ギソクの白濁まみれの頬を掴み口を開けさせた。
そして見えた赤い舌をわざとギジュンに見せつけるように吸い出すと、自らの舌でぬっとりと舐めてみせた。
そこから唇を合わせ、唾液を溢しながらギソクの咥内をぐちゅぐちゅと蹂躙する。
「ぅ……っん、は……う、んむ、っ」
「へへっ、どうだ、俺の唾液うめぇだろ? たくさん飲ませてやるよ」
黒髪はいったん唇を離したかと思えば、ギソクの口を開いたままで固定し、口の中で貯めた唾液をぽっかりと開いているギソクの舌目掛けて落とした。それだけでは飽き足らず、ギソクの顔に飛び散ってる精液を一部拭うと、口端から唾液を溢すギソクの舌を乱暴に掴み出し、それを、べっとりと塗りたくった。
「たまんねえ……見ろよナム・ギジュン! お前の弟に俺らの唾液と精液、味わわせてやったぞ!」
「――――」
次はちゃんとしゃぶらせて、喉奥にたんまりぶちまけて腹いっぱい飲ませてやるからな!
赤髪はそう宣言し、ギソクの前髪を乱暴に掴むと……ついに、口にペニスを突っ込んだ。そのまま無作法に腰を振りだす。
「ごっ……ぇっ、う゛っ……げっ、え゛っ……」
「あ゛~……やば、キモチよすぎる~……」
意識もないのにぐぼっと無理やり喉奥に性器を押し込まれ、射精するためだけに頭を揺さぶられ、ギソクは苦痛に生理的な涙を目尻からこぼしていた。それでもかまわず喉頭に挿し込まれ、引き抜かれ、それの繰り返しが延々と続けられる。
「がっ……お゛っ、……ごぷっ、うっ……」
「~~ッ……ぎ、そく」
まるで道具のように扱われ、男根をしゃぶらされ、喉奥を性欲処理として使われて、男としてどころか人としての尊厳さえもことごとく踏みにじられたギソクの姿に、殺し屋どもは口角を上げていた。
仇の最愛を穢し、犯している事実に。ギソクを通して、ギジュンの尊厳を砕いた現実に。雄としての支配欲と征服欲が満たされたとばかりに、奴らは恍惚とギジュンを見ながら、嗤っていた。
「……ッ、……」
――その、一連のあまりにも陵辱的な行為の数々に、ギジュンは絶望から大粒の涙を溢れさせる。
男らはそれに満足そうに笑った。腰を振っていた男はギソクの喉奥に射精し、精液を無理やり飲ませて「お前の弟の口は売春婦より最高だ」とギジュンを嘲笑う。そのまま男らは当然のようにギソクのベルトに触れ、下半身の衣類を暴いていった。
「そこで無様に見てろ? ナム・ギジュン。今からお前のかわいい弟にたっぷり種づけして、俺のチンポでよがらせて俺だけのメスにしてやるからよ!」
カチャカチャと外され、剥がれていくギソクの最後の尊厳。当の本人はこれから意識もないのに犯され、薬のせいで無理やり高められた身体を好きに凌辱される。
「……っ、ギソガ」
絶望のあまり、目を逸らす権利すらないのに、ギジュンはうつむきギソクから視線を外した。視界には、アスファルトに黒い染みを生んでいく己の涙が降り注いでいる。
──情けない、情けない……っ。俺は、護ると誓った弟すら救えない。
もはや泣くことしかできないギジュンを見て、ヨンドが肩をすくませた。
「あぁ、おい、そんなに泣くなよギジュナ。どうせ最後には楽になれるんだ」
「ッ……名前で、呼ぶな……」
「まあ……ナム専務の美貌は殺すには惜しいからな。お前の態度しだいでは私が誠意をもって、男を悦ばせられる雌に調教して種壺として生かしてやってもいい」

そう。これから、永遠に――。

ヨンドがそう言いきった瞬間、微かに建物が揺れた。
「!」
「……なんだ」
ギジュンは零れていく涙をなんとかせき止め、パラパラと舞い落ちてくる砂埃に目を向ける。何だ、地震か? と口にするヨンドを横目に、ギジュンは安堵で力が抜けてしまいそうになった。
――建物の揺れの原因が何か、わかっていたからだ。
次の瞬間、轟音に次ぐ爆風とともに階段のほうから光が落ちてきた。瓦礫と共に真っ直ぐ地面に突き刺さり、悪党三人の顔をスポットライトの如く照らし出す。何事だ! と叫ぶ殺し屋のひとりが、光の奥から放たれた銃弾を避けるためギソクから離れたのは、実に階段が爆破されてから三秒後のことだった。
「どこです、ギジュンさん!」
声の主は──ヘボムだった。
ギジュンの予想通り、ヘボムはずっと敷地内を探してくれていたのだ。
ギジュンは砂埃が舞うに、必死に目を凝らしヘボムを見た。彼の様子が、心配だったからだ。
――ヘボムも俺と同じく、ギソクを心より愛している。
そんな彼が救出に現れて真っ先に見たもの……それは――男二人に凌辱されている、ギソクの姿だ。
当然、何の迷いもなく頭に血が上る。
ヘボムは下半身を露出しギソクのスラックスを脱がそうとしていた赤髪を激昂のままに蹴り飛ばした。
ギジュンはそこで、手首の拘束が緩くなっていることに気づく。――ヘボムが階段を爆破した影響で飛んできた瓦礫が手錠に直撃し、左手側の鎖が歪んでいたのだ。
もう、迷いはしなかった。殺し屋は二人、それにヨンドまでいる。いくら銃を持っていたとしても、手練れの殺し屋二人の相手をヘボム一人にさせるわけにはいかない。
持てる力の全力で左手首の手錠を引きちぎった。手首がイカれたが、動かせないほどじゃない。問題は柱に固定されている右手の手錠だったが、ギジュンは息を吐き出し奥歯を噛み締めると、親指を内側に折り込んで全力で引き抜いた。
地面と壁に脚を置いて体重をかけて引かれたそれは、ボキッ! と骨が折れる音とともにギジュンに久方ぶりの自由を与えてくれた。
両手とも負傷していたが、わけなかった。
――シマネに殺されたギソクも、最期の瞬間、両腕を負傷して殺されていたから。
弟が死の前に味わった絶望に比べたら、こんなもの怪我の内にも入らない。
ゆらり、殺し屋を振り返る。ヘボムが対峙している赤髪ではなく、弟の頬を殴り髪を掴んで叩きつけ、薬を打ち込み、散々に凌辱した忌々しい男を。
黒髪も息を整えるのがわかる。ズボンに仕込んでいたのだろうナイフを逆手に持ち、本気の殺意を身に宿していくのが見えた。
こちらは丸腰で、両手に怪我まで負っているが、バットを取りに行く暇はない。――相手から得物を奪って仕留める、勝利のルートはそれだけだった。
ザッと靴とアスファルトが擦れる音が耳に入る。砂利を散らして駆けてきた男の第一撃を軌道に合わせて避けて、好きだらけの顎を下から粉砕する。ガハッ! と呻いてのけぞった無駄にでかい図体の腹部に体重をかけた蹴りを入れ、バランスを崩させた。
だが、そう簡単に倒れるようなら苦労しない。
体勢を立てなおしすぐさまナイフでギジュンの目を突き刺そうと、鋭いパンチを繰り出してくる。神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。前回なら頬をかすっていた攻撃も、男に対する底なしの憎悪がギジュンの能力を底上げさせていた。
「死ね……!!」
チンピラのように無作為に振るわれるナイフを、俯瞰で見下ろす。あの駐車場ではあんなに苦労したというのに、今では赤子を相手にしていると思うほどに動きがスローに見えた。
一瞬の隙をついて男の手首を殴りつけ、その腕からナイフを弾き飛ばす。足元を滑ったそれを取ればもうあとはいたぶって殺すだけだと視線を下へ向けたが、その視界の端で予期せぬものが映ってしまった。
殺し屋が劣性になるのを間近で見ていたヨンドがサッと顔色を変え、用意していたのだろう隠し扉に走り出したのだ。
さすがチャ・ヨンド。いつだって用意周到なのは変わらない。
だが、近くで見ていたギジュンは咄嗟に「ヘボム!」と叫び、彼の注意をこちらに向けさせた。
呼ばれたヘボムはヨンドの動きを見留め、赤髪を蹴り飛ばして距離を取ると殺気のこもった眼でヨンドを睨み、ヨンドの脚目掛けて引き金を引いた。飛んでいった弾丸は見事にヨンドの左膝を貫き、逃げる動きを封じた。
「う、ぐ……!」
無様に倒れたヨンドから視線を外し、ヘボムに目で礼を告げてギジュンは黒髪に再び向きなおる。どちらが先に床のナイフを取るかの緊迫した空気だったが、突然ヘボムが叫ぶ声が聞こえた。
「やめろ……!!」
「? なん、」
ヘボムは赤髪の攻撃を受け流すのが必死で、その場を動けないようだった。
何を、そんなに焦って――? ギジュンが反射的に視線の先を追う。
「……ッ」
息が止まった。――そこには、グムソンが手にしていたナイフを拾い、呼吸乱すギソクに向けて走り出すヨンドの姿が映っていた。
「お前らに、勝たせてたまるかァ!!」
「ギソク!!」
ギジュンはヨンドを止めようとその場を蹴ったが、目の前にいる黒髪がそれをよしとするはすがない。両腕を掴まれ壁に押しつけられ、身動きが取れなくなった。
「ぐ……っ」
ダメだ、ダメだこんな、手の届く距離にいて、お前を失うなんて――。
渾身の力で黒髪を振り払い殴り飛ばすが、ヘボムも邪魔され銃を撃てる状況ではない。どう考えても、ヨンドの振りかぶったナイフがギソクの心臓を貫くほうが速かった。
「ギソク兄貴……!!」
「ギソク……ッ」

ギラリと光ったそれは、血飛沫をあげて肉を貫いた。